アートについての考えや思想をメモしています(制作メモ)

■直線の不完全性とイコンの完全性


・直線は直線"性"にしかなれない。直線は常に模倣にしかなれず、うろついている/定規で線を引いても、よく見れば、幅や密度が一様ではない。ペンや筆が、線になることを否定して、自らを主張している(ぶれ)


・それを複数回試すごとに、驚くべき溝があることを気が付かせる/当然ながらジャコメッティはこのことに気がついて、その溝に吸い込まれるように、彫刻を細らせるしかなかったらしい


・直線ならずも、線自体、は存在しない可能性がある/隙間を線とする場合、その両方に跨る部分と部分に変容するし、ペンで引いたそれを線とする場合、面になり、その面は密度などが一様ではない粒子性に阻まれる(デジタル画面でも、まずはドットで阻まれている)


・従って、線を引く、という文は成立せず、◯◯を引く、とまでしか言えない


・さらに、◯◯を引く、と述語した場合においても、その証拠は実はどこにも残らない。引く、というその述語(動性らしきもの)をどの瞬間かで写真または動画にした場合も、写真または動画という面が、線がそうであるように、また、解体されてしまう(やはりドットや写真の用紙性によって阻まれる)


・プラトンのイデアとその想起説や、ラカンの現実界と象徴界ということを再発見せざるをえない。なにかの溝(翻って膜)が、線を引く、ことと、「線を引く」ことの間に跨っている


・ただ、生存しているだけで、わたしは極度に、なぜか、精神病院に入院するまでに衰弱していったのだが、この、溝(膜)、まさに、「聖なる膜」が宇宙のそこかしこに潜み、わたしのいく先の全面にかけられていることによったのかもしれない(事実とされるものが、事実、というふうに、何によって根拠されるのか、という永遠の溝に落ち込むことに似ている/つまり、わしたはいつも事実を掴んだのに事実を全く掴めていないことに当惑して衰弱したことになる)


・たとえば、神を、神、と名指せないことにも関係しているのかもしれない。たとえば、わたしはクリスチャンだが、「イエスは神である」、と言明することは、この「聖なる膜」によって常に阻まれ、虚偽にならざるをえないことになる


・もし、本当に、実際に、というかイデアとして「イエスは神である」としても、完全にそうであったとしても、こちらから「イエスは神である」と言語上照合したところで、虚偽にしかなりえない(これは驚くべきことである)/無論、同じく、「イエスは神でない」としても、虚偽にしかなりえない


・わたしはイコンを見ると落ち着くことがあったが、イコンは、神の造形、ではなくその痕跡の造形としてしか絵画表現が成り立たないという前提を有しているゆえに、奇妙で不気味、稚拙な表現でわざと描かれる


・そことはわたしを落ち着かせる


・この、"あえて偽物(似姿)を造る"、という行為が、洞窟壁画以来のアートの根底的かつ本来的な振る舞いに思える(つまり、すべてのアートはなんらかの偽物であり似姿ということになる/それ自体が自立した存在であること、をアートはやたらに志向するが、それ自体が自立することはあり得ない、ということになる)


・だが、こう言うこともできる。アートは偽物であり似姿、でしか、ない、のであれば、それが偽物、似姿である以上、当の本物、がどこかにある、と言語上は、言説せざるを得なくなる


・すべての芸術家がこのことに気がついている、とは到底、思えないが、一部は気がついているはずである(彼、彼女らは、たいてい、疲弊しているし、場合によっては発狂したり精神になんらかの疾患が発生することは、実は至極真っ当に思われるわけである)


・彼、彼女らにとっては、どのように描いても、作品に対して、どこかにおかしなところ、を発見せざるを得ず、それこそが、聖なる膜、なのである


・逆にいえば、この聖なる膜、にいつも阻まれてしまい、作品が完成しないために(完成していないことを発見してしまうために)、創造行為が継続される(ざるを得ない)、または、作風が変わる(らざるを得ない)、とかいうことが芸術家の実際に思える(時流や気分や世間的の目にあわせて創造が継続されたり作風が変わるわけではないのである/それは単なる屈曲や偏向である)


・直線をいくら、どのように引いても、直線になれない、ということ。このことを常に発見してしまう、鋭利と傷つき、が芸術家という現象に思える


・この発見に沿い創造に巻き込まれた以上、意識的な断念、は不可能に思える


・「聖なる膜」を発見してしまった以上、逆説的に芸術家は、なんらか「聖なる膜」の、向こう側、を予感していることになり、その予感は、創造を強制させざるを得ず、だが、その創造は、ふたたび「聖なる膜」に阻まれる、という現象が起こっている


・美術が、写実を諦め、抽象化せざるを得なかったということは、「聖なる膜」に阻まれ、写実が完成しない、という入れ子構造のなかで、一体何が、対象であるのか、をこれは、必然、喪失せざるを得なかったのだと思われる


・いや、あるのは対象なのか、を追いかけた結果、写実はたしかに、抽象に正統にこそ、到達せざるを得なかったことが理解できた


・抽象画というのは、おそらく、本来的には、ラカン的な象徴界からたんに想像界に退去して描かれるのではなく、象徴界を象徴界のまま捉えようとしただけなのにも関わらず、捉えられていない、という発見に基づき、さらに確実に捉えよう、と試みた結果だと、理解できた


・これは、実はデザインにも同じことが言えるはずなのである。バウハウスから発芽したものが、つまり、設計という詐称が、どこに向かうのか


・その点において、イコン、というものが、どれほど謙虚であり、深い発見に基づいているのかが伺われる。おそらく、アートは永遠にアートになれない(一時的にアートなだけである)。その創造の中断は、絶対他者性をまずは前提にする、神、というものに対して、祈るという全くの謎の所作を肯定した、イコンによってやはり完結せざるを得ないように思う


・アートは常に一時的にしか成立しない卑わいな虚偽である(やはりアルスなのである)/イコンは虚偽であることをまず肯定してなされる真実の虚偽である(だが、その謙虚な前提を忘れたときに、もっとも真実らしい虚偽として、いつも宗教的に破壊されるのである)



■無意識のみた遠近法


・無意識のなかにクオリアのプールがあり、さまざまなクオリアがそこには詰められているが、それは、バラバラなままに放置されているのではなく、無意識の言語性において、設計、建設、発明がなされているようだ


・ある建築物(ビル的なもの)を描いたときに、無意識的遠近法、とでもいうべきものが、絵に現れていることに気がついた。現に意識的な遠近法が成り立っているのでない


・立てられた長方形の枠内に、ペンで、無作為・感性的にドローイングを描き(直線や格子)、それぞれの領域に、無作為・感性的に色を塗った


・事前にイメージしたのは、ビル、というだけで、立てられた長方形以外には遠近法も立体性も何も企画しなかった


・結果、出来上がったビルの絵は一見、平面で、遠近法はないものであったのだが、まじまじと見ると、驚くべきことに、遠近法性のものが立ち現れていたのだ


・どういうことかと言うと、ビルの上の方の部分に線の数が密集し、密度が高くなっている。下の方は線は少なく間隔に広く、密度は低い(遠近法的にビルを仰ぎ見たときの遠く上の部分に線が密集してみえることが、不覚にも、現れている)


・さらに、塗られている色は、ビルの上部には重たい濃ゆい色が、多く、下の方には軽く明るい色が、多い。これは、同間隔のもの、たとえばビルの窓などが、下からそれを仰ぎ見たときに、遠く上のほうにいけばいくほど情報量が圧縮され、つまり一視覚内に多量の窓を含む、というその事実感覚が、無意識下で、色のクオリアに置き換えられているようで、ビルの上のほうには情報(窓数)が圧縮されて重たい色が、ビルの下のほうには、情報(窓数)が圧縮されていないことを示す明るく薄い色が配置されている


・目のストレス(被刺激)感覚に沿って、線と色が配置されているようなのである


・これは、西洋的な意識的な遠近法ではなく、無意識下において、そのクオリアのプールのなかで、遠近法が脱構築(目のストレスによる遠近法)されている、と言えるのではないだろうか



・無意識のなかでは、無分別知性(レンマ的知性)が、稼働しているとされる(中沢新一さん的)。たしかに、遠近法を、目のストレス、というクオリア(それが派生して、色や線のクオリア)を基準として、再構築(脱構築)して、ふたたびあたらしいキメラ的な遠近法として浮上させてくる、その分別のなさは、無意識の力によるのだろう


・全く意識はしていなかったのだが、遠近法を使わない、として平面を無為に描画しても(というか無為であったからこそ)、無意識下にある、"ビルは仰ぎ見て立体である経験"の性質(クオリア)、が非物理空間的な遠近法を、こういうふうに勝手に編み出してしまうのである


・この、無意識が勝手に、より原初的な地点で、設計、建築、発明をして、意識的が邪魔をしない限り、その結果を出力してくる、という機構は芸術から忘れられて久しいのだが、根本的に、創造は、こと、とはこのような方法を本来的に有しているように思う




■他者の目という器官に基づく悪と醜悪

・色鉛筆で描いているとき、パウル・クレーやモホリ・ナギたちがやったように、目を閉じて描いてみると、予想した手への振動、つまり触覚より、聴覚がもっとも感覚されていた


