中央大学文学部紀要-哲学
2007年第49号から、誌名が「中央大学文学部紀要―哲学科」から「中央大学文学部紀要―哲学」に変更となります。巻号はそのまま引き継がれます。
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― 最 新 号 ―
哲学 第66号 (通巻302号/2024)
言葉について――土橋茂樹先生を送る――(中村昇)
日本思想史未確立史(尾留川方孝)
西川如見の「水土」論と空間観念――熊沢蕃山・山鹿素行との比較を通して――(石橋賢太)
〔翻訳稿〕ジョン・B・ヘンダーソン《聖典、正典、そして注釈――儒教と西洋の釈義の比較》序(水上雅晴)
ニュッサのグレゴリオス『アブラビオスに宛てて』試訳(土橋茂樹)
アリストテレスの行為論におけるロゴスの分析的再構築――行為において感性を導くために知性はいかなる役割を演ずるか――(大山真樹)
アルベルトゥス・マグヌス『「原因論」註解』訳註(1)(小林剛)
ウィリアム・ジェイムズ『真理の意味「プラグマティズム」続編』訳解(4)(大厩諒)
哲学 第65号 (通巻297号/2023)
始原への/からの遡行――村井則夫先生を送る――(土橋茂樹)
哲学 第62号 (通巻282号/2020)
哲学 第59号 (通巻267号/2017)
超越と良心 ――須田朗先生を送る(中村昇)
須田朗教授 略年譜
「神秘主義:Mystik」というローレライの幻想――ローゼンベルク『二十世紀の神話』、南原繁、西谷啓治のエックハルト解釈からの検討(阿部善彦)
哲学 第57号 (通巻257号/2015)
哲学 第56号 (通巻252号/2014)
哲学 第55号 (通巻247号/2013)
六道輪廻観念の回避としての『霊異記』の地獄観念と死後理解――『冥報記』との差異からみる『霊異記』の独自性(尾留川方孝)
<研究ノート> ライプニッツ『アルノーとの往復書簡』――『襞』と関連づけながら(橋本由美子)
<研究ノート> バークリー『人知原理論』訳解(1)(宮武昭)
哲学 第54号 (通巻242号/2012)
意志の他律の構造(齊藤宜之)
ハイデガーの良心論(須田朗)
『易』の台頭から『周禮』の台頭へ(覚書)(井ノ口哲也)
『栄花物語』に描かれた貴族的浄土信仰とその基底――唯心思想に基づく呪術的念仏観・死体尊重・現世中心主義(尾留川方孝)
Construction of a City in Speech and Purification of the City (Tsuchihashi Shigeki)
都市の出来事(橋本由美子)
技術哲学の現象学的アプローチ――技術の制御可能性をめぐって(寺本剛)
哲学 第53号 (通巻237号/2011)
吉原文昭先生を送る(宇野茂彦)
吉原文昭先生略年譜
弱さ〔として/から〕の哲学(小須田健)
法身の憑依と現成(米田達也)
主観的経験の私性と直接性(寺本剛)
<研究ノート> 個体と不共可能な世界――ドゥルーズ『襞』から(橋本由美子)
<研究ノート> バークリー『ハイラスとフィロナスの三つの対話』訳解(4)(宮武昭)
哲学 第52号 (通巻232号/2010)
兆しの漸層法――予兆の観念と日本の現実主義(尾形弘紀)
ハイデガーのデカルト論(須田朗)
アルベルトゥス・マグヌスの生命論――『動物論』第16巻第1論考第7章と第11章(小林剛)
ライプニッツ――単純なもの・実体・統一(橋本由美子)
環境倫理におけるヨナス倫理思想の意義(寺本剛)
<研究ノート> バークリー『ハイラスとフィロナスの三つの対話』訳解(3)(宮武昭)
哲学 第51号 (通巻227号/2009)
見え、かつ見えない神――仁和寺蔵「僧形八幡神影向図」にみる神の表象の屈折(尾形弘紀)
アルベルトゥス・マグヌスにおける数学的量について(小林剛)
環境倫理における「弱い人間中心主義」(寺本剛)
