3.家族

旧家の六人兄弟の四男

上田敏雄は山口県吉敷郡大道村(現・防府市大道)にて生まれました。父寧二、母美智の五男一女六人兄弟の四男です。

上田家は山口県内屈指の旧家であり、江戸時代は酒造業を営み代々庄屋を勤め、農地解放以前は県内有数の大地主でした。

母美智が上田家子女で、父寧二は山口氏矢原吉冨簡一の次男です。

弟の保は慶應義塾大学で英文学を専攻し、後に慶應義塾大学英文科教授になりました。

二女の父として一家の大黒柱

広島県出身の井上きぬえと結婚しました。お見合いの相手ではなく、敏雄がきぬえを見初めたと家族内では伝えられています。きぬえとの間に二女を授かり育てました。

長女あきみと次女みよは夏休みに山口の敏雄ときぬえのもとに家族と共に帰省し、敏雄は孫達をかわいがりました。

上田家はみよの長男が継ぎ、現在みよは後見人として旧家や上田敏雄が遺した資料等の管理をしています。

子女の発言から垣間見られる素顔

「自分は文学者だけれども、大文学者がえてして文学に没頭して家族を路頭にまよわすこともあるが、自分は両方やっている。」と自慢していた。(次女より)

大学の講師をしていた頃、学校から帰ると、暗くなるまで果樹園の手入れに熱中していた。自分には農民の血が流れているらしく作業中は頭が空っぽになったりまたよい発想が浮かぶこともあると言っていた。(次女より)

詩作や著述は、夜中の1時ごろまで、それは厳しい表情で机に向かっていた。(次女より)

晩年になっていつも鉄アレーで腕をきたえ、またマラソンをしていた。中学時代自分は坊ちゃん育ちで周囲の友人と比べて運動能力や肉体面でコンプレックスを持っていたと思う。(次女より)

病歴については、晩年は糖尿病ぎみで食事には気を配っていた。また75歳頃に喉頭癌になり治療した。(長女、次女より)

作品では、カトリシズム、親鸞の思想、労働者よりの社会主義思想などをとりいれたが、上田敏雄は特定の宗教の信者ではなかった。(長女、次女より)

防府市大道の自宅庭で 昭和49年(1974年)8月 撮影:末永 一郎(長女あきみの夫)