DAS04_3_j

CRESTプロジェクト

デバイスアートシンポジウム 「タマゴが先か、ニワトリが先か?──コンセプトとテクノロジーの関係を考える」

パネル・ディスカッション「タマゴが先か、ニワトリが先か?──コンセプトとテクノロジーの関係を考える」

2006年6月21日@秋葉原UDX6F:カンファレンス・ルーム

草原:では、このあたりからディスカッションに入ってゆきます。先ほどのウスマンさんのプレゼンテーションに対するリアクションもあれば、各パネリストのプレゼンテーションに対するご意見もあると思います。そのあたり、聞きたいことや言いたいことを自由にお話しいただければと思います。では最初に、パネリストの皆さんのプレゼンを受けて、ウスマンさんの方からコメントをお願いします。

ハック:先ほどのプレゼンテーションで皆さんの活動を一通り見せて頂いて、多くのプロジェクトに共感を覚えました。私がいつも考えていることにとても近い問題を扱っているからです。特に八谷さんの『ThanksTail』は、非常に面白いですね。“ありがとう”と言えるから、というよりも……シンプルなデバイスでありながら、どんなことでも表現できるからです。“ありがとう”だけでなく、まったく新しい言語体系を作り出せる可能性を秘めていますよね。尻尾をサッと下に降ろすときは“なんだお前、感じ悪いぞ!”、パッと上に向けるときは“君、カワイイね。電話番号教えて”というように……。とても簡単なシステムで、今までになかったコミュニケーションの場が広がる。

これまでのプレゼンテーションのなかで、テクノロジーとアートの関係というものが何度も議論されてきました。私はその度に、アート/テクノロジー/デザインの定義について考え込んでしまいました。それぞれの言葉のおおよその使われ方は把握しつつも、割り切れない気持ちが残るというか……。私自身、自分のことをアーティストだとは名乗っていません。人からアーティスト(artist)と呼ばれるのはかまわないのですが、自分では建築家(architect)だと名乗っています。でもアーティストの人たちからは多くを学びました。アートのプロセスから得るところが最も多いと思うのは、作品を自分の手で実際に作り上げていく作業ができるということです。建築の世界ではあまりないことですから。

私にとってテクノロジーは、社会的な概念です。テクノロジーはデバイスの中に存在しているのではない。そうではなくて、社会がモノに与える意味合い自体がテクノロジーなのだと思います。だから、アートは常にテクノロジーと密接なつながりがあったと言えるでしょう。例えば500年ほど前、遠近法の研究のために開発された技術は、その後の絵画の技法に大きな影響を与えました。当時のアーティストたちも、その時代の最先端技術に興味津々でした。もうひとつの例は……美術史にあまり詳しくないので、正確な事実かどうかは自信ありませんが……ある時点まで、インディゴの絵の具は存在しなかったそうです。インディゴの顔料が開発されると、アーティストたちは“新しい青色を使ってみよう!”と、飛びつきました。アーティストがテクノロジーを利用する理由は、テクノロジーというものが、その時代特有の社会のあり方を映し出しているからだと思います。

メディア・デザインの理論家であり、ソフトウェア開発者としても活動しているマシュー・フラー(Matthew Fuller)は、"not-just-art"というフレーズを使っています。このフレーズの対象には、ハックティビズムや、コンピュータ・アート、テクノロジー・アートまでが入ってきます。ニワトリと卵のどちらが先か、コンセプトかテクノロジーのどちらが先か、という問いを立てるときも、やはり定義の問題にぶつかるような気がします。コンセプトとテクノロジーを別々のものとして捉えることは、心と身体、あるいはリアルとバーチャルを分けてしまうのと似たような発想だと思います。これらは渾然一体となっていて、切り離せないものです……少なくとも私はそう考えます。

今の時代、アーティストとテクノロジーの関係は昔とはだいぶ違ったものになっています。と、言うのは……100年前なら、人間が生まれてから死ぬまでの間、世界はそんなに変化しませんでした。技術的な進歩もごくわずかで、社会構造も大して変わりません。でも最近では時代の変化は目まぐるしくて、10年も経てばまったく違った世の中になっています。だからこそ、アーティストやデザイナーたちは、こういったことに興味を持ち始めたのだと思います。アーティストは、社会をハックする人種です。社会を理解するために、それを解体して、新しい表現として提示し、社会に何らかの影響を与えようとします。近年になって、テクノロジーの社会的な意味を問い直す議論が盛んになっているのは、こうしたことが背景にあるのではないでしょうか。そして、アートはそれを実践する場となっているのだと思います。

草原:我々が考えていこうとしていることのひとつに、その「テクノロジーの社会的な役割」ということが当然あるわけです。たぶんそれは、皆さんそれぞれにもあると思いますので、もうマイクを回して……自由に発言してもらえますか?

3.1●デバイスアートは本当に「アート」なのか?

八谷:さっき説明しそびれた話があるので、先にいいでしょうか? 個人的に「これは作品だ」と強く思うのは、作者と作品が「1対1対応」できるものなんです。例えばウスマンさんご自身は「自分のことをアーティストだとは思っていない」みたいな話もありましたけれど、一連のウスマンさんの作品には、やはりウスマンさん独自のトーンやカラーみたいなものがあるのです。例えば絵画の例で言うと、ゴッホの絵とピカソの絵がバラバラに混ぜてあったとして、人はそれらをけっこう簡単に分別できると思います。

そういう意味でいうと、例えばさきほど「ロコモーション・インターフェイス(Locomotion Interface)」や『クロノス・プロジェクター』の話が出てましたが、アートの人たちから見ると、あれらは作品には見えない。つまりアートワークだとは思われない気がします。

僕は《デジスタ》(デジタル・スタジアム)というところで審査員をやっているのですが、例えば『クロノス・プロジェクター』は《デジスタ》の大賞を取れませんでした。それは何人かの審査員が「これはアートワークじゃない」と判断したからです。

たしかに『クロノス・プロジェクター』は、いわゆる“アートの作品”ではないと思う一方、“アートの作品”ではなくても“作品”としては成り立つとも思うんですよ。例えば「ロコモーション・インターフェイス」を見ていて何か健気な気持ちがするというのは……それはAIBOとかを見ていても、非常に「健気だなあ、コイツ」と思う時はあるのですが(笑)、それと似たような感じで、何か別の領域の作品として成立しているのではないでしょうか。

ですので、我々は“デバイスアート”と名乗ってやっていますけれど、個人的にはあまり強引にそれを「アートだ」と言い張らないほうがいいんじゃないかと思っています。先ほどの最後の質問で「(デバイスアートとされているものは)西洋的なアートの範疇に入るのか?」みたいな非常にコアな質問が出ましたけれど、そういう立場から見るとアートには見えないというのも、僕は理解できるのですが、そのあたり、どうお考えでしょうか?