<研究ノート> バークリー『ハイラスとフィロナスの三つの対話』訳解(2)(宮武昭)
哲学 第50号 (通巻222号/2008)
<哲学者とその影>の向こうへ(岡山敬二)
フッサールの自我論的問題設定とその成否(寺本剛)
都市と感受性(橋本由美子)
<研究ノート> バークリー『ハイラスとフィロナスの三つの対話』訳解(1)(宮武昭)
哲学 第49号 (通巻217号/2007)
蓮華三昧の思想(前)(米田達也)
私のいる空間――ハイデガーの空間論(須田朗)
物質と幻影(岡山敬二)
哲学科 第48号 (通巻212号/2006)
ヴァルター・ベンヤミンの経験概念(村岡晋一)
決定論における自由とデネットの哲学(渡邊博)
レヴィナス、他者を迎接する分離――「コギト」と「無限の観念」に照らして(橋本由美子)
哲学科 第47号 (通巻207号/2005)
野崎先生を送る(宇野茂彦)
野崎守英教授 略年譜
存在はレアールな述語ではない――カントの存在テーゼとハイデガー(須田朗)
あらゆる言語理解は非理解である――ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの対話的言語論(村岡晋一)
ホワイトヘッドの時間論の方へ(中村昇)
フッサール的身体の生身具合について(岡山敬二)
哲学科 第46号 (通巻202号/2004年)
常識と懐疑(宮武昭)
指示と同時性(中村昇)
倫理的なものの所在(小須田健)
ハイデガーにおける科学と「運動」(平田裕之)
喩の表現の探索――空海『声学実相義』冒頭部についての一つの注解(野崎守英)
哲学科 第45号 (通巻197号/2003年)
『性霊集』の空海の一面(野崎守英)
<白痴>は疑う(中村昇)
検証と文法(瀬嶋貞徳)
プラトン『リュシス』篇解釈の一視点(土橋茂樹)
属性は<統一>されるのか――『エチカ』第一部、定理9、定理10(橋本由美子)
哲学科 第44号 (文学部創立50周年記念) (通巻192号/2002年)
哲学専攻の五十年(中村昇)
文学部五十周年に際しての個人的思い出(熊田陽一郎)
中大哲学科の歴史(木田元)
若きヘルダーの歴史哲学(宮武昭)
キルケゴールの時間論(村岡晋一)
ハイデガー『論理学の形而上学的基礎』に見られる超越の概念――ハイデガーのカント解釈への一考察(須田朗)
手品師ウィトゲンシュタインは、かぶと虫の箱に魂を入れたのか(中村昇)
物は射映しない(二)(小須田健)
諸子以前(宇野茂彦)
"死"の問題についての素描――綻びを負う者としてある生きる者・死すべき者(野崎守英)
<価値語>論の一つのアプローチ(土橋茂樹)
哲学科 第43号 (通巻187号/2001年)
エウエーノスへの伝言――プラトーン『パイドーン』61B8-9(伊藤雅巳)
スピノザの特質――複数の実体のもとで(橋本由美子)
世界はどのようにして時間をとりもどせるか――シェリングの『世界時間論』(村岡晋一)
「記述」の文法(瀬嶋貞徳)
空海『秘蔵宝鑰』についての素描(野崎守英)
美とエロースをめぐる覚え書き(土橋茂樹)
哲学科 第42号 (通巻178号/1999年)
木田 元教授略歴
木田 元先生を送る(須田朗)
『哲学以外』の印象から――木田 元氏に(野崎守英)
「行為の問題」再考(宮武昭)
1929年夏学期講義に見るハイデガーの自己批判(平田裕之)
メルロ=ポンティにおける時間性の問題(小須田健)
「確実性」について(中村昇)
実在と文法(瀬嶋貞徳)
曾子の人物像について――曾子はどのやうに語られたか(宇野茂彦)
深秘釈と真言(米田達也)
居丈高な仮想論難者と戸惑うソクラテス――『大ヒッピアス』篇の一解釈(土橋茂樹)
哲学科 第41号 (通巻173号/1998年)
所 雄章先生を送る(宮武昭)
所 雄章教授略年譜
熊田陽一郎先生を送る(須田朗)
熊田陽一郎教授略年譜
『エチカ』第一部の定義をめぐる一考察――実体と属性の解釈を中心にして(橋本由美子)