・色鉛筆が画用紙を塗る音が聴こえた。ついで下半身の貧乏ゆすりの感覚や腕の感覚など、で、その入力にはボリューム感がそれぞれありそれらがシームレスに印象のなかで繋がっている


・クオリアのマップみたいなものが、身体内なのか脳内なのか、いずれにせよ、印象、のなかに描かれていることに気がついた


・この、目を閉じたときに現れる身体のクオリアのマップみたいなものが、そのときに描かれる絵とどのような関係をしているのかはわからない。クオリアがその性質上、相対的客観世界と断絶されていることが原理なので、関係を説明することは、不可能だ


・逆に気がついたのだが、もの自体とかヌーメノンとかいうものは、相対的客観世界自体なのだ、ということと、自分が同一、即自できるのは、クオリアのみ、だということだ。つまり、自分とはクオリア内存在として完全に閉じ込められているわけである


・必然思うのは、わたしが描いた絵が、他者に対してどのように見えるのか。というよりもっと厳密に、どのように心象世界に感じられているのか、は絶対的にわからない、ということだ


・他者がわたしの絵を見て発する感想や説明や評価は、その他者の心象世界そのものを提出しない状況証拠のようなものである


・いずれにせよ、もっともボリューム感のあった聴覚に意識を向けて、まさに傾聴しながら、面をある一色で塗る、ということしていると、面ごとに音のリズムや表情が異なっていた


・考えてみればあたりまえなのだが、小さな面を塗るときと大きな面を塗るときでは、急ぎ方とか大胆さとかスナップのスパンなどが異なり、音の表情がまるで違う


・音楽とは言わないが、その音というのには表情があり、それが連続している


・そこには、やはり、音楽と似た快楽が存在していることに気がついた


・この快楽は普段の描画中には、快楽としては認識され難いが、作業中に無心で描けて、それが少なくとも不快の感覚とは反対のベクトルに向けて持続している、できる、ということは、無意識方面にむけて、より大きな快楽が流れ続けている可能性を思った


・創造の快楽のかなり単位の小さいところに着目したわけだ


・色鉛筆などでも、何か、好ましい感覚を誘起するものは、色がよい、とかいう以上に、手に伝わる触感が好ましい(書き心地を食べて美味い)ということが、道具の選択理由になっていたりするのである


・そうやってその当人のクオリアのなかの快楽性に基づいて、道具や色の配置や線の性質が決まっている、ということが全くどうやら起こっている


・通常的に、他者の目、という器官をあてにして描く絵画には何かしらの倒錯を感じる。快楽からの遠ざかりに思えるのである


・フロイトの快楽原則においては、快楽と善は一体であるとされる。つまり、他者の目という器官から離れて、自らの快楽が生じる描画を続けるほうが、少なくとも善なのだろう。善行なのである


・逆に、他者の目、を基準にして描かれる絵画は、悪、だとさえ言えそうだ。悪行なのである


・プラトンは根源的な生命の実体として、それを、善のイデアとか、しかも、美、と呼んだ(洞窟人の比喩など)


・フロイトが言う善、と、プラトンのいう善のイデアが同じものかは検証していないのが惜しいが(まあ、ざっくりとは同じだろう)、それが、プラトンとして、美しいということと同じものだと言われているわけである


・つまり、本人の快楽のために描かれる絵画は善であり、ゆえに、はじめて、美しい、ということに到達するのである(これは今後検証しなければわからないことではあるが)





■色鉛筆と即への憧憬1(太陽模写への即度)


・なぜか、色鉛筆、に落ち着いた(パステルやコピックも使うのだが、とかく色鉛筆に落ち着いた)。


・因果関係としては、自らが、デザインの出身であるため、それらのデザイナーの道具に相性があったから、とも言えるだろう


・だが、抽象的には、または、無意識的には、どうやら理由はまた異なるらしい


・〈太陽模写〉、という問題がある


・さて、太陽を模写することなど可能なのだろうか、ということだ。なぜなら、視覚に入った瞬間に眩しさで、1秒経たずに目を逸らしてしまう


・果たして、あの太陽のイコン(いわゆる丸くて白い円と周辺のグラデーション)は、本物なのだろうか。まあ、自分でイコンと書いている時点で、人間はあの手の太陽を写実的には捉えられず、さまざまな人が描いた、太陽断片、を最適化して、あの手の太陽のイコンが描かれるに違いないのだ(太陽の写実、絵、というのは全体編纂的だ)



・だが、興味深いのは、個々人の見た太陽は、その太陽断片は、どのようなものなのか、ということである


・わたしの目には、太陽はものすごい速さで動いているし、なんらかの残像のようなものを刻印してくるナニカである。必ず動いている(最後に緑っぽい光線を瞼の裏に、照射してくる)。


・つまり、太陽即目玉、自体にまで、引き下がることでそれを捉えたいわけである


・そうなると、それほどにはやい対象を描くには、視点自体にまで後退しながら、それを即対象とする、"逃走(超入)を目の前に掲げた逃走(超入)"が必要になる


・その結果、それは、全身全霊、という企投によって、その対象即自分、は写実されるしかない


・これは、ハイデガー的にいえば、頽落からの常時の想起、にも繋がっている


・対象を描くためには、それを描く自分にまでバックステップして、〈対象即自分ー自分即対象〉というやつを述語し続けなければならないのである


・この述語を実装するには、対象か自分の片方に魅入られる前に、その両者を主語化したところで、即描画しなければならない


・その際の実際的な方法と、象徴的な方法として、速乾性のデザイナーの道具や、とくに色鉛筆というのは、両挙なのである


・即、とは、絵画における、対象を描く自分、を脱構築して、"対象を描く自分が対象でありその自分が対象を見る"、という原動態、その円環のなかの"原動態(ズレ、差異)"を描画することなのである。


・デザイナーがやる修行のなかでは、ひたすらに綺麗な円をボールペンで描くというものがある。わかることは、"必ず歪む"の一事である(ちなみに、わたしは絵にボールペンも使う)


・円環を描くと手や腕の動きや目や頭の動きは、決して円環的でも対称性に充ちてもいない。描く、ということで、その原動態自体を、さらに、メタ的(もしくは根源的)にエガクということをしているはずなのである


・つまり、芸術家は円環を描いても、グニャグニャになり、歪んだものを描くのである。なぜなら、円環を描いて捉えた世界が、自らのうちに挿入され、自らの表現が、描く円環に挿入される、という差延(原動態)が、そこには稼働しているからである


・速乾性のデザイナー道具や色鉛筆というものは、円環を描こうとしても、円環になれない、ということの負の発見に嫌気がさして、それをどうにかしようとして、加速化した結果この差延(原動態)に追いついた、という一致によるのである




■色鉛筆と即への憧憬2(色鉛筆から死へ。つまら神と顔と顔をあわせて見つめ合うこと)


・ボールペンはズレる、滲む、同じく、色鉛筆は塗りムラがある。パステルは輪郭が定まらない


・円環を描こうとしても、最後に気がつくのは、描けないということ、または、面は塗りつぶせない、ということ


・だが、なぜ、円環や美しい写実や完全なる塗りつぶし自体を希求するのか


・おそらく、全く円環でも写実的でも塗りつぶされてもいない、人間という非対称性主体は、自らを認知するためには、完全な円環、完全な写実、完全な塗りつぶし、完全な対称性客体を、創る、あおぐ、召喚する、祈る、ことで、現出させ、それを"鏡"にして、自らを高次に認知したい、というようなことにおもう


・自分自体や世界自体が鏡になる、というより、それすべてを写す、美しい円環の鏡、を求めるのだろう


・その鏡を求める純粋な希求こそ、アートという営みと、その失敗(ゆえに成立するアートということ)を映し出している


・なぜなら、その、美しい真の円環の鏡。――それを見たときに、自らは完全に見出され、おそらく、死を迎える(死亡とは異なる)


・聖書にも似たようなことが書いてあったことを思い出す。聖書箇所 Ⅰコリント13:12~13/「13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」


・その、美しい真の円環の鏡、を描くことで、創り出した結果には、即―死が待つ(死亡ではない)。それは、神と顔と顔をあわせて見つめ合う、あの世界へ入っていくことのようなのだ


・ここに、洞窟壁画への洞察も含まれうる


・なんらかの鏡を創ろうとしたのではないだろうか。つまり、いや、まさに、鏡、を作るために、まずはじめに、洞窟壁画が描かれたのではないだろうか


・アートは、洞窟壁画は、鏡、を目指していた、という考えである(アートの原型は鏡)


・現に鏡ができて、人間が、鏡の反射的になって(自意識の芽生え)、なんらかの転倒があったことになる


・人間は真理を知りたい、得たい、のではなく、自らとは何かを知るために、自らを翳し反射させてくれる、鏡、を、つまり、すべてを相対化するところのまさに真理を求めたに違いない


・動機の話なのである。真理を得たいという欲求とは、即、いや、原的に、自らがなにもので、一体なにで、どんな意味があるのか、を知りたい、というときの鏡として、のみ真理は、道具、として要請されるわけである


・そうなると、鏡なき時代に、洞窟壁画に描かれた手の投射図やこころのなかの動物のイメージの投射を模造(アート制作)するという意図は、"鏡に向かう意志"、だったのかもしれない(自意識の獲得への意志)