岩田:八谷さんはコンテンポラリー・アートの世界でも十分通用し、高い評価をなされている作品を作られているので、どちらかというと従来的な意味でのアート……ピュアなアートの見方ができる人だから、たぶんそういうふうに言われるのだと思います。

デバイスアートという名前に“アート”とつけたのは、もしかすると間違いなのかな? というのは、私自身も思うことがあります。ですが、そういうコンテンポラリー・アートの世界の枠で言われてきたこととは、おそらく違ったことが、そこから出てくるのだというふうに思っています。ある意味では、コンテンポラリー・アートに近い作品もデバイスから生まれてくるとは思いますが、究極の目標は、それ(従来的なアート作品)とはちょっと違った方向ではないかと思います。

いみじくも先ほど、八谷さんがホワイトボードの上で(デバイスアートの領域は)「テクノロジーとデザインの方ではないか?」というご指摘があったのですけど、おそらくはアートとデザインが重なり、混ざり合う、そういったところがデバイスアートのあるべき姿かな、というふうに私は思います。

八谷:何回も言って恐縮なのですが、ひとつ思ったのは、このデバイスアートがめざしているのは、例えば産業化だったり、非常にジェネラルなものだったりするじゃないですか。そういうものは、むしろデザインの世界がめざしているものと近いのではないかな、と思うのです。

ただ、僕自身は“デバイスアート”というカテゴリの名前は気に入っていて、これが“デバイスデザイン”だと、なんかデバイスをデザインするみたいでちょっと(笑)……。だから、名前のつけ方としては“デバイスアート”というのは気に入っているんですけどね。

草原:私も一言割り込みますと……デバイスアートという名前や領域をどういうふうに決めていくかをディスカッションした時、アートというものの古典的定義から言ったら、「デバイスがアートだ」とか「デバイスであるアート」というのは、定義的に存在し得ないはずなので、逆にこれは面白いのではないか? ということで、そういう名前にしたという経緯がありました。むしろ矛盾を孕んでいる方が、これからディスカッションしていく意義があるのではないか、ということだったのです。

稲見:先ほどの八谷さんのご意見で「作品と個人が1対1で対応できるものがアートかもしれない」という話をされていたのですが、例えば岩田先生が毎年研究成果を発表されていらっしゃるわけですが、私の目から見ると、実はそこにも作風があるというか「この研究成果は大変、岩田先生“っぽい”」ということがあります。つまり同じ分野の人から見ると「これは岩田先生“っぽい”けど、こちらは岩田先生“っぽくない”」みたいなことがあるわけですね。

つまりそれは……例えば全然自分が好きではないジャンルの音楽を聴くと、どんな曲でも同じように聞こえてしまうように……きちん作品を、もしくは作品の作り手を見ていると、実は今まで言われてきたような「1対1対応するところ」というのはあるのではないか。そういう意味では、デバイスアート的な感覚と言いますか、1対1対応するような領域でアートと言われてきたものを、もう少し広げていってみましょう、という言い方にもなるかと思います。

私が勝手に考えた岩田先生の“作風”ですと、一年置きに作風の微妙な繰り返しがある、とか、そういうところも含めて、今までデザインと言われて作られてきたものでも、個人と繋がる部分があるのかな、という気がしています。

児玉:私は、八谷さんのやっている活動はすごくアート的だなと思っていて、それは社会に与えるインパクトという意味でもそうだし、八谷さん自身のパフォーマンス/行為の過激さ(笑)が、コンテンポラリー・アートだなあと思います。

科学技術に影響を与えたいという意味で、このCRESTのプロジェクトには「表現系科学技術の創成」というタイトルがついていますが、この「表現系科学技術」という言葉自体、ほとんど耳にする機会がないので、そういう言葉が社会にもっと認知されていってほしいな、という気持ちを私自身は持っています。

これは余談ですが、一昨日の夜中の2時頃、恐ろしい夢を見て目が覚めてしまったんですが、それはテポドンが自分の家に落ちてくるという夢でして……(笑)。つまり、武器に関する話題や戦争に関するテクノロジーはニュースを賑わせ、人の夢に出てくるくらいだけれど、かたや「表現系科学技術」なんて言葉はどこにも出てこない……なので、みんなの関心が少しでもそちらの方(科学技術の開発を、戦争ではなく芸術文化に使う方向)に向くように頑張りたい、というのが、そもそもの私の気持ちです。

草原:先ほど八谷さんがおっしゃっていた「別にアートじゃなくても、コンセプトというものがあるわけであって、そこは分けて考えなくてはいけない」というのは、非常に重要だと思うんですよね。それはデザインでも、エンターテインメントでも……。

八谷:そうですよね、デザインにだってコンセプトはあるし、テクノロジーにだってコンセプトはある。だから、岩田先生の研究には岩田先生のトーンがあって、ある論文集の中でも岩田先生の論文は見れば一発で分かる……みたいなことは、きっとあると思うんですよね。コンセプトというのは、もともとそういうところにくっついているものではないかという気もします。

3.2●作品制作におけるコンセプトとテクノロジーの関係

草原:そこでのコンセプトとテクノロジーの関係がどうなのか、というのが、今日の「タマゴが先か、ニワトリが先か?」ということで……生物学的な話とは別に、これを考えてみたかったのですが、どうなのでしょうか?

アートの場合だったら「コンセプトが先にあって、そのために必要な技術を自分でサーチして、こういう作品を作りました」と言わないと許されない、とか。例えばデザインやエンターテインメントだったら、テクノロジーから発想したと言ってもそれでOKなのか。あるいはアートの場合にも、実際には児玉さんの「磁性流体」などは、ああいうものがあるということを知らなかったら、たぶん作品自体のコンセプトというのは出てこなかったのではないかと、普通は思うのですが……そのへんどうなのか?

あるテクノロジーが存在している/それを知る、というプロセスと、作品として「こういうものを作りたい」というイメージ、あるいはアイディアがある、それがどういうふうに結びつくのか? その段階でもちろん、そのままテクノロジーが即コンセプトに結びつくわけでもないと思うのですが、それではテクノロジーの役割というのは何なのか。いかがでしょうか?

