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2005 [9th] Japan Media Arts Festival Device Art Symposium "Will Techno Gadgets Become an Art?"

Introduction "The Characteristics of Device Art"

by Machiko Kusahara

平成17年度(第9回)文化庁メディア芸術祭

デバイスアートシンポジウム「テクノガジェットはアートになるか?」

デバイスアート・序論/その特徴:草原真知子

2006年3月2日@東京都写真美術館

1◆デバイスアート・序論/その特徴

草原:遅い時間にもかかわらず、本日はたくさんお集まりいただいてありがとうございます。これから「文化庁メディア芸術祭」関連シンポジウムのひとつ、「デバイスアート・シンポジウム」を開催いたします。これは去年開催して、おかげさまで非常に好評だったので、今年はその第2弾ということで、なるべく刺激的なことをやりたいと思って、「テクノガジェットはアートになり得るか」というテーマを立てました。

私は「メディア芸術祭」アート部門の主査でもあり、また本日のテーマにも関係する「デバイスアートにおける表現系科学技術の創成」プロジェクトのメンバーでもある、草原と申します。では、今日のパネリストの皆さんをご紹介いたします。作品については各自がプレゼンの中でご紹介いただく予定なので、私からは特に言いません。

まず最初に、筑波大学の教授で、《SIGGRAPH》に12年間連続で作品を出し、《Ars Electronica》などでも発表されている、エンジニアリングとアートの複合領域をやっていらっしゃる岩田洋夫さんです。それから、向こう側にはアーティストの皆さんがズラリと並ぶのですが、最初にクワクボリョウタさん。次に「明和電機」社長でもある土佐信道さん。それからメディア・アーティストにして「株式会社PetWORKs(ペットワークス)」の代表でもあります八谷和彦さん。最後に、多摩美術大学の助教授もされていますが、アーティストとしても長く活躍しておられていますモリワキヒロユキさん。今日はこういうメンバーで始めたいと思います。

最初に私の方から、今日はどういうことを話し合いたいのか、イントロダクションという形で、簡単にお話します。

ここに入られる時、皆さんはこのパンフレットを受け取られたと思いますが、この「デバイスアート」がどういうことを行なおうとしているのかは、主にここに書いてあります。それから今、この建物の地下1階で「デバイスアート展」をやっていますので、一部の作品をそこで実際に観ることもできます。作品については、アーティストの皆さんが話されますので、序論の話をざっとします。

「デバイスアート」というのは「アートとテクノロジーとサイエンスが融合した部分で、ツールと素材と技術が一体化している。それから、既成のテクノロジーを応用するのではなく、自分たちで開発し、それによってユニークな表現をしている。さらには、科学技術を隠してブラックボックスにするのではなく、これらを"見る・使う・遊ぶ"ことによって、逆に科学技術というものが見えてくる」……以上のような要素をもったアートのひとつの形態であるというふうに、我々は考えています。 そこで見られる特徴として、ひとつには「プレイフルな姿勢」というものがあります。つまり、テクノロジーに対して悲観的になるのではなく、むしろポジティブな姿勢が取られることが多い。それから「アーティストが作った作品を見よ」という感じで一方的に鑑賞するのではなくて、来場した人がそこから自分なりに色々と受け取れるような性質がある(それはインタラクティブな場合もあるし、そうでない場合もありますが)。それから、今日の顔ぶれを見ても皆さんお分かりかと思うのですが、ポップ・カルチャーやエンターテインメント・デザイン、商品化、そういったところとアートが繋がっているという特徴……さらにはそれが、ガジェットとかトーイ(玩具)といった形にもなる、ということです。

1.1●海外から見た、日本のデバイスアート

私自身、海外に行く機会が多いのですが、そういう視点から見るとこの「デバイスアート」は、既成のアートの概念に捉われないアプローチであることが分かります。こういった傾向は、特に日本に広く見られ、若手のアーティストたちもそういう作品を作っていて、さらに日本では、それらが自然に受け取られています。アーティストとエンジニア……例えば今、3階のフロアに、工学系の学生の作った作品から芸術系の学生がテクノロジーを使った作品まで、色々と展示されていますが、そういう人々が手掛けた作品が今、日本では非常に豊かな状況になっています。

こうした現象を海外から見ると、どんな反響を受けるか。特に私の周囲では、こういった話をすると、アジアの他の国の研究者、あるいは東欧の人たちから「よくぞ言ってくれた」と言われます。つまり「我々も薄々そう思っていたのだけれど、そういうはっきりした形ではまだ出ていなかった」という反応を、すごく受けるのです。

例えば今までの西欧中心の美術史観、古典的な美術→現代美術ときて、その先にメディアアートがあるというような考え方ではもう、とてもやっていけないのではないか、というわけで、その辺りのことも見直そうという動きが出てきています。そういう意味でも「デバイスアート」という考え方は非常に共感されます。