・意識、か、こころのなかで、なんらかの反転が起こったのだろう。内側にあるものを外側に投射し、それをふたたび、見る、という行為は"内側を知ろうとする(内側の)意志"というこころのアクロバット飛行だったに違いない


・そのベクトルは意識、自我、実存、信仰、というベクトルを人間に生んだのかもしれはい(まさに洞窟のなかのこころに一筋の火のひかりが入ったのだ)


・アートは自分を知るためのより大きな鏡である


・その際に、正確な写実で世界を描写し、全くきれいな円環を描いて真理を獲得しようとしたときに、自らもまた真理に含まれているために、描かれる円環は歪むのだ。その歪みこそ真理のうちの自分の部位なのである


・もし、色鉛筆で色ムラのない面を塗れたとき、また、ボールペンが滲まなくなったとき、それは、わたし(歪み)の完全なる死であり、わたしは、描くものから、描かれるもの(世界〜神のなか)になるのだろう


■意識を捨てて(無意識のリバースエンジニアリング)

・カジミール・マレーヴィチの無対象性や、アートのある種の対称の喪失性というのは、意識上での発見が終了した、という合図に過ぎない

・無意識に向かへ。こういえば、チープな響きなのだが、全身全霊で、自らを無意識へ企投する、ということだ

・ぼくの場合、幻視やいわゆる幽体離脱、シンクロニシティまで朝飯前のシャーマンになってしまった(非薬物)。この神秘的な体質は小5の頃に幻視が始まったときから拡大し、幽体離脱で異世界を巡り、ついには、神のみ前にたつ(楽園やモーセの燃える柴)、というところまで無意識世界の道筋をつけてきた

・かといって、神秘画家とか、イコン画家というわけではない(本分は芸術家にとどめたい)。かなり、しばらく、は、心理学とバウハウス的な設計を取り入れたアート界での活動を続けるつもりだ

・だが、一体、それらが、芸術の方向性と何の関係があるのか、といえば、大有りなのだ

・意識の世界では、言語も表象性ももはや限界だ。だが、無意識の世界には、無意識の世界なりの言語や理法や表象性が、満ちているのである

・これは、神秘学〜オカルト、というより、心理学や哲学を門にして読み解きたい

・心理学者のラカンは、無意識には、無、ではなく、それ独自の言語が稼働している、というようなことを述べ、哲学兼心理学者のドゥルーズ=ガタリは、それらのことを、機械状無意識、とか、抽象機械、というアイデアで、そこには、まさに機械や言語のような、無ではない、ナニゴトカ、ナニモノカ、が犇めいていることを示唆している

・実体験的には大当たりである

・中沢新一さんは、これらをレンマ的な知性と呼ぶ。とくに、理事無礙法界には、機械状のもの、言語的なもの、現代の芸術でも表象可能で、意味抽出可能なものが満ち溢れている

・わたしの場合、たとえば、感性的遠近法とか、画内額縁(による額縁外描写法)とかは、完全に、このあたりの無意識から掴み上げてきた、芸術方法、意味設計なのである

・無意識のなかでは、設計の力が働いている、というより、無意識それそのもの(こと理事無礙法界)がすでに、設計を絶えず即稼働させている。それを意識表面に捉えてしまうだけなのである

・これは、実は、表現主義的な方法というよりは、まさにバウハウス的なもの(つまり、設計)、と抜群に相性がいい(「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の世界観なのである)

・無意識は機械的なのである。つまり、設計的なのである。無意識のなかの機械を、リバースエンジニアリングして意識世界に吐き出す、という行為をぼくは、やっていることになる

・ぼくが無意識から発見した感性的遠近法なんてものは、物理的距離の概念ではなく、目へのストレスのクオリアを基準に遠近を表現する、といったようなもので、まさに、こういうことなのだ、と確信を深めている(意識上の操作からは、この無意識の設計たちをリバースエンジニアリングできないのだ)

・とにかく無為に紙の上に描画し(自動書記のように)、出来上がったその絵をこそ観察するのである。ある種、現象学的還元のように、一体、何が、起こったのか、を描き終えた時点で、はじめて企画するのである

・そうやって、発見をする。それを自然的なコンセプトとして記述していく(これが、無意識からアイデアを引きずり出すだす、もっとも簡単な方法だ)

・さて、こうやって、手前の発見(絵画の新設計方法)を肥やしながらも、果てのビジョンはあるのか

・実はこれは、神秘体験の極地で確認済み、道筋をつけている

・わたしはクリスチャンなので、以下なのだが。

・なんと、楽園(天から降るあたらしいエルサレム)の設計図(即建築)を作品にして描く、ということが、わたしの道筋なのだ(さて、この飛躍にあなたは耐えられるだろうか? これは意識の企画ではなく、わたしは、神秘体験で、そのことを見てしまった以上、無意識の奥側にある、神のようなもの、からの依頼なのである)

・無意識は機械状の世界を超えた果てに、やがて意識世界に降るところのあたらしい楽園を、その最奥部に建築中なのである(細かいはなしだが、まだ、建築中であったことを覚えている)

・このあたり、実は、わたしは、ウィリアム・ブレイク(とかビンゲンのヒルデガルト、ダンテ、ヤコブ・ベーメ、アビラのテレサ)などのほぼ直接の系譜なのである(この飛躍の胡散臭さに、ああ、堪えられよ、汝)

・まあ、どれほどの神秘体験で、どれほどのものを見てしまったのかは、あまり言わない(その水域のことは、現代アート外だから)

・ただ、これから何十年かは、アート界に携わりながらも、晩年は、イコン画家、になりたい、という方法も考えていたりする

・実は、バウハウスからの道は、聖なるものへの、神聖なるものへの道に、無意識を媒介することで、通じているのである

・芸術家は、ネタに尽きて、果てようとも、神秘家にとってネタは無尽蔵だといえる。とはいえ、何十年かは芸術家でやっていくので、ガタリ=ドゥルーズ、ラカン、中沢新一さん、などの、こころ、とか、無意識、についてを深めながら、その世界に宿る原設計、機械状無意識を、バウハウス的な方法で、リバースエンジニアリングして作品にすることにしばらくは勤しみたい(そして、それは、実は、あたらしい楽園の設計図〈即建築〉になってるのである。うふふふ)

■視覚的無意識の理解


・図と地にわけると、分節(図)、性質(図)、マチエール(地)、テクスチャ(地)である。その先に視覚的無意識の効果がある


・視覚的無意識の意訳は、「捉えがたさ」である


・ある一面を塗るにしても、ベタで塗るのか、なんとなく、ジグザグさせるようなアンフォルム的に、つまり「捉えがたいように」塗るのか、である



■芸術における哲学の必要性


・同じく純粋な分野性ということで、単に、関係がある、ということと、コンセプト設計において、哲学が活用できる、ということはそうであるゆえに、ここでは除く


・純粋に、哲学的に、たとえば、コギトや、即自存在的であることや対自存在であることなどの視点を意識のうえに宿すことは、造形や描写や創造に強く関係する


・ある一本の線を引くにも、その長さをどこまで引くのか、といったときに、茫漠とした意識では、ある程度の長さに引くまで何も思考が起きない


・だが、意識の中心点を、哲学的に遡りクオリアベースにまで辿り、そこに置いておくことで、たとえば、線を引いているときに、「ここで止るか」または「まだ引くか」という自由が現に生まれる


・これは、事実である


・哲学を身に馴染ませておくことは、一本の線を引く際にも、明らかに関係しているし、効用している


・さらに神学的、宗教的、神的、神なるもの、にまで遡るとき、意識(引いては自由意志から自体性)からして、聖性、神性、神聖、聖なるもの、神なるもの、まで、到達し(順序には自信がない)、自由は神律となる



■造形思考

・造形をどのように思考するのか


・思考をどのように造形にするのか


・おそらく、パウル・クレーがやったことである


・造形思考、という本を発注したが、届く前に自身の方法を見出してから、読んだほうがいい(パウル・クレー二世になってしまう可能性がある)


・以下、自身の考え


・造形は目ではなく手にあることは、フリードローイングをはじめて、よくわかるようになった。思考は目だろう


・目から手、への流れより、手から目への流れのほうが、意志、が明確に流れる。力の優先性/ヌーメンの優先性/盲御前(めくらごぜん)などの達者さを思う


・わたしとしては、造形思考、というより、構成思考なのかもしれない。レイアウトを決めるときには、たしかに、手からの分節が起こり、目(思考)が起こる(造形はかなり手が優先する感覚だ)


・造形には思考(目)は使いたくないかもしれない(まあ、でも、パウル・クレーの言った思考は手のほうのことだろう、とも思うが)


・イコンなどはレイアウトや画面構成に意味、識字性、思考による認知が求められているように思う(というか、絵画一般において、そう、だと思う/つまり、なんら、ふつうのことを書いていることになる)


・ひとつの方法は、イコンの構成やイコノロジーを解体して、それを絵画に応用することで、妙、の効果を狙うこと(イコンの画面構成のルールをアートの画面構成にリバースエンジニアリングすることで、独自理論的なレイアウト、セオリーからの解脱を成せるだろう)