児玉:さきほどウスマンさんが「渾然一体となっていて、どちらが先かということは言えない」とおっしゃっていたのですが、それには私も同感で……「言葉」も、道具ですよね。すべての人間の発想の源というのは「何か道具を使ってさらに先に進んでいく」ことを常にしていると思います。だから、道具は物理的なデバイスの時もあるし、もっと抽象的な概念の場合もあると思うのですが、その「何か道具を使って、さらに考えを先に進めていく」ということは、非常に一般的なことだと思うのです。道具とは進むのに不可欠なものであると……。

草原:極端に言えば「言語」だって道具であるわけだから……。

児玉:はい。ただ、それが言語であれば……抽象性の度合というか……たとえば数学は抽象的なものですけれど、イメージの場合はすごく多義的ですよね。「アート活動というのは、色々な読みを可能にするものだ」ということは、私もまったく同感で、基本はひとつの読みしか許さない厳しい科学の世界と、その一方には、十人十色の読み方ができる豊かな創造の世界(アートの世界)というものがあって、その「豊かさ」というものがどのくらいあるのかというのが、やはりアートとしての重要なところだと思います。

草原:そうすると、その「色々な読み方ができる」というものの中には、アーティスト本人が自分で読んでいる読み方もあるけれど、他の人がそれに付与して読む、という読み方も出てくるわけですよね。

児玉:はい、そこが「一発屋」の話に結びつくのだと思うのですが……。

八谷:何ですか、その「一発屋」の話って?

草原:事前のメールでのやり取りで私が書いたことなのですが、要するに批評する側/アートを審査する側が作品を深読みし、意味が付加されて、それによって持ち上げられる作品というのは(多かれ少なかれ)あると思うのですよね。ただその時、アーティスト自身が思考的な強度を持っていないと、結局その引き上げられた「一発」で終わってしまう。つまり「一発屋」になってしまう、と。 だから色々な作品を作って、その中で自分のコンセプトとか、自分の持っている色々な考え方を様々な角度から出していける、それを上手に人に伝えることができるアーティストというのは、人に様々な“読み”を許すにしても、自分のコンセプトやモットーを確実に持っている作家であろう……というような話が、児玉さんとのメールの遣り取りの中で出てきた「一発屋」の話でした。

児玉:それについて私が思ったのは……それはアートの経済にも関わってくることで、つまり「なぜ一発屋ではいけないのか?」の理由です。現代のアーティストには、作品を売り買いするその市場性……「この作品はさらに値上がりするだろう」とか「この作家はアーティストとして、どのくらい価値が高くなるか」などと思って、ある作家の作品を買うアート・マーケットというものがあり、それがアーティストの人生を計る、あるいは、そのアーティストがどれだけのエネルギーを作品に投入している人なのかをそこで見極めるわけですよね。

でも、たしかに「作品の価値がどれだけ上がるか」という視点からは、アーティストは一発屋ではいけないけれど、もしも、そんなことは別にどうでもいい、マーケットとはかかわりが無いというのであれば、別にそれが一発屋の作品であろうとなかろうと、かまわないのではないか……と思ったのです。作品の背後のアーティストを吟味する視点は、意識する/しないに関わらず、経済的視点と表裏一体であるということです。

八谷:何か具体的な作品が念頭にあったりして恐縮なんですが(笑)、さっき《デジスタ》の審査で大賞を逃した作品の話をしましたが、それはその時の審査員の見解として(それは僕もそうだったのですが)「この人は一文無しになっても作品を作るかどうか?」という判断が、けっこう基準だったりするんですよね。

最近は大学の機材ですごく高度な作品を作って、作家が出てくるという例もあります。もちろんそれでいい作品ができていればそれでいいという考え方もできます。その一方で「手元に機材やお金がなくなったら、作品を作らない」というタイプの人を、本当の意味での作家と言っていいのだろうか?という疑問もあります。

だから、最後の最後に大賞を選ぶ時には、「この人はアーティストか?」といいますか……いや、別にアーティストでなくてもいいんですけれど……何かモノを作ろうという強い意志を持っている人なのかどうかを、僕ら《デジスタ》の審査員たちは最後のよりどころにしようとするところがありますね。

また、そのあたりが「アートかどうか?」ということに関しての、僕なりの定義だったりもします。つまり、作品を作り続ける気があるかどうか……。 だから、結果的な一発屋であっても全然かまわないと思うのですが、本当に作り続ける気のある人は、最終的には一発屋で終わらないのではないか、とも思うのです。

草原:それはアートに限らず、アニメなどついても言えることだから「クリエイターと言えるかどうか?」って話にも関係しますよね。

3.3●デバイスから芸術作品やコンセプトが生まれるのか?

八谷:そうですね。一方で、ちょっと話を戻しますと……、デバイスから作品を作ることも実際にはあり得るでしょう。個人的にも、例えば『視聴覚交換マシン』は、ビデオ・トランスミッターとカメラで遊んでいて発想した作品ですし『見ることは信じること』も、リモコンの赤外線LEDがカメラを通すと見えるということに気づいて、それが発想のスタートだったりします。だからトリガーとしてテクノロジーが……特にデバイスそのものの持っている性格が、何か作品のアイディアを引っ張り出すことは十分ありうるし、僕らがそういうものをめざしてもいいのではないかと思っています。

草原:それでいうと、稲見さんの透明人間になったりする作品も、普通は工学系なら技術のデモンストレーションとして見せて、それで終わり、となるものが、なぜそれが……あれはアートではないとしても、コンテンツにはなっていますよね……そちらの方に発想が行くのか? そのへんのところはどうでしょうか。

稲見:そこがまさに「テクノロジーとコンセプト」の関係になってしまうのかもしれませんね。どうしてそちらに行くのかというと……例えば論文などを書くとき「最初に何か目的があって、こういうメソッドがあって、最終的に結果が出ました」というフォーマットで書きなさい、というふうに教育されるわけですが、実体はどうであるかというと、それは最後にフォーマットに流し込まなくてはいけないのでそうしているだけで、順番としては、そういうものをふと作りたくなってしまうとか、もしくは、それがうまく動いている絵が見えてしまったとか……そういうところが最初に頭にあって、その中を落としていく時に、後から順番に考えていく。