一方で、その西欧的・古典的なアートの教育を受けた人達からは……若者からもこういう反応があって、けっこう驚くのですが……「なぜ、アーティストたちが、わざわざ商品を作るの?」みたいな反発がワーッと出てきたりもします。しかし一方では、これだけ消費社会や情報社会といったものが進展してきて、例えば現代美術が成立した時に比べても社会が劇的に変わってくると、西欧社会でも色々な変化の兆しが見えているわけです。

今日のディスカッションでも「なぜ、デバイスアートというものをやっているのか?」という話が出てくると思うのですが、そこで問題になってくることのひとつが、いわゆる昨今のユビキタス社会・高度情報社会の中で、アートあるいはアーティストがどういう役割を果たしていくのかということです。そういう社会の中では(かつてそうであったように)アートとは崇高で、かつ美術館に飾っておくようなものでは、もはやないだろう、ということもあります。

同時に「なぜ、こういう作品群が、日本からたくさん出てくるのか?」を考えると、アートやテクノロジーが、日本の文化的土壌の中でどういうふうに受け取られてきたか、その歴史的背景も考えなくてはいけないのではないか。そういった問題意識から、我々はすでに2年ぐらい、こういうディスカッションをしてきたわけです。

1.2●テクノロジーを受け入れてきた日本の伝統

これは来週やるイベントのチラシ【図1】【図2】【写し絵・錦影絵 合同公演】なのですが、これは「写し絵・錦影絵」という、江戸時代から始まった日本独自の幻燈ショーです。オランダから幻燈機が来て、それがこういうアニメみたいな表現になったのですね。幻燈というひとつの技術を、日本ではどういうふうに変えてきたかという意味で、これは科学史的に見ても面白いところがあります。

ここに載っている説明文は、写し絵を関西で伝えている落語家の桂米朝さんが言われていたことで、さすが、すごくうまいことを言われるなあと私は思ったのですが、その説明文のサワリを読んでみます。「江戸時代、ガラスやレンズが日本に伝わると、日本人はこういうオモチャに使った。科学的に利用したり、医学に利用したりはしなかったけれど、武器をこしらえようともしなかった」……これは名言だと思います。

もちろんそれには歴史的な背景もあるわけで、江戸時代にはずっと戦争がなかった。また産業革命の悪夢(これは西欧の人たちと話をすると痛切に感じられるのですが)も、日本にはなかった。そういう日本社会でテクノロジーが、どのようにしてポジティブに受け止められてきたか、非常に興味深いポイントです。

そもそもアートという概念が……「美術」とか「芸術」という言葉自体、明治時代に富国強兵のプロセスで"発明"された言葉なので、それ以前はそういう区分自体がなかったわけです。それから空間感覚も西洋とは違う。そうした中で、生活を少しばかり豊かで楽しくするため、いかに様々な工夫をしてきたか……こういうことは我々にとっては普段から感じていることばかりなのですが、実はそういったポイントが、このデバイスアートを考える際にも、その背景にあると思うのです。 例えば凝った細工の印籠とか、現代だと握り寿司などの食玩のついたUSBメモリとか、この役に立たない飾りの部分がついていることで、相当に値段が高くなるんですよね。でも、これを買う人がちゃんといるわけです。実用性、機能としては、飾りのないものと全く変わらないのですが。 単に「面白い」ということで「ここまでやるか!」みたいな商品が出てきたりします。

こういう日本の伝統に対して、例えば西欧だと「日常生活の中にデザインを」というのは、よほど意図的にやらないと出てきません。たとえば有名なウィリアム・モリスは、アーティストといっしょにデザイン運動を起こしました。これ[スクリーン]はチャールズ・マッキントッシュがデザインした椅子ですね。椅子というのは、デザインでよく出てくるアイテムです。20世紀になるとチャールズ&レイ・イームズ[スクリーン]は「イームズ・チェア」を開発する一方、「パワー・オブ・テン」という、ミクロからマクロまでを見せてくれる非常に有名な映像を作った映像作家でもあります。だけど、こういう人たちの活動は、厳密にひとつにはカテゴライズできません。

また椅子【図3】なのですが、これはデ・ステイルという運動の中で、右はピエト・モンドリアンの絵ですが、アーティストのこのような感覚をファニチャー(家具)から家それ自体にまで実際に展開したものです。これは、こういう時代にできた家なのですけれども、生活とアートを一体にしようとした動きなのです。

面白いのは、このデザイナー・チェアのミニチュアが日本ではガジェットとして市販されていることです。フィギュアといっしょですよね。箱を開けてみないと何が入っているのか分からない。(箱を開けると)こんなの(ミニチュアの椅子)が出てくる。これは実用価値は無いわけで、自分でも「なぜ、こういうものを私が欲しいと思うのか?」というのは興味深いのですが。先ほども言いましたように、西欧ではアートとデザインがどうしたら混在できるのかというシリアスな疑問が、日本だとフィギュアとかこういうガジェットにまであっさり行ってしまう……そのあたりにも、実は「デバイスアート」という話のとっかかりがあるのかも、と思います。

というわけで、本題に入ります。最初に岩田先生、よろしくお願いいたします。

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