4.友人・知人

上田敏雄は山口県出身で大学入学に伴い東京に上京します。その後、戦時中関東大空襲直前に四十歳半ばで故郷山口に疎開し定住します。東京に在住していた頃は友人に頻繁に会うこともできましたが、山口県に在住してからは主に手紙のやりとりにより交流していたと思われます。

ここでは、著名な友人・知人を紹介します。

北園克衛 (本名:橋本健吉)

1927年に共に『薔薇・魔術・学説』を創刊し、翌年シュルレアリスト宣言を連名で発表しました。晩年まで交流は続き、北園克衛直筆の書簡も上田家に残存しています。上田敏雄は、1952年発刊の『現代詩の歩み』で、「北園との交友は彼の太子時代にさかのぼるが、筆者の離京をおしんでくれた彼の友情には生涯の報恩を誓うものだ。」と記しています。また、1978年に北園克衛が拠去した際には、上田敏雄は「目下のところ『沈黙』により『衝撃』を表現するほかない状態です」と述べました。青年時代から晩年まで上田敏雄にとって北園克衛は親しい友でした。

西脇順三郎

1926年頃から慶応義塾の子弟達からなる文学サロンで交流しました。西脇順三郎は上田敏雄が英文科を卒業する年度に、英文科教授に就任しました。晩年まで交流は続き、上田敏雄が1957年に上京した際に、”最初は西脇先生と呼んでいたのがそのうち呼びすてになり、西脇順三郎もめずらしく前言とり消しをやったりしていた。”(鍵谷幸信、1980、「沸騰詩人 上田敏雄」)ということで、親しく交流していた様子がうかがえます。

滝口修造

滝口修造はブルトンのシュルレアリスムを自らの作品に取り入れました。1929年、上田敏雄が自分のシュルレアリスムはブルトン派とは異なることを『仮説の運動』で明確にした際、滝口修造は賛辞を送りました。上田敏雄は本当のシュルレアリストは滝口だけだと言っていました。鍵谷幸信氏も、晩年上田敏雄が、「本当のシュルレアリスムについては滝口がいないとでけんよ。」と発言したと記しています。(鍵谷幸信、1980、「沸騰詩人 上田敏雄」)

中原中也

1931年、東京外国語学校で仏語を学んだ際に、同じ山口県出身の中原中也と出会い交流が始まりました。中原中也が上田敏雄の自宅に遊びにきていたことを上田敏雄の家族も覚えています。中原中也は「山羊の歌」を番号付きで上田敏雄に送ってくださっていました。

中野嘉一

1968年、中野嘉一が『仮説の運動』と『薔薇物語』に関して尋ねた書信に対し、上田敏雄が返信したことから交流が始まりました。中野嘉一が編集する『暦象』に上田敏雄は詩・エッセイを寄稿し、中野嘉一との交流は上田敏雄が亡くなる直前まで続きました。1980年、上田敏雄が上京した際、中野嘉一が「上田敏雄を囲む会」を主催してくださいました。