・だが、これは、思考、のもっとも浅い部分である


・だが、まずは、それでいいだろう(やってみて、化学反応の起こることを待つ)







■意図

生きていること自体の確証




■人間


・アートが人間をするのか、人間がアートをするのか、これは難しい


・さらに、人間は人間であるのか、と問えば、さらに難しい


・たとえば、いわゆる「人間」ではない、人間(たとえば、ニーチェ的な「超人」でもよい)がいたときに、「超人」のアートは、理解されうるのか、伝わりうるのか


・そもそも、アートは、「伝える」ことに成功してきた、といえるのか。「伝える」のはデザインではないだろうか(シグニフィア等)


・アートは表現だろうか。表現や提示だとしたら、その表現や提示、は、伝わる、伝える、ことが成功しなければ、表現や提示、になり得ないのだろうか


・視覚的無意識、聖なるもの、がアートには期待されているのだろうか


・だが、そうであった場合、アーティストは、何をすればよいのか、どうすればよいのか(聖なるものを作れるのか。視覚的無意識を呼び覚ますものを、どうやって作るのか)


・主張やメッセージだろうか。ならば、言葉でなくて、絵や彫刻やインスタレーションである必要はどこにあるのか(拡大した言語性の言語からの余剰を主張するため、とでもいうのだろうか)



■大地


・大地(そのアーティストが育まれた土壌や経歴や記憶)は、アーティストとどう関係して、作品にどう繋がるのか


・マルセル・デュシャンを現代アーティストの代表と捉えると、彼の作品のどこに大地性があるというのだろうか


・アートとアーティストは異なる


・この理解がなかったのかもしれない。一見、アートとアーティストは密接に関係しているように思える


・だが、アートはアーティストを代表しないし、アーティストはアートを代表しない


・本来完全に分離されたもの同士であるが、アートとアーティストのアイダにある、アルス自体が、アートとアーティストを同時に発生させるから、両者には関係があるように見えてしまう


・両者に関係はない


・あったとしても二次的な関係のみである


















ーーーーーーー区切り直しーーーーー




デウス・エクス・マキナ,神は半生である。




時間をかけて描くのではなく、時間自体を描くことで、ついに、時計仕掛けの神のスガタが現れている


だが、現代人には、祈り、の時間さえあまりに不足してい。ついには、時計仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)は、抽象化したスガタに、溶融して現れてしまっている




・補体を描くということ




■感性理論(仮)


・天然自然的なものが、非理論的な、ものにのみ現れる、というのは正しくないのではないか、という想いから、考えている


・天然自然や外部性、感性、たとえば、霊的なもの、とか、そういうリーチまで含めて、理論的なもの、合理的なもの、のなかにも、それらは現れうる、という考えである


・レンマ的知性が、ロゴス的知性に完全に相似したり、本質の一致をみることは、ありうる(重ね合わせの位置)


・たとえば、三位一体の神論というものが、キリスト教にはある(宗派によって多少構図は違えど)


・おそらく、この三位一体の神論、について、それは理論(神学的な理論)なのだが、一体、何のツジツマがあって、それが合理であり、理論なのか、わかった、という人間は不在に思う


・だが、不思議なことに、三位一体の神論が、非理論的理論であれば、あるほど、それが、偶像崇拝の危険性を排除しえているメタ構造に気がついた


・端的に、神を偶像(理論)にしたい、という欲望と、神は偶像(理論)ではないという願い、という両方を叶えているように、わたしには思えたわけである


・旧約聖書の時点で、神は「エヒィエ・アシェル・エヒィエ」と名乗り、「I am that I am 」という、非理論的理論、非言語的言語を、駆使しているように思える


・その、非合理的合理―合理的非合理、は、人が、神の名や構造を掌握して統治のために神をコントロールしてしまう危険性を排除しながらも、神とはいかに、という理解への欲求を叶えているように思うのである(その予感はアウグスティヌスの砂浜の水溜りのエピソードやトマス・アクィナスの晩年の藁屑発言でピークに至る)



・レンマがロゴスに挿入され、ロゴスがレンマに挿入されている、という極地を思うわけである(哲学的には、デリダやドゥルーズの脱構築、とメイヤスーなどの思弁的実在論の欲求をあわせもって解消しているように思える/無論、哲学的には両者は全く別の意味や意義ゆえに神学には接収しえないだろうが/まあ、つまりここで哲学を持ち出したのはナンセンスだろうが)


・天然自然的論理性


・まあ、一旦は、このように、仮称しながら、イメージとしては、三位一体の神論のセンスによって、バウハウス的なもの、は超克しうる可能性を抱いている


・バウハウス的なもの、は、やはり論理的終始がきっちりとしている。そこに感性や技術が含まれてくるので、あやふやに見えるが、モホリ=ナジ・ラースローなどの「芸術は建築に向かう」という手の発言から、やはり、理論的には終始されていると捉えることができる


・三位一体の神論的なもの、を芸術に、応用する、肝の部分は、それを制作者本人は理解できている、ということに思う


・殆ど、啓示性の理解であろうし、抽象機械ともいある、無意識の反映がそこに現れると思うのである。つまり、「論理的な神秘」というものがテーマになるわけである




■設計


・概念遠近法ー画内に額縁を描くことで、奥行きのない奥行きを現している(日本の賑やかな都に奥行きはないのかもしれない)

・連想遠近法ービルの上層は華々しく花開いているが、下層には重責したノルマたちが青ざめて狭窄し今にも折れてしまいそうに喘いでいるがその全景は美しい(と、いう他に許され難い)

・時間遠近法ー中心に朝があり、中層に昼があり、周縁から夜が迫っている。それは確実にやってくる夜であり、いつか渋谷の中心から夜の黒色が溢れ出すことを期待している(時間の問題である。来るものは、社会情勢の黒字だろうか、自然現象の揺れだろうか)





■色鉛筆と可能無限性


・色鉛筆を選択することは、ファインアートにおける可能無限性をとったことになる


・アートは世界観の提示だが、その評価性のひとつとして、世界観の強度があげられるだろう。この意味で、色鉛筆を、選択したことは、強度である


・解体した設計図を、再設計するのである


・つまりアフォーダンス的な補体の逆形成(設計の内蔵)


・「神聖なる膜」の表出。それはアフォーダンス自体の露呈のことである


・アフォーダンスはひとつの物語重力である。出来事、言語外を含めた意味自体


・造形とフォーム




■ドローイングの設計







■質感、マチエール、品質


・色鉛筆と紙でアート作品としてのマチエール(品質)を求めると、自分の場合、若干、ガラス的なもの、の質感になる


・技法としては、ボールペンと、フィキサチーフを重ねていくことで、見えないレイヤー(つまり、滲み)が積み重なっていき、物体感が獲得されていく


・デジタル画像でみたときよりも、現物でみたときのほうが、より、その質感は再現されるので、これは、マチエールの開発としては成功した部類だろう


・これは、ある意味では、マチエールに感心が薄いところから始まりつつも、意図的に時期がくるまで、市販的マチエール具材を放棄してきたことが、偶然、功を奏したと思っている


・人工的なものが好きである(なぜなら超自然的だからだ)


・だが、絵画が、自然的に過ぎたときに、どこまでその人の人工性が描いたのかということが、自分は気になってしまうのである


・ゆえに、アート、というよりは、デザイン、から入っていったのだろうと、思う(デザインには、必ず、とは言えねど、理屈や理論が、あるからだ)


・勿論、アートも学んでいけば、理屈や理論があるけれど、わたしが訴求したかったのは、それが一般人にもわかること、だったといえる


・偶奇性をもっとも好む。だが、それゆえに、偶奇性を廃したかった、というのが正直なところでもある。というのも、そうでなければ、自分が継続できる自信がなかったといえる


・人工に頼らなければ、継続できない、という理由は、恐らく、死んでしまうということに意味される(ジャック・マイヨールやジャクソン・ポロックの自殺)


・そういうマチエールなのである






■視覚的無意識の非設計性


・構文は、次のようなものである。「事前に設計をして、無意識を象徴として絵に描く、という方法」ではなく「フリードローイング的に描いて、その絵に無意識からの設計の兆候を探しだし、コンセプトにリバースエンジニアリングする」


・モデルは、精神分析で取り扱われる、箱庭療法である。制作物を作って、その製作品から、制作者(無意識)を分析し、結果を記述する


・やはり、この意味で、というか、この意味で絵画をみたときに、はじめて、ベンヤミンの言った「視覚的無意識」というのは現前するのである


・視覚的無意識を現前させるために、絵を制作する、ということは、かなり無理だろう。ただ自然に描いた絵、を観察して、そこから無意識の声をサルベージして、それを記述して、あわせて見せる、ということで、その作品は、「無意識性の視覚」を獲得する


・グリーンバーグのいうような「LOOK」による、全体把握、視覚的無意識の稼働、は、おそらく、「READ」の際にも現れうる


・たとえば、デザイナーはそのことを知っている。なぜなら、文というものに、フォント、という処理を加えるだけで、印象、が大きくかわる。それは、単なる印象ではなく、無言語性の視覚的無意識になんらかの影響を与えているわけであろう