つまり実際にモノを使って色々と遊んでいるうちに気がついてしまったこと……先ほどの児玉先生の磁性流体を見ながら「これはウニだ」とか名前をつけてしまったように、同じように「再帰性反射材」で遊びながら、「これは透明になる」ということに気がついた。たぶん、その逆の流れもあったのかもしれない。それは、今回のデバイスというものに関わった「モノを使って考える/発想する」というところにも、もしかすると共通するところがあったのかな、と思いました。

岩田:今日のテーマの「コンセプト」は、アーティスティックなコンセプトを念頭に置いたものではないかと思います。そうでないと議論を絞れませんので……。で、アーティスティック・コンセプトとテクノロジーの関係というのは、たぶん色々な議論があって、もしかしたらピュアなアーティスティック・コンセプトがデバイスから出るというのは、難しいのかもしれない。でも、場合によっては可能かもしれない。そういうことではないかと思います。

一方で、デバイスアート全般を包括しているものというのは、アーティスティック・コンセプトとはまた別のところで……何と言ったらいいか分からないけれど……「ただならぬもの」を感じさせるところ、それができるか/できないかということにポイントがあるのではないでしょうか。

再三例に出てきました『クロノス・プロジェクター』も、それなりに「ただならぬもの」を感じさせますよね。だから、あれがメディアアートかと言われたら、もしかしたら疑問が残るのかもしれないけれど……何からの「ただならぬ」感じというのはあって、もしかしたら別の人があれを使って、また別の凄いものを作ってくれるかもしれない。そのあたりの包括的なムードが、ひとつには重要なのではないでしょうか。

で、その根底にあるのはやっぱり、作り手のある意味での「情念」ですよね。「オレは絶対これをやるぞ!」という……。そういう情念がなかったら、たぶんその「ただごとではない」感じというのは出てこないと思います。

逆に言うと、研究室のすごい機材を使ってできるものというのはほとんどの場合、たいしたものではないのですよね。どこの研究室でも、巨費を投じて作ったものというのは、結果としてあまりパッとしなくて、その残りもので作ったのだけれど「これ、凄いね!」とか「すごく面白かった!」とかいう場合が、けっこうある。そのあたりで、やっぱりその根本にある情念がどれくらい外に滲んでくるか、そのあたりがポイントなのではないでしょうか。

草原:今日の主旨としては、アーティスティックというところにあまり拘らなくていいというか、むしろアートという概念自体を我々が問い直している部分があるわけですから、それはもう、デザインとかガジェットとか、そういったところも含めて考えてゆく。例えば八谷さんの場合、これはデバイスアートではないけれど、『PostPet』は、商品として出すことを想定して作っているわけですけれど、その背後には明らかに、八谷さんがそれまでにやってきたことが反映されていますよね。そういう部分も含めて、一見テクノロジーに見える部分でも、そういうインパクトがあるということは考えてもいいと思います。

もうひとつは、例えば『ロボット・タイル』がアート系の人たちに強烈な印象を与えたというのは、それ自体がアート作品でなくても、次の世代のアートを予感させるようなもの……つまり、今のアートを規定している既成の技術体系とか「技術的な装い」を破ってみせるようなユニークな技術や逆転の発想に、やはりアーティストは興味を示すのではないか、と。

3.4●「作品制作は苦闘の連続だ!」

ハック:私は「デバイスアート」というフレーズがとても気に入っています。曖昧さがないのがいいですね。「デバイス」というものがあって「アート」というものがある……非常に分かりやすい。アート/デザイン/テクノロジーという3つの区分では、中間領域が広い。それに比べて、「デバイス」と「アート」では互いにかぶる部分が少ない気がします。なので、自分がこの分野でどの辺りに位置するのか、立ち位置を見極めやすい。例えば、私の場合だったら「モノそれ自体よりも、モノの不在に興味がある。デバイスそのものよりも、それを使って見えない領域を可視化することに惹かれる」というように。

でも、この2つの単語が並んでいると、ふと考えさせられることがあります。デバイスは通常、人々の利便性のため、ものごとを簡単にするために存在しています。しかしながら、アートを生み出すことはいつだって苦闘(struggle)の連続で、大変な苦労が伴うのです。最近では、クワクボさんのプロジェクトや、私の『ローテク』(Low Tech)のように、「アートの制作を容易にするためのツール」としての作品が増えてきているように思います。でも、はたしてこの傾向は、アートにとって良いことなのか悪いことなのか? ひょっとしたら、面白いものを生み出すためには、困難さが大事なのかもしれません。

岩田:今、ウスマンさんの方から「アートは"struggle"だ」というご指摘がありましたが、まさにその通りだと思います。もちろんテクノロジーも"struggle"なんですよね。多くの人はできあがった技術を目にしているから、それは生活を豊かにしてくれたり、人々を楽にしてくれたり……テクノロジーのことをそういうふうに思うのでしょうが、それができてくる現場というのは、まさに"struggle"の連続でして……。

実は、私が作っているものというのは、その"struggle"から出てくるデバイスのデリバティブなんですよね。それが場合によっては作品の形をなす場合もあれば、また全然違ったものになることもある。でも、個人が作りたいものがあって、そこから色々なものがデリバティブしてくるというところで、やっぱり"struggle"というあたりが「ただならぬもの」が出てくる時の源なのかなあ……と、そんな印象を受けました。

八谷:そういえば、今のほとんどのメディアアートというのは、実はアーティスト主導でできているような気がしているのですが、その一方、エンジニア主導で立ち現れてくるものも、そろそろいくつか出てきているのではないかという気もしています。

岩田先生の作品は、まさにそれだと思っているし、安藤さんや前田さんが作っているものも、そういうものだと思っています。それは非常にエマージングというか……何てカテゴライズしていいか分からないようなものなのですが、一方でそれは、非常に面白いものだったりもする。だからそれは、変にアートという枠に入れないほうがいいのではないかという気もしています。それにはまだ、ちゃんとした名前は付けられていないのですが、非常に面白いし、人々の生活にとても影響を与えるもののような気がしていて……同時に、お金になるかもしれない(笑)。

僕や明和電機は、アーティストという立場でものを作りつつ、一方で商品にしたい……明和電機は作品を「商品」と言いきっていますけれど……ああいうふうに商品化/産業化していくのに、実はアートというのはあまり向いていないのです。けれど、一方でそういうものを飛び越えて、エンジニアが何かを作れる可能性もあるのではないかとも思っています。

