哲学専攻クロニクル

中大哲学科の歴史

木田 元 

 私が中央大学文学部に専任講師として採用してもらったのは昭和三十五年、いわゆる六〇年安保の年である。したがって、それ以前のことはすべて伝聞情報であるが、それでもある程度の見当はつく。今の哲学科のメンバーには、もう駿河台時代のことを知っている者が誰もいなくなったので、それを知っている生き残りとして、哲学専攻のこれまでの歴史を素描しておきたい。

 新制度の中央大学文学部が成立したのがいつかは、はっきりは知らない。こんなことについては公式の記録があるのだろうから、それにまかせる。哲学専攻が発足したのは、どうやら昭和二十七年らしい。記録によると、北海道大学を定年退職された伊藤吉之助さんが昭和二十六年九月一日付で中央大学に着任しておられるから、この伊藤さんを中心に専攻がつくられたものであろう。伊藤さんを招いたのは今泉三良さんらしい。伊藤さんは、山形県の酒田市の出身で、永く東京大学文学部哲学科に主任教授として在任され、ご自分は本も論文もほとんど書かれなかったが、多くのすぐれた弟子を育てたことで有名な方である。東大を六十歳で定年退職されたあと、北海道大学に移られ、北大法文学部を――当然哲学科も――つくられた。その北大を六十三歳で定年退職されたあと、 中央大学にこられて、文学部に哲学専攻をつくられたということらしい。私も昭和三十五年に中大に就職した直後、斉藤信治さんのお供をしてご挨拶にうかがい、一度だけ拝眉の栄に浴した。東大でも北大でもひどくこわい先生だったそうだが、私がお目にかかったときには、病床にあってただニコニコしておられるだけだった。

 昭和二十七年の専攻発足時は、記録によれば、西洋哲学に今泉三良(中世哲学)、高瀬久太郎(近世哲学)、桑木務(現代哲学)、東洋哲学には鈴木由次郎(中国哲学)、布施欽吾(中国哲学)、田中於莵弥(インド哲学)と、伊藤さんをくわえて七人のメンバーであった。哲学出身でありながら、それまで法・経・商学部で一般教養科目や語学を教えていた人たちが糾合されたということであったらしい。このころは、全学部の一般教養科目の哲学と倫理学のすべてを、文学部哲学専攻で担当しており、当然非常勤講師も大勢依頼していたようだ。

 昭和二十八年に数江教一(日本思想史)、昭和二十九年には高木友之助(中国哲学)と斉藤信治(西洋現代哲学)がメンバーにくわわっている。高木さんは、言うまでもなく、のちに学部長、大学院委員長、学長、総長を歴任され、総長在任中の平成十二年二月十日に急逝された。斉藤信治さんは、伊藤吉之助さんと同じ山形県酒田市の出身、出身大学は違うが、若い頃から伊藤さんに師事しており、伊藤さんを追って北海道大学に赴任し、そこからいったん神戸大学に移ったが、ふたたび伊藤さんを追って中央大学にきたのである(と、少なくとも、ご本人は言っていた)。

 昭和三十一年に所雄章(西洋近代哲学)が専任講師としてくわわり、昭和三十四年には今泉三良さんが急逝される。伊藤さんもこのころ病床にあったので、その代わりのように、昭和三十五年に私こと木田元(西洋現代哲学)が専任講師として採ってもらう。私も山形県の出身、東北大学の学生時代から斉藤信治さんに――大学での師弟関係はないが――師事していた。その縁で採ってもらったのは確かである。

 中世哲学の今泉さんの後任には、昭和三十六年に北大を定年退職された(あるいは一年早く退職されたのだったかもしれない)武田信一さんが来任する。この年伊藤吉之助さんが他界される。昭和三十七年には山井湧(中国哲学)が助教授としてくわわるが、翌三十八年に武田さんが急逝される。武田さんは悠揚せまらざる殿様のような人で、北大時代の同僚だった斉藤信治さんが珍しく世話を焼いていたが、たいして有難そうな顔もしない。二年間しかおられなかったが、強く印象に残っている。山井さんもたった二年で、昭和三十九年には東大にもどっていった。このあたり出入りが激しかった。記録を見ると、もともとインド文学が専門だった田中於莵弥さんも、昭和四十年に早稲田大学に移られている。かねがねインド哲学の講義をするのを苦にしておられるようだった。

 昭和三十九年に、武田さんの後任として、東大を定年退職された桂寿一さん(西洋近代哲学)がこられ、いちおう安定したメンバーが揃ったことになろう。この時点では、メンバーは次の十人だった(年齢順)。