・つまり、「LOOK」目的の絵よりも、「LOOK」と「READ」のいずれもあるアートが射程である




■色鉛筆によるマチエール


・マチエールとは品質みたいな言葉で、稚拙さ、と反対の意味を指している


・要は、油絵とかアクリル画で、ジェッソとかメディウムを使って、モノとしての高級感、を出したりする。表面に砂やテクスチャをつける


・速乾性画材においてこのマチエールの醸成のために、どうしたのものか、と思っていた


・表面になにかを塗布するには、色鉛筆やコピックマーカーは弱すぎる


・そこで、苦悩した結果編み出したのは、紙の裏側にマジックやボールペンを使って、線やダマを描き、コピックマーカーで裏写りさせる方法だ


・それで、表面をみると、ものすごく、よい感じに、無作為な質感で、平面的な奥行きがでた


・つまり、色鉛筆用のマチエールを開発したわけだ


・このように、ひとつひとつ常識や既定の方法にない、あたらしい手法や方法を開発しているので、骨がおれる


・このマチエールの醸成は、イラストとデザイン、と、アートを区分ける最大の部分だろう





■アートとイコンとイラストとデザイン


・アートとデザインとイラストの違いを発見しようとしている、探っている


・あえて、紙と色鉛筆、という表現方法に縛り、具象を、非写実、非抽象、とし、描画をイラスト、デザイン、に固定することで、アート性、を探っている


・アートのイデア(トポス)は、生成変化するだろう。だが、イラストとデザインではないだろう


・このスリットに超入しようとしている


・アートが、場、に詳しいことはある程度わかっている。デザインやイラストが、場(たとえば風景など)を参照しなくとも成り立つ、ことはわかっている


・他方、不思議に思うのは、アートが、一旦は、抽象以降、場、を喪失したように思える


・だが、抽象以降は、描く人自体が、場、になるという方向性への感覚だったのだろう(実存という場)


・そんなことが可能だったのは、そもそも西洋絵画が、イコン、をベースに成立してきたからなのかもしれない


・イコンは、対象とする場、が、天国や神や今はなき聖人などだ(ラカン的には現実界)


・ある意味で、アートは、今、イコンへの回帰曲線を描いている


・無神論ベースの世界では、ヒューマニズムであり、人間という神を描くとき、そのゼロ距離の対象は、他者より自分というものになるだろう


・自分をゆえに、アーティストは、他者を写実するか、他者化した自分を描く、ということになる


・わたしも思考を、主張としてコンセプトに書くというより、思考の流れ、を書いてモノリス的にみせる(理解は求めていない)というかんじである


・対象は違えど、イコン化している


・こうなると、イコン画の思想性のなかに、まさに、今のアートのアート性を探りうる


・端的に、イコンは対象を描けない、ということを前提に描かれる。アートも全く同じである


・自己表現しようとしても、自己表現(相手が、わかる、ということ)は不可能なのである


・イコンはあえて、稚拙に描かれる。それは神を描くことは、不可能(逆効果=偶像崇拝)である、という敬虔による


・で、あれば、アートは、人間(表現者)を描くということもまた、不可能である。これはあまりに微妙かつ、そこには、他者が思うわたしと、わたしの思うわたしのズレ、というセンシティブな他者性と主体性の事実を有している。


・そうなると、主張すべき、表現されるべきは、誠実な、あえて性、である


・つまり、作品は、あえて性自体であり、コンセプト、とは、実直に書かれるべきである



■アートとデザイン1(無限性と有限性)


・文言上では、応用されるか、されないか、という一点で決まるのだろうが、どうしても、アート作品とデザイン作品の感性的な違いというのが、どこかにある


・それを知ろうとして、バウハウスのヨハネス・イッテンの作品(もっともデザインとアートの境目を感じさせる芸術家である)を観察していると、「無限性の質感の有無」が関係していることを発見できた


・アート作品には、どこか、無限性が潜む。それはもっともわかりやすくは、奥行き、であろう(遠近法など)


・だが、イッテンの作品で、デザインっぽいんだけど、アートな作品を鑑賞していると、やはり、遠近法としての奥行きなど皆無なのに、アートっぽい、無限性、を感覚させるものがある


・どういうことかというと、画面や構図わ配置の対称性にズレがある作品はアートに見えて、対称性が完全に近いものは、デザインに見える


・この質感を、「無限性、非対称性、ズレ」ということで覚えておきたい


・具体的には、非対称性の配置や構図(非黄金比含)を促進させる。そのためには、細かいパーツを画面内に堆積させる、という方法がよいと思う


・自分は、小さな四角形の群れを画面内に点描のように入れ込むが、これはデザインからアートに向けていくよい方法のようだ。小さなものが無数に増殖するように存在していると、無限性の質感が生まれるようなのである。そういった、執拗さ、というものはおそらく無意識から露呈してきているはずだ。この小さな四角形の群れを、自分は、機械状(幾何学的)無意識の群れと呼んでいる


・あとは、ヨゴレ、塗りムラ、という非ポスターカラー性(非ベタ塗り)の、手書き感、を残存させる、というように思う


・このあたりは、パウル・クレー(バウハウス)の独壇場ではないだろうか


・カンディンスキー(バウハウス)は、今、この時代に見てみると、もはや、殆どがデザイン作品にしか見えない


・ファイニンガー(バウハウス)が、どうみてもアートなのは、対象が写実世界のものだからだろう(これも大きな発見である。写実的な対象があれば、ほぼ必ずアート作品に見える)。そうなると、写実的な対象から抽象画によれば寄るほど、イラストかデザイン画に見られる危険性が上がる、ということでもある。その際に、無限性の質感を投入すること、というわけだ



■アートとデザイン2(ヨゴシとチセツ)


・最大の難問である


・ヨゴシ、と、チセツは、どう違うのか、どうすれば、ヨゴシ、に見せられるのか


・まず思い浮かぶのは、能動的なものがヨゴシであり、受動的(仕方がないもの)がチセツだろう、ということだ


・塗りムラや直線のブレなどが、ヨゴシにみえるか、チセツに見えるか、これが、難問なのである


・いや、考え方を変えてみよう。チセツさ、を消す、ことは不可能である(直線が直線性にしかなれない問題による)


・こうなると、チセツさ、はそのままに、さらに、上や下からヨゴシ、をカブセルのだ


・能動的なヨゴシをカブセルことで、チセツ、をも、ヨゴシに見させてしまう、というものに思える(これは実験しなければわからないが、今までの実感的には当っているだろう)


・ヨゴシの方法を編み出せれば、それは、即、なんらかのマチェール(全体質感)を生成するだろう


・アクリル画や油絵などであれば、下にジェッソ、上にメディウム、である


・だが、紙と色鉛筆の場合、何が、ジェッソとメディウムになりうるのだろうか


・しかし、ここでわかったのは、カンディンスキーがジェッソとメディウムを使っていないこと、パウル・クレーはジェッソとメディウム(相当のなにかヨゴシ)を使っていること、なのだ


・ひとつに、用紙の色を白以外にする、というのは、ジェッソとしてのヨゴシ、に入るだろう(現に用紙の色を変えると、チセツとしての色ムラが見えなくなる効果は確認している)


・ふたつに、メディウムとしての、ヨゴシ、をどするか、だ。コーヒーなどぶちまけたいし、水彩を使いたくはあるが、紙は、水にもかなり弱い


・苦肉の策だが、オイルパステル(とくにセヌリエレベルのオイリーなもの)、を、指につけて、上からファンデーションする、などが、今のところ思いつく限界である(ただ、その際には指紋が、出てしまうだろうから、布か、まさにファンデーションのパフなどにオイルパステルをつけて、上から塗布する、がいいだろう/まあ、殆ど、パウル・クレーの方法と同じだ)


・だが、この塗布の方法を、昔、水彩絵の具でやったことがあるのだが、ものすごく、不自然な膜がうえから掛かったみたいになったしまうのだ(表面のヨゴシだけが浮いてしまう)


・おそらく、だが、画面上に、何かを塗布する、という方法は、色鉛筆と相性が物凄く悪いだろう


・そもそも明度が高い配色のなかに、その表皮性を、ヨゴス、場合、ケガス、になる可能性の方が余計に高い


・こうなると、ニジミ、を使うしかないだろう


・用は、黒色の箇所は、すべて、線、だ


・この、線、をどのように、ボカシたり、ニジマセたりできるのか、が勝負だろう


・またもや、やはり、もう試しているのだが、フィキサチーフを塗布すると、ボールペンで描いた線は全般的にニジム


・さらに、より、ハードにいくなら、透明や真っ黄色のコピックマーカーで擦ると、物凄くいい感じに、ニジム


・これが、ヨゴシ、の質感を生成する、と思うのだ


・だが、今ひとつ、バチっとハマらないのは、おそらく、ボールペンが100円均一の0.5mmだからかもしれない


・つまり、ビックのボールペン0.7mmを使うべき、ということだ(うーん。学生時代にどんどん戻っている)



・おそらく、チセツ、の正体は、ボールペンで描いた輪郭線から、色鉛筆がはみ出したり、とどいてなかったりするところだと思うのである


・そうなると、ボールペンの線を、ニジマせる、という処理で、直線を若干、ニジンだ面にしてしまえばよいのだ


・さて、お土産として、もうひとつ方法を決めたのだが、塗り、は色鉛筆、線、はボールペン、に定めてしまおうと思う


・そうなると、かなり太いボールペン、と、色ボールペンも買わないとな(コピックマーカーでの線は、まだ、試していないからわからない)