岩田:まさにそこがデバイスアートのプロジェクトとしての出口だと思います。だから(これは研究代表者としての立場からなのですが)、その「何と言ったらいいか分からないもの」を、この5年間で明らかにしつつ、そういうエンジニア主導で、メディアアートに影響を与えうるようなものを研究していくということが、ひとつ重要なところではないでしょうか。

その準備として(再三申しあげるようですが)、やはり基盤技術というものが必要です。要するに、ある発想をもって自分でどんどんできる人はそれでいいのですが、なかなかその手掛かりがない人もたくさんいるわけです。その人たちに対して手掛かりを与えることができないと、たぶん将来、デバイスアートが社会に対して根をつき、成長していくものにならないのではないかという危惧があります。

だから現状でも、工学者でメディアアートに影響を与えるうる人はたくさんいると思うのですが、次の世代にはそれがひとつの産業をなすくらいまでに成長するには、やっぱり根を張って成長していく、そのための肥として、基盤技術という方法論をしっかり増やしたいと考えています。

稲見:今のお話にも関係するかもしれませんが、そこでテクノロジーっていったい、どういうものを考えているか? 私は「何かの可能性を広げるもの」だと思うのですよね。それは2種類あって、ひとつは先ほどの「表現そのもののベクトルを広げるようなもの」、そしてもうひとつは、先ほど岩田先生が基盤芸術と言われるもののように「表現することを簡単にすることで、作者というものを広げていく」という、この2つの可能性があると思います。そのために基盤技術というのは有効であり、デバイスアートと言われるものに貢献できるのかな、と思っています。

その一方で(私もまだ結論は出ていないのですが)、「何かを作る方法を簡単にしていけば、それでよいのか?」という疑問も感じているわけです。つまり道具というのは、例えば竹馬(僕は乗らないですけれど)を練習して、乗りこなせるようになる楽しさというのも、きっとあると思います。

先ほど「作品を作るというのは苦しい過程だ」というお話がありましたが、そこでは苦しさがあるからこそ、できあがった後の楽しさがあるという感じもします。そういう意味では、単純にみんなが簡単にものを作れるようになればそれでいいのかどうかというところは、私もまだ分からないのです。

ハック:アートとテクノロジーを区別することには、問題があって……と言うのは、それぞれの言葉が意味するものをはっきり区別するようになったのは、実に最近のことですから。メディアアートの世界ではアートとテクノロジーは、別々なものとして考えられる傾向にあります。でも、長い歴史の中で、アートとテクノロジーは、互いにかけ離れたものではなく、同じプロセスに寄り添っていました。テクノロジーは「何かを作ること」に関わる言葉です。例えば、寺院を建設したり、透視画法を確立したりといったように。アートもテクノロジーも、何かを作り出すための一連の過程に関係しています。インディゴの顔料は画家によって開発されたし、寺院を設計した芸術家は、絵筆をとり、それを絵画の中に描きました。制作過程の分業はあまりなかったのです。

現代では、ほとんどのテクノロジーが、企業や組織によって開発されていることが問題なのだと思います。先ほども言いましたように、テクノロジーというのは社会的な概念です。今では、アーティストと、資金提供などを通して彼らを支援する企業との関係は対等だとは言えないところがあります。そして企業はテクノロジーを提供する代りにアーティストのアイディアを利用します。研究開発予算としては破格な値段だと言えるでしょう。アーティストは昔から、作品を通して社会で起きていることを鏡として差し出す役割を担ってきたのだと思います。でも今のアーティストは、権力を握っている企業によって開発されたテクノロジーを使っているため、社会の権力構造を批判しにくい立場にいるような気がします。

児玉:今のお話を伺って思ったのは、例えば今、電子デバイスを作っている会社は、日本国内にもたくさんありますけれど、我々のやっているようなデバイスアートについて知っているところがどれだけあるでしょうか? 私は今、電気通信大学で働いていて、よく(電子デバイス関係の)会社の人たちが大学を訪ねてきたりするのですが、そこで「こういうことをやっています」と説明すると、皆さん正直驚いています。

そういうような会社に私たちの活動について知ってもらい、彼らの作るデバイスが、もしかしたら表現系科学技術に使えるような用途があるかもしれない、新しい需用の道を拓く、ということが大事なのではないかと思います。それがどこまでできるかは、未知数ですけれど。

3.5●「息をするように作品を作る」

八谷:ウスマンさんにひとつ質問したいのですが……普通、建築家(architect)の仕事にはクライアントがいますよね。ただ、これらのウスマンさんの作品には、クライアントはいないように見えるのですが。それから、作品を作るのにはお金がかかったり、あとはウスマンさん自身の時間もいっぱいかかるわけですよね。そこで「作品を作りたい」とか「完成させよう」というモチベーションは、ウスマンさんの場合、どこから来るのでしょうか?

ハック:「息をする」モチベーションはどこから来るのか? と聞かれるのと同じで、どう答えていいのか困ってしまいますね……作らずにはいられないというか、自然な衝動としてやっていることなんです。

プロジェクトによっては、クライアントが存在するものがあります。でも、助成金に応募する時も、審査機関をクライアントに見立ててプレゼンの準備をします。普段、建築の仕事を請け負うときとまったく同じように、プロジェクトの予算やスケジュール、構成などをきっちりと組み立てた資料を提出します。建築家の設計案のようなものを受け取った相手は大抵びっくりしますね。計画の段階で構造をはっきりさせて、不具合を見越したプランニングをしておくのです。

だからといって、アート的な考え方に反発しているわけではありませんし、アートとして括られることに抵抗もありません。ただ、アーティストとして見られることにある種の居心地の悪さを感じることは確かです。なぜなら、私の友人や同僚は「建築家」として同じような活動をしているからです。だから私も自分は建築家だと名乗りたい。かといって、建築家とアーティストを区別したいわけでもないのですが……。

最近の建築家たちは(私の知る限り、少なくとも西洋では)、クライアントから要請される仕事以外にも活動の場を広げています。ここ200年ほどの間に確立された伝統的なモデルでは、建築家、クライアント、施工業者、そして建物の最終的な利用者——この4者がそれぞれに独立しています。私たちは、このモデルを解体して、4者の役割をひとつ(作者自身の活動)に統合したいと考えているのです。だから、私はこの分野で活動するのが一番落ち着くのだと思います。

八谷:わかりました。「自分が息をするように、作品を作らなければいけないと思っている」ということは……たぶん、それはアーティストの作品の作り方と非常によく似ていると思うから、やっぱり「ウスマンさんはアーティストですね」と言われることが多いんだと思います。