西洋哲学 桂寿一、高瀬久太郎、斉藤信治、桑木務、所雄章、木田元

東洋哲学 鈴木由次郎、布施欽吾、数江教一、高木友之助

 その後、昭和四十四年に桂さんが、ご病気のせいもあったが、半ばは大学紛争に嫌気がさされて、定年を待たずに退職され、しばらくのあいだ西洋古代中世哲学は、東大の斉藤忍随さんを非常勤講師にお願いして凌いでいた。熊田陽一郎さんに古代中世哲学担当の教授としてきてもらったのは、昭和五十一年のことである。その翌五十二年の元旦に、定年まで一年を残して斉藤信治さんが急逝される。

 斉藤信治さんはまことにユニークな魅力のある人柄で、教授会などは必要なとき以外はほとんど出席しなかったが、講義や演習には実に熱心で、しかもうまかった。著書の『哲学初歩』(創元社)は、いまでも四月になると神田あたりの本屋で平積みにされ、すでに五十刷を越えたロング・セラーの名著だが、この本でも斉藤さんは、本格的な哲学的思索を実に平明な言葉で展開してみせている。講義でも同様で、中大がまだ駿河台にあったころ、斉藤信治さんの一般教養の「哲学」の講義には、他学部や他大学の学生だけではなく、大学の近くの床屋や商店の親爺さんたちが入りこんで、うっとりと聴いていることで有名だった。私も暇があると盗み聴きをしていたが、かなりなまりのある言葉で、しかも落語のしん生のように絶妙な間をとりながら語られる講義は、思わず引きこまれるみごとなものだった。

 斉藤信治さんは本当に哲学の好きな人で、この人の話を聞いていると、哲学が面白くて仕方がなくなる。私も東北大学にいた十年間、夏休みと冬休みと年に二回欠かさず、酒田のお宅に帰省中の斉藤信治さんを訪ね、酒を呑みながらまるまる六時間くらい話を聴いて、仙台ではすりきれそうになる哲学への情熱をかきたててもらっていたが、その魔力が講義や演習を通じても放散されていたのだろう。大学院が新設されると、斉藤信治さんの魅力に惹かれて大勢の学生が集ってくるようになった。この人が中大の哲学専攻の歴史に一期を劃したことは間違いない。

 その斉藤信治さんが昭和五十二年に急逝されたことは前に書いた。大晦日にいつものように寝に就き、元旦にご家族が起こしにいったら眠るように亡くなっていたという。大往生と言っていいだろう。それに先立って、昭和四十六年に布施欽吾さんが亡くなられ、四十七年に鈴木由次郎さんが定年を迎えられた。昭和五十年には高瀬久太郎さんが、五十九年には桑木務さんと数江教一さんが定年退職され、専攻草創期のメンバーのほとんどがいなくなった。

 この間、昭和五十三年に中央大学の多摩移転があった。やはりこのあたりが、哲学専攻の歴史でも大きな転換期だったことになろう。この移転の前後、昭和四十七年に吉原文昭(中国哲学)、五十一年に熊田陽一郎(西洋古代中世哲学)、五十二年に宮武昭(西洋近代哲学)、五十九年に須田朗(西洋近代哲学)、六十一年に野崎守英(日本思想史)と新しいメンバーがくわわり、哲学専攻も一新した。昭和から平成に移るあたりでの専攻の構成員は次のとおりである。

西洋哲学 所雄章、熊田陽一郎、木田元、須田朗、宮武昭

東洋哲学 高木友之助、野崎守英、吉原文昭

 この体制がしばらく続いたが、やがて高木友之助さんが平成六年に文学部教授としては定年を迎える。もっとも、高木さんはその後も、平成十二年に急逝されるまで中央大学総長の職にあったので、始終研究室に顔を見せていた。続いて、所雄章と熊田陽一郎のお二人が平成十年、木田元が平成十一年に定年退職し、駿河台時代を知っていた者がみないなくなった。代わって、平成六年に宇野茂彦(中国哲学)、平成十年に土橋茂樹(西洋古代中世哲学)、中村昇(西洋現代哲学)がくわわり、メンバーは一新され、すっかり若返った。

 これが、中央大学文学部哲学専攻の今日にいたるまでのおおよその歴史である。

木田元先生

※本文は『中央大学文学部紀要哲学科』50周年記念号(通巻192号哲学科第44号 2002.2/15発行)から収録しました。

※写真提供 中央大学哲学科・哲学専攻

Department of Philosophy / Chuo University