■方法の模索1


・幸か不幸か霊感がある。もともとは、霊感による線、というものを、重視していた(自分の初期のドローイングを見ると、ものすごい霊感である)


・直感的に過ぎる、ということは問題になりうるのか。いずれにせよ、自分は問題にしたのだった


・霊感がありすぎることは、たとえば、法律の正当性を求めてモーセの十戒にまでたどり着くような全景性を、この狭い時空間のなかに希求させる


・夜、眠りにつこうとする度、第3意識状態に移行し、体脱の果てに、全く違う宇宙の全く違う情報を心身に宿してくることでもある


・だが、一方で、理系の旧帝大(バウハウスの派生としての九州大学芸術工学院)を卒業してしまうくらいには、方法的でもあった


・これは、問いと解答というより、解答と証明の関係であるし、それゆえに、実は、なかなか、宗教には納まりきれない性質でもある


・神のようなもの、が見えない、わからない、という場合に宗教的なある側面と吸収率は抜群になるのだが、そうでない場合、たとえば、マイスター・エックハルトやヤコブ・ベーメのようなスキマに漂い、後年の理解を待つというようなことにならざるを得ない


・それは、宗教の神と、神と、の間の連続と不連続を認知せざるを得ない、という性質であり、まさに神的な直線の不可能性に立ち会う(エヒィエ・アシェル・エヒィエ的)、という枠外の視点のはなしになってしまうからだ


・こうなると、人間である、という意味の拡充のためには、方法に修検せざるを得ないということがあるのである


・純粋に、デザイン、というだけでは、あまりに、落ち着きがとれず、結局は、アートという広さを取ることにはなったのだが


・たしかに、デザインにも、アフォーダンス、直線の虚偽性、インタラクティブ、という深淵(霊性)への、溝(聖なる膜)は、存在しているのだが、それを表在化させようとすると、必然、宗教的な曼荼羅だとか、聖なるイコンというところにすっ飛ぶところがある


・つまり、わたしが思考し思想しなければならない橋(ブリッジ、位相の接続)は、〈バウハウスとイコン〉のムスビカタなのである


・ゆえに、メビウスの輪状にデザインと信仰とをどうムスビうるのかを、常々考えている


・幾何学というフィールドまで上昇すれば、信仰(十字架や曼荼羅)とデザインは接続できるが(思想はできるが)、方法(≒思考)、というものが、欠落してしまうのである


・方法、とは数量化理論や修辞法や建築法、まさに、設計方法のことなのだが、ここには、ものすごく難しいテーブルを配置しないと、方法が展開できない


・そこで目をつけているのは、やはり、心理学、それも、ドゥルーズ=ラカンのいうような、抽出機械とか機械状無意識、無意識のなかの幾何学性というものだ


・つまり、端的に言ってしまえば、精神分析、ということの方法論のなかに、必ず使えるものがある、と目星をつけているわけである


・たとえば、自分も何度か受けたことがあるのだが、ロールシャッハテストだとかは、かなり直感的なものを方法に置き換えるところの結び目に思えるのである


・それがまずひとつの方法へのアプローチである


・2つ目に、信仰や直感性のものにおいて、それをすでに方法化(経路化)するアルゴリズムというものは、現に存在している。それを解読して活用する、という方法だ。知的にはかなり高い峰だが、こっちのほうが、経験的であるし、現実的だろう


・どういうことかというと、カトリック教会に通ったりしているわけであるが、そこで、神、というものを、どのように、儀式、にまで方法化、経路化したのか、という観察と研究である


・たとえば、最後の晩餐は、聖体拝領という儀式にまで、方法化、経路化した。そこには、ロゴスやレンマというより、ミュトス(神話言語性)のアルゴリズムが働いているように思われるのである


・ある見方をすれば、聖なるもの、から、生身の人間がどのように防御壁を構築したのか、という歴史や、経緯、アルゴリズムなのである。その設計性をリバースエンジニアリングしていくわけである


・たとえば、なぜ、賛美歌を歌うのか、とか、なぜカレンダーの回り方が違うのかとか、ロザリオの数珠玉の個数はどうやって決めたのか、などになるだろう


・今は大枠でしか捉えられない。いずれにせよ、三位一体の神論(つまり三一の構造)をアウグスティヌスやトマス・アクィナスから再び学ぶ必要がある。まあ、神学、ということだ。神学が、どのような構造で回ってきたのか、ということ(つまりなぜ、学、になり得たのか)


・あらためて考えると、神学がなぜ、学問になれたのか、というの相当に不思議である


・神は宗教になったが、宗教はどのようにして神学という学問(方法)にまでたどり着けたのだろうか


・つまり、神学的方法、というものがあるのならば、それを取り出して、アート制作にリバースエンジニアリングする、ということになる(その意味では精神分析は統計法だろうし、哲学には弁証法とか、わかりやすい方法は存在している)


・だが、やはり、神学には、通常的な方法が適応されているとは思えないのである


・と、いうのも、三位一体の神論自体が、およそ、人間が共有できる、方法的な知性回路とは思えないのである


・三位一体の神論とは、方法的に定められたのではなく、聖書の叙述から、戒律的に定められた目茶苦茶だともいえる(だれも三位一体の神論を、読めた、とは言えど、理解できたとは言えないだろう。つまり、あれは、理論っぽいカタチをした、戒律、なのである)


・こうなると、方法の位置は、三位一体の神論を、"どのように擁護してきたのか"という逆方法的なところにあることになる


・西暦325年のニケア公会議にまで遡る必要が出てくるわけである


・そこでは、一体、どういう方法で、正統と異端を切り分けたのか


・つまり、「同質」と「相似」のあの論議はどういう方法だったのか(父なる神と子なる神は、相似してるのか、本質を同じくしているのか、というあまりに微細な神学論議があったわけである)

・だが、ここまで書いて、そのことをイマジネーションでは何か触れた気にはなれるのだが、言語において、説明する、ということは、およそ不可能にも思えてきた

・こうなると、挫折である(まあ、三位一体の神論から方法を引き出すなんて、人類史未踏に近いことは、晩年にとっておくこととする)

・然して、否定神学的方法と、肯定神学的方法を駆使することとした

・わたしの方法は一旦、否定神学と肯定神学の方法である

・こうなると、描かれた絵画、に対して、否定アート的方法、肯定アート的方法を駆使する、と言い換えたほうがわかりやすい(神とアートという言葉を入れ替えて、方法を稼働させるわけである)

・描かれた絵が一体どのようなものなのか、コンセプトなのか、を、その絵画を見つめながら、一旦どこが絵画であり、どこが絵画でないのか、を否定ー肯定の方法論に従って彫刻する、ということになる


・一度、徹底的に、否定神学(アート)的方法に基づいて、進めてみたいとおもっている


・と、ここまで思考して、アートというあったないようなもの、ないくてあるようなもの、は否定神学と肯定神学を繰り返してきたということがよくわかった(マレーヴィチの無や今のなんでもありの現代アートという結論にしか行き着かないだろう)


・困った。これほど、方法、において困るとは思わなかった


・否定神学も肯定神学も、アートに対して、続けるにしても、日々の制作において、もっと小回りの効く方法もほしいのである


・そのことについては、今回は保留にしておく



■方法の模索2


・ものすごく分かりアートの細かい方法を提示すると、バウハウスのヨハネスイッテンの色の理論など、イメージとしては抜群なのである


・新規に色の理論を組み立て、配色や配合をそのシステムに委ねる、という、そういうものが、方法のなかの方法に思うのである


・イコンの作法というのは、ひとつの方法なのだが、アート界における、コンセプト、にはなり得ない(思想性にはなるが、知的方法にはなりえない。やはり戒律的なのである)


・こうなると、デザイン、というところから、それそのものとしての方法を引き入れるのが、もっとも手っ取り早いだろう


・つまり、デザインっぽいものを創れることと、デザインにある方法を駆使してデザインを創ることには、方法の有無が歴然として存在している


・デザイナーの道具である速乾性の画材。とくに、色鉛筆のアフォーダンスとは何だろうか。まずは、徹底的な事実である、速乾性の色鉛筆を使っている、というところから考えたい


・色鉛筆という道具環境は、一体、何を誘発するのか


・①ペン先、手首の往復運動(筆の場合は往復はしない)、②明度や彩度の高い色を配色させやすい、③より小さなキャンバス(紙)を選択させる、④より細かく、直角的な面積の分節(幾何学的な細かい絵の輪郭)を選択させる、⑤塗りムラがでるという弱点が用紙の余白を活かす、ということを選択させる(用紙全部を塗ること否定するということ)、⑥一枚の大作よりも、多くの作品を描くことを選択させる、⑦混色によるグラデーションが弱いため、単色によるグラデーションを選択させる