一方で、あなたの姿勢……例えば「何かが欠けているところからモノを作る」という姿勢など……『ホウント』(Haunt)あたりで顕著だと思うのですが、ああいう作品は建築家でもないとなかなか思いつかない気がして、だから僕はそこら辺がすごく興味深かったです。

草原:一方で、これは八谷さんにも共通することだと思うのですが、『コンフィギュラブル・Tシャツ』(Configurable T-shirt)プロジェクトのような、ああいう非常にシンプルな方法で、色々な人のインタラクションを可能にする。しかもWeb上でそのデザインなどを見ることができるというのは、すごく面白いと思ったし、あのプロジェクトでもうひとつ面白いと思ったのは、「消す」という、その逆転の発想ですよね。

実は、例えば明和電機の土佐さんも、けっこうローテクなものにこだわって、いろんな作品を作っていたりするわけですが、メディアアートの中で……特にデバイスアートとして我々がひとつ提示していけることは、いわゆるハイテクノロジー神話ではなくて、そのテクノロジーを何のために使うのか、テクノロジーについてトップダウンの考え方ではなく、逆の見方をしたらどういうことができるのか、ということを提示していくことではないか、という気がします。

ハック:今までにお話ししたこと……とりわけ「アートとは何か?」という問題について、少し補足したいです。私にはアーティストの友人が何人もいます。例えば、高嶺格さんのような作家のことを考えてみると……彼はいろんなテクノロジーを駆使して作品を作っていますが、テクニカルな部分はあまり強調されていないというか、彼の作品ではテクノロジーそれ自体が重要なのではない。彼の作品は力強くて、非常に深く心を動かされます。だから高嶺さんの作品を見ておきながら「僕もアートをやってます」なんて、恥ずかしくてとても言えないのです。彼の作っているものは、自分には到底手の届かない領域だという気がするから……。

でも私は、それこそが、アートのあるべき姿だと思います。言葉では言い表わすことのできない感動を与えてくれるもの、説明など不可能なものがアートなのだと思います。そういう意味で、アートの分野に自分がカテゴライズされることに、若干の居心地の悪さを感じるのかもしれません。そうですね、私にとって「アートは何か?」と問われれば「議論することができないものだ」と言えるかもしれない。ウィトゲンシュタインは「語りえないことについては沈黙せねばならない」と言っています。アートの重要性は、そこにあるのだと思います。

3.6●質疑応答/総括

草原:たぶん、会場の皆さんも、質問とか色々と聞きたいことがあると思うのですが、ずいぶん長い時間、ほとんど聞きっぱなしの状態だったので、このへんで質問やコメントを取りたいです。そうでないと、ここにいるパネリストたちは際限なく話ができると思いますので(笑)。

質問1:写真を撮っているのですが、写真がアナログだった時代、つまりつい最近まで、それもひとつのデバイスだったと思います。というのは、いつも現像や焼き付け作業をやっているのだけれど、写真の仕上がりは同じようにはならない……そこから生まれる新しいイメージ、その感動はアートになりうると、私は思います。そういった意味では、デバイスそのものがアートになりうるというのは、可能性としては否定できないのではないでしょうか?

岩田:実は今日のシンポジウムのために、このグループで事前に少し議論をしました。そこで「コンセプトって何?」というところから始まって、これは八谷さんの指摘なのですが「コンセプトとアートは違う」と……あとで本人からまたコメントしてもらいますが……コンセプトというのは、ある種の言語的な表現です。一方でアートの根底には、やっぱり感動がある。その感動を出発点として、作品という実体ができる。というわけで、手繰っていくと、感動が必ず根底にある、というわけです。

一方で、研究の側では、感動がどこから来るかというと……私みたいなスタイルで研究していく場合、ものを作りながら前進していくという、その試行錯誤の過程で前進していくことをやっていて、その途中でやっぱり感動はあるんですよね。それがうまく人に伝わると、アートと似たような効果が出てくる、そういうことを感じています。

稲見:私も同じような意見で、もしかすると、いわゆる技術者と研究者の違いになってしまうのかもしれませんが、少なくとも研究というものを仕事にするような人は、根底には何か自分が思ったこと、もしくは分からなかった問題が解けた時の感動というのが、根底にあります。それをいかに人に伝えられるかというところで、その研究がいかに広まるかということにも繋がります。感動というところでは、もしかすると共通するのかな、と思っています。

では、いわゆる技術者と研究者のどこが違ってくるのかといいますと(もしかするとアーティストも近いのかもしれませんが)「互換性があるかどうか?」。結局、我々が大学で何を教えているかというと、学部生ぐらいだと、普通にある問題を解けるようになって、それで会社で何にでも役にたてるような学生を作っていく。それは、もしかすると、その人がいなくなったところで、また別の人が入ってくれば代わりになるかもしれない。

かたや、何か新しいことを探していて、研究していこうという人は、代わりの人が同じことを勉強すればできるということではない。先ほど「カメラを何回撮っても別の写真が撮れてしまう」というようなアヤフヤさ、もしくは人による個性というところとは、だいぶ違う素質としてあるかもしれない。

あと、もしかすると、そこにハイテクを使っているかということもありますが……ハイテクってたいしたことがなくて、大抵は研究室の中でしか動かないものが多いです。とても人様にお見せできない。実験用のデータが取れる1〜2日、真面目に動いてくれればそれでいい。それが5日間くらいの展示会となると、もう毎日ドキドキしながら動かしていて、それを製品化するなんていうと、もっと大変かもしれない。そういったところで、ハイテクのあやふやさ……それはさっきの『ロボット・タイル』の話でいうところの「健気さ」、そこらへんがもしかすると再現性のなさということ、さらにはうまくいった時の感動に繋がるのかな? というふうに思いました。

児玉:写真を印画紙に焼いたりする時に、昔のフォトグラムのような、ああいったアナログな、再現性のない、そのたびの感動みたいなものが、デジタルのデバイスでもできるのか……。今の稲見先生の話をうかがっていて、先端的な研究室では毎日毎日、デバイスの曖昧な技術が生成しては消滅している(笑)ということ、たまたまそれが世に出てこないだけなのだということを、今、知りました。

八谷:銀塩だと、温度とか濃度とかで写真の仕上がりが全然変わったり、マン・レイはそういうのを意識してソラリゼーションみたいな効果を使っていたと思うので、そういうある種の“バグ”が、アートの種になることはあるとは思いますが、僕はもうちょっと、アートが本当に尊い感じがするのは、もっと上のことを成し遂げているからだと思っています。

