2_阿波国風土記とは

「阿波国風土記」については逸文が残るのみで、一説には、明治初期まで阿波藩に存在したとの説もありますが、実際の所行方が判っていません。

これまでに確認されている逸文は主に五節。萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されています。

① 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)

阿波國風土記ニモ

或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、

或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、

或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

② 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)

中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。

阿波國風土記ニ見エタリ。

③ 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)

阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。

奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。

④ アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)

阿波國ノ風土記ノゴトクハ、

ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、

ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

⑤ 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)

阿波の國の風土記に云はく、

勝間井の冷水。此より出づ。

勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。

粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。

また、『拾遺采葉抄』第三,二五四番歌條に

大門ナタセト,阿波國風土記曰,波高云云.明石浦セトナシ.ナタナルヘキヲヤ

と、あるそうですがこちらの方は出典が確認できてません。

上の(Wikipedia)解説文にあるように、風土記とは、天皇に献上させた「官撰の地誌」なのです。

天皇の勅命で、それぞれの地方の特徴や歴史を書け、と言われたのです。

この萬葉集註釋にある阿波国風土記逸文を見ていきましょう。

①は、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。

通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?

役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。

⑤は、倭健(やまとたける)命の伝説です。この「勝間井」は現存します。

倭健命は各地をまたに掛けて活躍していますが、阿波に寄ったという歴史は、通説ではないということになっています。

もちろん事実はその正反対で、命の生まれ育ったのが阿波なのですが、解説は省略します。

阿波国風土記では、倭健天皇命(やまとたけるのすめらみこと)と記され、常陸国風土記とともに「天皇」と称されています。

しかも「天皇」は本来「すめらみこと」と呼ばれ、「天皇」よりも「天皇命」のほうが書き方として正確と指摘する学者さえいます。

④は、阿波の郷土史家が、阿波が日本の本つ国であるという根拠として多用する一節です。

各国風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ、という主張の根拠のひとつとなっています。

しかもその内容は、

「天」より「降り下りたる大きなる山」が阿波の「元山」で、

「ソノ山ノクダケテ」、「大和國に降り着きたる」、のが「天の香具山」

だというのです。

これをもって「大和国」は「阿波の分国」と解釈します。

但し、研究者によっては異論もあります。大和国成立の時代は、風土記が記された時代よりも後なので、本来の原文には「大和国」ではなく「倭国」と記されていたはずだというのです。

これはもっともな指摘で、平成の現在でも混同されていますが、その混同は千年も前からのことと考えられ、写本の際に書き換えられた可能性は非常に高いと言えるでしょう。

「大和国」は、仙覚律師の解釈で書き変えられた可能性があります。

「倭国」が阿波であるということが分からず、「香具山」は「奈良の山」という固定観念があれば、頭を捻るしかないからです。

そもそも、仙覚は万葉集でも歌われる有名な「香具山」を調べようとして「大和國風土記」を見るのですが、そこに香具山は登場せず、他の風土記を当たって「阿波國ノ風土記」に行きつくのです。

詳細は省略しますが、「倭」も「カグ山」も阿波のことなのです。

この一節に関係する逸文は、伊予國風土記にも見えます。

天山 (釋日本紀 卷七)

伊予の國の風土記に曰はく、

伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。

天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。

この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、

まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。

「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになります。

伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要があります。

また、『神代紀口訣』に、

風土記にいわく、天の上に山あり、分れて地に堕ちき。 一片は伊予の国の天山と為り、一片は大和の国の香山と為りき。

という記述があります。

ただし、この「風土記」を「大和国風土記」と解釈する説、上記の「伊予國風土記」逸文のこと、と解釈する説の両方があります。

また、『日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』のなかに、

阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、

母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、

大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う

という逸文があると紹介されています。

再度記しておきます。「天皇の勅命で、それぞれの地方の特徴や歴史を書け、と言われたのです」

上記の文章を天皇に献上したのです。

「古風土記」解説本を調べた限りでは、注釈がないか、「伝承」「説話」で済まされています。

ここまで読んでどう考えますか?

3_阿波国風土記編輯御用掛 ホーム