・このあたりが、色鉛筆によるアフォーダンスだろう


・興味深いのは、②明るい色を選択させる、⑤用紙の余白を活かす、⑦単色によるグラデーションの誘発、という三点だろう


・この三点をオーバードライブするだけで、かなり、視覚的には独特な表現が可能になるはずである


・現に、色鉛筆の弱点を補うために、もっとも使用頻度が多いのは、自然に、黄色になっている塗りムラが見えづらい色だ)。必然、暗い色は塗りムラが見えやすく、どこか忌避している。そして、余白のすべてを塗りつぶすには相当の手首の往復運動がいるので、次第に余白(非塗色箇所)を表現として、見せる、ということもし始めている


・つまり、色鉛筆を使っていて、自然に現れたこれらの"傾向"を自覚して全面に出すことで、"方法"になるのである


・これを色鉛筆方法と単純に名付けて、記憶して、弱点や傾向ではなく、方法として押し出していこう


・さらに、これらの方法に対する、さらなるアフォーダンスとして、白色ではない用紙を使う(塗りムラ感を消す)、ということや、金属色を使うことで、塗ムラを活かす、ということなども発見できた


・画面全体があまりに明るく、薄く、浮いてしまうので、黒色を面として着色しようとするが、塗りムラが激しく目立つので、黒い太めの線を、画面中に引くとういう方法をしていることもわかった(こうなると、黒色のコピックマーカーを購入するのが、よりよい方法になってくる)。場合にとよっては、黒色の紙に書いてしまうという方法もありだ(その際は、全体が暗い絵画になることは前提条件になる)


・用紙の色、というあたらしい絵の具を駆使することも、今後は考えていきたい




■アート連関性(独り言、アファメーション)


・端的に他分野の証明や実践のためにアートはあるともいえる。アートは他分野のサンプルなのであるとも。そして、その他分野で「これはやはり応用できない」という排斥を受けて打ち捨てられたものが、ファインアートだろう(ファインアートをするためにファインアートをすることは、おそらく不可能である/他分野に挑戦して、打ち捨てられる、という無企画性によらなければ、ファインアートは「ファインアート」でしかないのかもしれない)


・たとえば、心理学で言われている、無意識の言語性とか、機械状無意識はどのような働きをしているのか、どのような理法、言語性なのかという、天然サンプルとしての示し、という意味合いはアートの根強い一部分だろう


・少なくとも、距離によらない感性的な遠近法を発見したときに、無意識の目、は、世界をこのように、見ているのだ、と驚いた


・意識はビルの前で物理的な距離や遠近を眺めるが、無意識は目へのストレス、を中心に世界を見たり見なかったり、してているようなのである


・無意識に遠近法があるのなら、ぼくの場合、目へのストレス、という基準で、そのストレスからの距離を遠近して、ビルを捉えているわけである


・ミメーシスしようがないもの、を発明したいわけである(それが可能なのかはわからないが)。私的言語的なもの、を発送したいのだろう


・つまり、無意識に入り、掴み上げて、観察し、意識に意識で示す、というやり方は、もしそれがミメーシスした場合に、感染した側は、シャーマンになることになる


・しかして、シャーマンは、無意識のなかから、ぼくのとは違う遠近法を探り当ててくることになるわけである(そのシャーマンはもしかしたクサイ臭いとか音の過敏などによる遠近法などを見つけてくるのかもしれない)


・つまり、無意識でミメーシスすればするほど、意識世界では、ミメーシス不可能になる、という構造を、ミメーシス一点張りのアート世界に附置しておきたいのである(世界にこれほど芸術家はいらないのである/ウィリアム・ブレイクの作品やアビラのテレサの霊魂の城〈エクリチュール作品〉の模倣不可能性)


・たとえば、ウィリアム・ブレイクの版画を、意識の世界で、どのように精巧に模写しようが、何の意味もないナンセンスであることは、よく理解できるだろう


・アビラのテレサの霊魂の城というエクリチュールを真似た小説を作れたとしても、何の意味もないことはよくわかるだろう


・彼らは全身全霊で、無意識に企投し、て、あるイデア的なもの(たしかにイデアとは言えないが、もはや本人にしか模倣不可能な固有情報)を表すために、サブスティテュート(仕方がなく模造、寓意)したわけである


・世では、この、サブスティテュートされたものを単に模倣する、という実のない、ことがアートということになっている


・つまり、みんな、大方、自分のなかに固有の情報源をもっていないのである(だから、他者的なもの、を横目で見て、類似を類似させていく他にないのだ)


・だが、たとえば、アビラのテレサは、どのように、0の状態から、あのようなエクリチュールを書けたのか、ということ(これが、そういった彼らとの違いなのである)


・洞窟壁画をはじめて描いた一人目はどうやって描いたのか


・無意識方面で勝手に霊魂の城(テレサ)や、抽出機械が、蠢いている(無意識設計能)


・そこをリソースにしてしまえば、基礎となる方法は同じだけれど、各々が引き出すそれに対するサブスティテュートは、全く別のものを、作品を生み出すはずなのである


・もちろん、この際の鬼門は、一体、だれが、アビラのテレサやウィリアム・ブレイクのそのシャーマン的な能力を真似できるのか、ということなのである


・これは一重には言えないだろうし、実はアート世界外である。それこそが才能というものだろうし、場合によっては、宗教や神秘学的な修行でも開花するのかもしれないし、レンマ的知性、シンクロニシティやリゾームに繋がれることで開花するのかもしれない(つまり、アートのリソースの干からびに水を注すわけである)


・意識世界に模造されるものは、模造なのだけれど、その人にしか不可能な模造、というものが各々に可能になるわけなのであろう



■役に立たない機能性(神秘体験とデザイン)


・つまり、ここで唐突に、機能性とは何か


・ウィリアム・モリス、構成主義、バウハウスなどから引き取られているらしい、つまり、設計(デザイン)を伴うアートは、機能性、という一点において、アートのなかに独特の位置を持つというのだろう


・資産家の部屋に収められた、その絵画は、トポスなのだろうけれど、機能性がある、ということは、最悪、端的にポスターにはなれる、ということを意味するとしてしまえば、簡単だ


・ただし、アートとしてのデザイン、とは、もはや、デザインという分野に応用できない、という時代的な限界性を有した結果に、その超出性がその自体性を確保する


・つまり、(直接には)役に立たない機能性、もっとえいば、「機能性」のない〈機能性〉、というものが、ぼくが求めているものだろう


・モホリナギは、バウハウス的なものは、建築へ向かうと書いたらしい


・たしかに、設計すら建築に向かいかねないし、現に、そういう習作(『設計能無意識――橋/(感性遠近法パーツa+画内額縁B)✕(感性遠近法パーツb+画内額縁A)』)を創ったが、「その建築をだれが使うのか、だれが住むのか」という、人間、というトポスに回帰する、のである、と思いきや、である(人間を対象にした絵画に戻るのかと思いきや/おそらくマレーヴィチはこの時点で、クラインの壺を通過できなかったのだ)


・ここで、何かしらの位相幾何学的な切り上げが行われていることに気がついた


・その建築には、たしかに、だれか、が住むわけであるが、もはや、それは人間ではなく被昇天された聖母マリアやイエス・キリストや神々ということにぼくの場合、なるのである(まさにダンテの神曲にあるクラインの壺的な位相の切り上げなのである)


・ある意味ふたたび告白すれば、わたしは、1950年に被昇天された聖母マリアさまの住まわれる住宅やあたらしいエルサレムを描きたいわけである(なぜなら即神的事実だからである/この確信は、神秘体験や信仰による)


・だが、そのようは最速の真空放電に、人間はまだついてこれない(まだ人間はナニカが通道していないのである)


・こうなると、わたしは、一旦、聖母マリアさまの天の住宅建築に向かうまえに、その前の道で、カフカ的にたじろぐ人間のために、何かをできるわけでもある。つまり、意識世界の人間、ではなく、無意識世界に住む人間を、デッサンしてもいいわけなのである


・無意識の世界、根源語に溶け込んだ人間たちのフォルムを描くことは可能なのであろう


・この、意識世界の人間(骨格や輪郭があり肌がある)と、無意識世界の人間(たとえば、まぶたを閉じた夢の世界の感覚輪郭像)の、接合、の部分が、ダンテの神曲における、煉獄から天国へのクラインの壺の部分(位相幾何学的な、位相間のあたらしいムスビ、通道)なのだろう


・どうやら、このように、信仰(というより神秘家的なものやヴィジョン能)と、設計(デザイン)が、違う位相で、けれど、結びついてしまっているのが、わたし(ぼく)のアートなのかもしれない



■信仰✕デザイン=アート(自分の場合、アートの仕組み)


・信仰✕デザイン=アート


・これは、突飛な発想で、適当に書いているわけではない。強烈な真正と深淵から得たぼくのアートのカタチなのである


・まず、もはや、直線的な意味でのアートは全くナンセンスだろう、と考えたわけである。アートをするためにアートをする、では、アートにならない(先人のパクリか時流にしかならない)


・幾何学的なものが好きだった。他方、神秘的なもの(非線形)が好きだった。その組み合わせは、位相幾何学(トポロジー)だろう


・位相幾何学とは、メビウスの輪、とか、クラインの壺という永遠性の構造、を有している図形を取り扱う


・この位相幾何学(メビウスの輪)の構造を有したアート以外には、もはや、現代では意味をなさないだろう、という判断があった(線形と非線形のカサネアワセのようなものでしか、意味を叙述できない、と)