さっきウスマンさんが、高嶺格さんのことを話されていたのですが、彼の作品とかも、偶然とかそういうのではでは全然なくて、もっと高度なことをコントロール……といっていいのか? 彼の作品は彼の「心の形」そのままでできあがっているような部分があって、だから尊いと思うんですよね。

ですので、さっきの質問の方に対しては、何かのトリガーとか種になることはあり得ると思うのですが、一方で、それだけではアートというのは、成立しないんじゃないかと思います。特に優れたアート、人をつい泣かせてしまうような作品というのは、人間の色々な営みの中を通して初めて出てくるようなものだというのが、一応、僕の考えですね。

草原:その辺になると、アートの中でもsublimeというか「崇高性」というものが話題になってくるのだけれど、そういうことを伝えるアートとデバイスアートとはだいぶ違う部分がある気がします。たぶん高嶺さんの場合、それ自体の完成度とか、そこに込められているものの強度が非常に高いので、作品は彼の思想を伝える媒介として機能する。しかしインタラクティブ・アートの場合、必ずしもゴールが最初から見えているのではなくて、経験してもらった人の中に何かが生じることを期待する。あるいはアーティストが意図したものとは違った場合も起こるかもしれない……。色々なバラエティがあります。

観客2:(英語でハック氏に)いくつか質問があります。まず最初に、テクノロジーについて……私はテクノロジーは退屈で、面白くないと思います。表現の幅を制限するし、足枷にもなると思う。それと、基盤技術というものにも懐疑的です。教育用のツールとしては有効かもしれませんが、ツールをたくさん与えれば、学生たちの作るものが似てきてしまう。標準化されたツールのお陰で、同じような作品が量産されることになりかねませんよね? これについては、よく考えてみる必要があると思います。

2番目は、アートとデザインについて。デザイン(Design)という言葉は英語圏で生まれた比較的新しい言葉です。私の母国語はドイツ語ですが……もともとは、応用芸術(Applied Art)という言葉が使われていました。ファインアート/純粋芸術(Fine Art)に対して、応用芸術(Applied Art)があったわけです。だから、デバイスアートという呼び名に「アート」を使っても問題はない。この表現に矛盾を感じる必要はまったくないと思います。

あと最後の質問なのですが……先ほどから伺っていて、皆さんが「コンセプト」という言葉を頻繁に使うことが気になっていました。とても不思議です。日本語には、それに代わる言葉はないのでしょうか?

ハック:最後の質問は、なかなかいいですね。私も疑問に思っていたところです。それに関して、普段からシステムのハッキングを得意とする身としては、ちょっとした実験をしてみたい衝動に駆られていたのですが……。

実はさっきから、通訳を担当されている方々についても言及したいと思ってました。通訳さんたちは、もしも自分自身のことが語られていたら、いったいどんな対応をするのかな、と思って(笑)。自分のことが話題になっていたら、当然、自分自身の存在に触れざるを得ないですよね? そうやって、ずーっと話を続けていけば、通訳しながら素が出てきてしまったり、どこかの時点で何か不具合が発生するのかな、と思って……今、まさにそれをやっているわけなんですが(笑)。すごいですね! 全然、途切れずにこなしていらっしゃるんだから、さすがです。通訳の皆さんに大きな拍手を送りたいと思います(拍手)。

草原:我々は「コンセプト」と言いますよね。これを日本語で「概念」というと、意味が広いというか、ニュアンスがズレるというか……これはほかの方にも意見を聞いてみたいのですが。

あと、デバイスアートについて考える時、デザインというのはもともと“Applied Art”だったというのは、実は我々のディスカッションにも以前から入っていたことなのですね。実は日本では「美術」とか「芸術」という言葉は、明治時代までなかったのです。だから“Applied Art”と“Fine Art”の区別もなかった。デザインとエンターテインメントの区別もなかった。狩野派みたいな“High Art”みたいなものはあるにはあったのだけれど、そのあたりの “hierarchy”というのは、西欧みたいに厳格なものではなかった。我々はそういう日本のアートに対する概念の「曖昧さ」というのを、どういうふうに考えていくかというのも、実は重要なテーマです。

私自身の立場から言うと、しょっちゅうダブルバインドになるんですよ。「これはアートだ」とか、あまり安易に言われると「ちょっと待って!」って言いたくなることもすごく多いです。逆に非常にトラディショナルなギャラリーとかミュージアムで観られるようなものがアートだ、という古典的な考え方に対する反撥も、アバンギャルドとかメディアアートとかインタラクティブ・アートの中にはあるわけで、私自身はそういう分野に興味を持ったから、こういうことをやっているわけです。

何もかもが「アートだ」と言われても困るけれど、でもアートという概念が変化し続けているのは確かだ、というのが私自身のコンセプトです。近年のアートの領域侵犯というか、領域の変化の中には、デザインの方向への流れというのがあって、それは日本だけではないだろうと思います。

これはウスマン氏にも聞いてみたいのですが、日本人は「曖昧さをむしろ活かす形で何かをやる」みたいな話は通じやすいのですが、西洋の……ヨーロッパの美術教育・芸術教育の中では、やっぱり「Applied Artではない(デザインではない)アート」という部分が、すごく硬いコアの部分にあって、そこからはみ出したものをアートと言うことに対する躊躇というものが、すごくあるのではないでしょうか?

3.6●質疑応答/総括(つづき)

岩田:歴史的に言うと、アールヌーヴォーとアールデコというのは、どちらも芸術運動ですよね。でも、アールヌーヴォーとかアールデコの作品って、実はアートではなくて、ほとんどプロダクトなのではないでしょうか? だからそのあたりに、けっこうデバイスアート的な渾沌が、その時代にもあったのかな、と私は感じました。

それと、先ほどの質問で「テクノロジーはボアリング(boring:退屈)だ」と言われましたよね。それはですね(笑)……そのテクノロジーの持っている可能性を超えられないと、退屈なんだと思うのです。例えば、ドローイング・ツールって色んなのができましたよね。 マッキントッシュができて以来、ドローイング・ツールってすごくいいものができたのだけれど、そのドローイング・ツールの提供する可能性の一部しか使えないと、あたかも「マックで描きました」という感じの絵しか出てこない。だけど、ある人が使うと「え! これ、どうやって作ったの?」というものが出てくることもある。そういう新しい可能性をどこまで見出していけるかということに、テクノロジーの面白さがある。作る方の立場からいうと「こんな使い方があったのか!」という、そういうテクノロジーの新しい使い方が、色々な人に対して影響を与えるのではないかと考えています。