ヒュームの懐疑主義と自然主義(宮武昭)
ある錯誤の歴史――ハイデガー『ニーチェ』への一考察(須田朗)
メルロ=ポンティのシェリング論(小須田健)
「超私性」(superprivacy)について――「語り得ないものについては、沈黙しなければならならない」(中村昇)
"見る"こと"聞く"ことが思想営為にかかわるいくつかの局面について――大平伍郎『「見る・聞く・知る」論序説』への応答としての対話(野崎守英)
哲学科 第40号 (通巻164号/1996年)
法曼荼羅の生成――空海における真言観の展開について(米田達也)
世界が見えているかたちについて――語り領域の諸位相(1)(野崎守英)
スピノザの属性について――スピノザとライプニッツを繋ぐもの(Ⅰ)(橋本由美子)
『判断力批判』「崇高の分析論」(23-29節)読解(須田朗)
ウィトゲンシュタイン『倫理学講話』をめぐって(中村昇)
哲学科 第39号 (通巻155号/1994年)
高木友之助教授の古稀を祝う(木田元)
高木友之助教授略年譜および著作目録
ディオニシオスにおける祈りと思惟(熊田陽一郎)
理り 言割り 事割り――三浦梅園『玄語』「例旨」「本宗」をめぐって――[日本の思想の姿と構造(3)](野崎守英)
物質の特性と時間――ベルクソンおける物質の pittoresque 性を手懸りに(田島由美子)
ヘルマン・コーエンとユダヤ教――『ユダヤ教の原典に基づく理性の宗教』の解釈をめぐって(村岡晋一)
<Als> 構造の位相(福田收)
『方法序説(第一部)』への<覚書>――<雑感九項>(所雄章)
最高の賢者の系譜(宮武昭)
哲学科 第38号 (通巻146号/1992年)
語りの諸層 人の諸層――日本思想の姿と構造 2(野崎守英)
デカルトにおける色と形(田島由美子)
ピュロニズムにおける行為の問題(宮武昭)
哲学科 第37号 (通巻141号/1990年)
歌の領分 神の領分――『万葉集』の場で(日本思想の姿と構造 1)(野崎守英)
落体の運動に関するデカルト的理解の動揺――デカルトの初期草稿における思想(2)(財津理)
統一と多様――ライプニッツにおける Materia とモナド(橋本由美子)
議論のはこび方について――ロックの一次性質と二次性質の区別に関する予備的考察(宮武昭)
以下「哲学科」36号~10号までは、哲学専攻と社会学専攻の隔号刊行となっています。
このページでは、「哲学専攻」号の目次を収録しました。
ご了承ください。
哲学科 第36号 (社会学専攻) (通巻137号/1990年)
哲学科 第35号 (社会学専攻) (通巻133号/1988年)
哲学科 第34号 (哲学専攻) (通巻129号/1988年)
死の香り 生の香り――日本思想の姿と構造への序(野崎守英)
物体落下の法則をめぐる二つの誤解――デカルトの初期草稿における思想(1)(財津理)
延長体から非延長体へ――ライプニッツの点に関する考察を手がかりとして(橋本由美子)
『純粋理性批判』の「歴史哲学」とフィヒテ、シェリングにおけるその展開(村岡晋一)
構想力と自由――カントの『判断力批判』(「美の分析論」)への一考察(須田朗)
ニーチェのアポリアとピュロニズム(宮武昭)
哲学科 第33号 (社会学専攻) (通巻125号/1987年)
哲学科 第32号 (哲学専攻) (通巻121号/1986年)
新プラトン思想による三位一体論の変容――「神名論」第二章の試訳と解説(熊田陽一郎)
懐疑と<コギト・エルゴ・スム>(財津理)
「古来の自由の知られたる掟によって」――『アレオパジティカ』評注(1)(小菅奎申)
カントの「存在論的証明」批判とその背景――D.ヘンリッヒ『神の存在の存在論的証明』に即して(須田朗)
フィヒテ哲学における批判と歴史――『全知識学の基礎』についてのフィヒテの二つの定義をめぐって(村岡晋一)
『省察』的用語の一考察――「praecise」について(所雄章)