・メビウスの輪は、表から表に帯を繋ぐ輪っかを解体して、一度ねじり、表と裏をつくり、表と裏をそのままムスブ(くっつける)


・ぼくの場合は、帯の表に「信仰(非線形)」を、裏に「設計=デザイン(線形)」を意味配置し、それをそのままくっつけることに苦悩し苦痛を経た


・どういうことかというと、表に配置された「信仰」は、そのまま表らしく、公式に、カトリックで洗礼を受ける、という現象を実行することになる


・裏に配置された「設計=デザイン」は、まさに、裏化されなければならなず、つまり、現実には全く無意味、という異端にならなければならなかった(応用性も機能性もないデザインを実行すること=デザインの裏化)


・さて、この表(立派な信仰)と裏(無意味なデザイン)をそのままくっつけると、どうなるのか


・メビウスの輪の構造が、信仰〜デザインに誕生する。全く有能な信仰と全く無能なデザインが、位相幾何学的に結ばれてメビウスの輪になり、その永遠の輪を、アート、としたわけである


・ここが奇跡的に巧い


・単なる表表の合成ではない実現性は以下である


・信仰の極みにおいて、ケノーシス(自己無力化)というものがある(イエス・キリストが神的力や奇跡的を行う力を有しながらも、わざわざ、磔にされることを選ぶ自己無力化)。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よなぜわたしを見放し給うた)」と神自身が叫ぶ自己無力化の境地である


・このケノーシスは、ある種、信仰の0化であり、通常意味的には無信仰のように思われるが、キリスト教神秘主義などでは、信仰の極地としても扱われる(マイスター・エックハルトに詳しい)


・なぜなら、ケノーシスに至り、人間が己を全く虚しくすることで、はじめて、そこに、神の力が充填される余地が生まれ、神の意志(ヌーメン)や恩寵、力が充填されるという教えだからだ(シモーヌ・ヴェイユに詳しい)


・このとき、メビウスの輪の表たる信仰は、表であるのに、極限に裏に接近する。もっとも表性の低い表を実現し、裏に接続されることを成功する。そして、そこに、ヌーメンが流れ込む


・裏に配置されたデザイン(設計)は、裏(異端)のままなのだが、流れ込むヌーメンによって、能力を最大化する(恩寵という神学的な考え方である)。つまり、デザイン(設計)のもっとも機能性の高い、しかし裏機能性、もっとも応用性の高い、しかし裏応用性を生成する


・デザインの裏機能と裏価値とは、言うまでもなく、アートである(機能性のないデザインは、アートと呼ぶ他にあるまい。応用性のないデザインはアートと呼ぶ他にあるまい/バウハウスの画家たちによって証明済みである)


・これが、ぼくのアートの仕組みである


・神学では、人間の力など、無、であり、神の恩寵のみが、実際に意味のある力を生む、というふうに考えたりする


・この恩寵の力による、創造こそ、もっとも優れたるものである


・無論、裏返したデザイン、を行使せずとも、たんに恩寵の力でアートをすればよいとしたときに、継続性が、疑われるのである(ミケランジェロのピエタなどは本人も自覚して告白していたとおり明らかに恩寵由来の創造だった)


・アート自体に、メビウスの輪、の構造を仕組んでおかなければ、どこかで挫折するか、継続できない、とかいうことに、なる


・そこで、デザインを噛ませたわけである(アクリル絵の具やキャンバスを放棄して、紙とコピックマーカー、色鉛筆などのデザイナーの道具を選択したわけである)


・輪の帯の表の信仰がケノーシス(自己無力化)することで、捻れ、表は極限に裏に近づき、はじめて帯の裏に配置したデザインと結ばれることができる


・そして、ケノーシスに至った信仰に、ヌーメン、恩寵が流れ込み、メビウスの輪全体を常に復活させる。このメビウスの輪がぼくのアートであり、仕組みである


・裏という無機能、無応用性、異端としてのデザインは、否定神学的にアートを描く他になく、そのアートには、表の信仰(ケノーシス)からの恩寵という最大の力が流れ込む


・これが、無限の構造であり、恩寵による芸術なのである




■意識を捨てて

・カジミール・マレーヴィチの無対象性や、抽象絵画のある種の対称の喪失性というのは、意識上での発見が終了した、という合図に過ぎない


・無意識に向かへ。こういえば、チープな響きなのだが、全身全霊で、自らを無意識へ企投する、ということだ


・ぼくの場合、幻視やいわゆる幽体離脱、シンクロニシティまで朝飯前のシャーマンになってしまった(非薬物)。この神秘的な体質は小5の頃に幻視が始まったときから拡大し、幽体離脱で異世界を巡り、ついには、神のみ前にたつ(楽園やモーセの燃える柴)、というところまで無意識世界の道筋をつけてきた


・かといって、神秘画家とか、イコン画家というわけではない(本分は芸術家にとどめたい)。かなり、しばらく、は、心理学とバウハウス的な設計を取り入れたアート界での活動を続けるつもりだ


・だが、一体、それらが、芸術の方向性と何の関係があるのか、といえば、大有りなのだ


・意識の世界では、言語も表象性ももはや限界だ。だが、無意識の世界には、無意識の世界なりの言語や理法や表象性が、満ちているのである


・これは、神秘学〜オカルト、というより、心理学や哲学を門にして読み解きたい


・心理学者のラカンは、無意識には、無、ではなく、それ独自の言語が稼働している、というようなことを述べ、哲学兼心理学者のドゥルーズ=ガタリは、それらのことを、機械状無意識、とか、抽象機械、というアイデアで、そこには、まさに機械や言語のような、無ではない、ナニゴトカ、ナニモノカ、が犇めいていることを示唆している


・実体験的には大当たりである


・中沢新一さんは、これらをレンマ的な知性と呼ぶ。とくに、理事無礙法界には、機械状のもの、言語的なもの、現代の芸術でも表象可能で、意味抽出可能なものが満ち溢れている


・わたしの場合、たとえば、感性的遠近法とか、画内額縁(による額縁外描写法)とかは、完全に、このあたりの無意識から掴み上げてきた、芸術方法、意味設計なのである


・無意識のなかでは、設計の力が働いている、というより、無意識それそなもの(こと理事無礙法界)がすでに、即設計を絶えず稼働させている。それを意識表面に捉えてしまうだけなのである


・これは、実は、表現主義的な方法というよりは、まさにバウハウス的なもの(つまり、設計)、と抜群に相性がいい(「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の世界観なのである)


・無意識は機械的なのである。つまり、設計的なのである。無意識のなかの機械を、リバースエンジニアリングして意識世界に吐き出す、という行為をぼくは、やっていることになる


・ぼくが無意識から発見した感性的遠近法なんてものは、物理的距離の概念ではなく、目へのストレスのクオリアを基準に遠近を表現する、といったようなもので、まさに、こういうことなのだ、と確信を深めている(意識上の操作からは、この無意識の設計たちをリバースエンジニアリングできないのだ)


・とにかく無為に紙の上に描画し(自動書記のように)、出来上がったその絵をこそ観察するのである。ある種、現象学的還元のように、一体、何が、起こったのか、を描き終えた時点で、はじめて企画するのである


・そうやって、発見をする。それを自然的なコンセプトとして記述していく(これが、無意識からアイデアを引きずり出すだす、もっとも簡単な方法だ)


・さて、こうやって、手前の発見(絵画の新設計方法)を肥やしながらも、果てのビジョンはあるのか


・実はこれは、神秘体験の極地で確認済み、道筋をつけている


・わたしはクリスチャンなので、以下なのだが。



・なんと、楽園(天から降るあたらしいエルサレム)の設計図(即建築)を作品にして描く、ということが、わたしの道筋なのだ(さて、この飛躍にあなたは耐えられるだろうか? これは意識の企画ではなく、わたしは、神秘体験で、そのことを見てしまった以上、無意識の奥側にある、神のようなもの、からの依頼なのである)


・無意識は機械状の世界を超えた果てに、やがて意識世界に降るところのあたらしい楽園を、その最奥部に建築中なのである(細かいはなしだが、まだ、建築中であったことを覚えている)


・このあたり、実は、わたしは、ウィリアム・ブレイク(とかビンゲンのヒルデガルト、ダンテ、ヤコブ・ベーメ、アビラのテレサ)などのほぼ直接の系譜なのである(この飛躍の胡散臭さに、ああ、堪えられよ、汝)


・まあ、どれほどの神秘体験で、どれほどのものを見てしまったのかは、あまり言わない(その水域のことは、現代アート外だから)


・ただ、これから何十年かは、アート界に携わりながらも、晩年は、イコン画家、になりたい、という方法も考えていたりする


・実は、バウハウスからの道は、聖なるものへの、神聖なるものへの道に、無意識を媒介することで、通じているのである


・芸術家は、ネタに尽きて、果てようとも、神秘家にとってネタは無尽蔵だといえる。とはいえ、何十年かは芸術家でやっていくので、ガタリ=ドゥルーズ、ラカン、中沢新一さん、などの、こころ、とか、無意識、についてを深めながら、その世界に宿る原設計、機械状無意識を、バウハウス的な方法で、リバースエンジニアリングすることにしばらくは勤しみたい(そして、それは、実は、あたらしい楽園の設計図〈即建築〉になってる)