八谷:僕自身はさっき彼が言った質問……というか、意見のひとつと同様の考えをもっていまして、その「デバイスアートでモジュールを作ったとすると、みんなが同じようなものを作るようにならないか?」というのは、たしかにその危険性は非常に大きいと思います。ですから、それは心のどこかに留めておかねばならないことではありますね。

例えば僕も大学院で教えたりする機会があるのですが、その時にはツールを使って(作品を)作ることよりも、まず最初にそのツールを分解してハッキングしてみようよ、みたいなことを授業の中でやります。そういう視点がないと、例えばレゴみたいに「組み立てたらオシマイ」になってしまって、それによって考えが拡がることもあるでしょうけれど、一方で非常に考え方を制限される危険性がある。

例えば僕は今、実際に空を飛ぶ飛行機を自作しているのですけれど、日本の大学にも実はたくさんの航空学部があるのだけれど、そういう大学で実機の飛行機を実際に作ったりは一切していないんですよね。それはひとつには、今、大学の航空学部だと、コンピュータで流体の計測をして、その機体の形だけを作る勉強ばかりやっていて、結局、外側のデザインはできても、実際の飛行機って具体的な構造があって、重心の位置を合わせたり、材料の物性を検討したり、必要な強度を確保したりとか……、本当はそこにこそ飛行機を作る技術があるのですけど、そういうのもみんな分からないし、先生すらもよく分かっていないみたいな状況になってしまっている。

便利なツールがあることによって、ものが作られなくなっているそういう実例を見つけて、僕はけっこう愕然としたんですよね。だから便利な道具の持つ危険性を、最近はよく考えます。

岩田:さっき言い忘れたのですが、今後のCRESTのプロジェクトを考えていくうえでの目標とするところとして「基盤技術の構築・体系化」を挙げましたが、我々のチームの中でも色々な議論があって、「体系なんて要らないじゃないか」という指摘も当然あるわけです。なぜかというと「作れる人はいくらでも自分で作れる。ところが体系ができてしまうと、それを使うことで、ありきたりで退屈なものしかできてこない」というわけです。ところが一度体系ができあがれば、それを壊すという楽しみができる。要するに、そういう体系ができたことで、色々な人にそれを壊すチャンスが出てくるわけで、そこにまた新しい可能性が出てくるのではないかと考えています。

それから、先ほどの「ブラックボックスを組みあわせるだけだと、みんなありきたりになってしまうのでは」というご指摘もまったくその通りで、やはりモジュール自体も進化しなくちゃいけないと思うんですよね。クワクボさんの実習でも、各自でモジュールを作らせることを今やっています。それを通じて、自分だけのオリジナルのモジュールができるわけで、それができるか/できないかによって、今後の伸び方も違ってくると思います。

そういうことをやっていく過程で重要なのが、色々な人との情報を交換しつつ、自分のオリジナルのものをつけ加えていく、ということで、今日のポイントのひとつである「オープン・ソース」に繋がるわけですが……それはまたクワクボさんが来てから、また別の機会にしっかりと議論したいと思います。

草原:今の岩田先生のお話がだいたいのまとめになったような気がするのですが、まだ「これを言い残した」という方がいらっしゃったら、ぜひお願いします。

八谷:「言い残した」というよりは質問なのですが、ウスマンさんの作品は非常に興味深いものが多いのですが、日本で発表したり体験したりする機会はないのでしょうか? そういうスケジュールがあったら教えてください。

ハック:まだ、はっきりとしたことは言えないのですが、ニューラルネットを使ったプロジェクトの『イボルビング・ソニック・エンバイロメント』(Evolving Sonic Environment)、あるいは『Wi-Fi カメラ・オブスクラ』(Wi-Fi Camera Obscura)のどちらかをお見せできるかもしれません。私は具体的に人に見せられるモノを作っていないので、展覧会を開くことはあまりないのですが、『イボルビング・ソニック・エンバイロメント』を展覧会用に作り直したら面白いかなと思ってます。

草原:「メディア芸術祭」で風船が空に浮かぶ作品(『SkyEar』)が優秀賞だった時、あれを「恵比寿ガーデンプレイスの上でもやりたいね」という話があったのですが、残念ながら実現できなかったです。

八谷:あと『ホウント』(Haunt)でしたっけ? インビジブルだったり、人間にとって音は聞こえないけれど“感じている”という状態に対して、とても興味があるから、あれを僕、すごくやってみたいのですけど……あの作品はもう、どこにもないのですか? それともどこかに行けば、体験できるのですか?

ハック:実を言うと、あのプロジェクトは会場がなかなか見つからなくて、大変でした。だから結局、母が住んでいる家のリビングルームを借りたんです(パネリスト/会場一同:笑)。2ヵ月ほど占拠した末、「もうそろそろ、いいかしら?」と言われて……。

草原:お母様は、嫌がってたんですか?(笑)

ハック:いや、けっこう気に入ってくれてたんですけどね。装置のスイッチを全部オフにしてしまえば、余計なものが何もなくて、広々とした静かな空間ができるわけですから。

ちょうど今、ラトビアで開催される予定の展覧会のためのプランを練っているところなんですが、電磁場を使ったプロジェクトを計画しています。会場の都合で、『ホウント』は持っていけないのですが……。

ところで、私がウェブサイトに載せているほとんどの作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのもとで公開されています。ですから、誰でも作ることができるのです。どのプロジェクトも、仕組みはけっこうシンプルですよ。どこかの時点で、組み立て方の説明書をウェブにアップしたいなと思ってます。そうすれば、自分の部屋に心霊現象を再現できます。ごく簡単に、ね。

八谷:じゃあ、ICC(InterCommunication Center)の中にひとつ作りたいですね、勝手に(笑)。

草原:ICCをハッキングして……。

ハック:あそこは、無響室があるからバッチリですね。

草原:ちょうど時間も来ました。まだまだお預けの質問もたくさんあるし、結論にもほど遠いので、今後もシンポジウムをやる理由がありそうです。パネリストの皆さん、今日はどうもありがとうございました。通訳のお2人の方も長時間、たいへんありがとうございました。今回のシンポジウムはこれで終了いたします。(拍手)

前の講演へ