哲学科 第31号 (社会学専攻) (通巻117号/1984年)
哲学科 第30号 (哲学専攻) (通巻113号/1984年)
桑木先生を送る(木田元)
「哲学の家」をめぐって――最終講義に代えて(桑木務)
桑木務教授略年譜及び著作目録
数江先生を送る(高木友之助)
中世人の美意識とモラル――佗びについての再論(数江教一)
数江教一教授略歴及び著作目録
偽ディオニシオス・アレオパギテース「神名論」第一章の試訳と解説(熊田陽一郎)
原始仏教における存在論――五蘊無我説について(高橋審也)
『思索私記』訳解・その4(所雄章)
哲学科 第29号 (社会学専攻) (通巻109号/1983年)
哲学科 第28号 (哲学専攻) (通巻105号/1982年)
ヒュームの奇跡論(小菅奎申)
前批判期カントの空間論(宮武昭)
「時間と存在」の章をめぐって(木田元)
『思索私記』訳解・その3(所雄章)
哲学科 第27号 (社会学専攻) (通巻101号/1981年)
哲学科 第26号 (哲学専攻) (通巻97号/1980年)
経験と哲学――1760年代前半のカントへの覚え書き(宮武昭)
陳亮の人と生活(吉原文昭)
『思索私記』訳解・その2(所雄章)
哲学科 第25号 (社会学専攻) (通巻93号/1979年)
哲学科 第24号 (斎藤信治教授追悼号) (哲学専攻) (通巻89号/1978年)
斎藤信治さんの事ども(桑木務)
故斎藤信治教授略歴並びに主要著訳書
メルロ=ポンティと「制度化」の概念(木田元)
偽ディオニシオス・アレオパギテースの「神名論」――その構造と内容(熊田陽一郎)
「経験の沃野」の中へ――1750年代のカントへの覚え書き(宮武昭)
『思索私記』訳解・その1(所雄章)
哲学科 第23号 (社会学専攻) (通巻85号/1977年)
哲学科 第22号 (高瀬久太郎教授退任記念号) (哲学専攻) (通巻81号/1976年)
ニーチェのキリスト教解釈(斎藤信治)
『メディターティオーネス』と『メディタシォン』(所雄章)
高瀬久太郎教授略年譜並びに主要著書・論文
哲学科 第21号 (社会学専攻) (通巻77号/1975年)
哲学科 第20号 (哲学専攻) (通巻73号/1974年)
プラトン論攷――哲人王の思想をめぐって(桑木務)
唐代春秋三子の異同について(吉原文昭)
哲学科 第19号 (社会学専攻) (通巻69号/1973年)
哲学科 第18号 (哲学専攻) (通巻65号/1972年)
ニヒリズムに就て(斎藤信治)
現象学と弁証法(木田元)
揚子法言五臣注引書攷(高木友之助)
哲学科 第17号 (社会学専攻) (通巻60号/1971年)
哲学科 第16号 (哲学専攻) (通巻56号/1970年)
禮記子本疏義残巻考文(鈴木由次郎)
中世芸道における人間修行の問題――その一、茶の湯における一期一会ということ(数江教一)
哲学科 第15号 (社会学専攻) (通巻53号/1969年)
哲学科 第14号 (哲学専攻) (通巻51号/1968年)
サルトルの作家論における世界内存在(斎藤信治)
メルロ=ポンティと構造の概念――覚え書(木田元)
カントとヘーゲル――カントの道徳論に対するヘーゲルの批判について(小山丁一)
哲学科 第13号 (社会学専攻) (通巻47号/1967年)
哲学科 第12号 (哲学専攻) (通巻42号/1966年)
学問の論理と倫理(桑木務)
佗茶源流考(数江教一)
哲学科 第11号 (社会学専攻) (通巻39号/1965年)
哲学科 第10号 (哲学専攻) (通巻35号/1964年)
<遺稿>愛の形而上学――序論 愛の弁証的性格(武田信一)
カントとヘーゲル――数学的二律背反をめぐって(斎藤信治)
法言の研究――その著作の動機について(高木友之助)
顧炎武の学問――「明学から清学への転換」の観点から(山井湧)
武田君と私(桂寿一)
武田教授略歴・著作目録
以下「哲学科」9号から創刊号までは、哲学専攻・社会学専攻が担当しています。
哲学科 第9号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻31号/1963年)
プラトンとプロティノスのエロス論(武田信一)
生の世界の現象学――メルロ・ポンティのフッサール解釈(2)(木田元)
利根水域総合調査中間報告
地域社会学への基礎的考察(田野崎昭夫)
社会学的現実主義(宇津栄祐)
哲学科 第8号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻25号/1962年)
新聞と輿論(樺俊雄)
ドヤ街居住者の生活構造(那須宗一)
現代における合意の構造(佐藤智雄)
「純粋理性批判」における<偶然性>の概念の意義(所雄章)
哲学科 第7号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻22号/1961年)
カントの永久平和論(斎藤信治)
生世界の現象学――フッサールからメルロ・ポンティへ(木田元)
人間行動の基礎理論(世良正利)
「鹽鐵論」にあらわれた桑弘羊の経済思想について(高木友之助)
都市社会学における生活構造の諸問題(宇津栄祐)
クーリー社会学の一側面(田野崎昭夫)
フランス思想のラテン・アメリカ西漸(加藤正泰)
哲学科 第6号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻18号/1959年)
文化心理学の方法論(城戸幡太郎)
エックハルトの神秘説と禅(高瀬久太郎)
正法眼蔵の時間論(数江教一)
十七世紀的物体観の問題――「物体は延長である」といふテーゼを繞って(所雄章)
信頼の意義(O.F.ボルノー/橋本文夫・訳)
故今泉三良教授を悼む 高瀬 久太郎
故今泉教授略歴
故今泉教授主要著作目録
哲学科 第5号 (哲学専攻・社会学専攻) ※社会学論文のみ (通巻13号/1958年)
哲学科 第4号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻11号/1958年)
ハイデガーのヘーゲル解釈(斎藤信治)
禮記子本疏義残巻考文序(鈴木由次郎)
世代の対立と年令階層の社会的転位に就いて(那須宗一)
愚管抄の史観と末法思想(数江教一)
哲学科 第3号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻8号/1957年)
「志士」の構造(綿貫哲雄)
老人の社会病理(那須宗一)
韓非子法術論と老子(布施欽吾)
真理の問題――学問論の一環として(桑木務)
演劇教育の心理学的基礎(世良正利)
哲学科 第2号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻5号/1956年) 残部僅少
卦爻辞研究(鈴木由次郎)
中世主従道徳の性格について(数江教一)
「コギト」の立言の論拠に関する考察(所雄章)
オフィスワーカーの意識構造(佐藤智雄)
放送教育論(加藤正泰)
哲学科 第2号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻5号/1956年) 残部僅少
卦爻辞研究(鈴木由次郎)
中世主従道徳の性格について(数江教一)
「コギト」の立言の論拠に関する考察(所雄章)
オフィスワーカーの意識構造(佐藤智雄)
放送教育論(加藤正泰)
哲学科 第1号 (哲学専攻・社会学専攻) (通巻2号/1955年) 残部僅少
井上哲学の一面――現象即実在論(伊藤吉之助)
十翼論攷(鈴木由次郎)
実存主義者の時局観(斎藤信治)
社会学と歴史(樺俊雄)
日本社会における家族の社会意識(桜井庄太郎)
都市生活と暴力集団について(那須宗一)
Department of Philosophy / Chuo University