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社二座(名神大)をも諸書弁(?)社説に猿田彦神天鈿女命なりといふ(近迩荘小野村に在り)仁明天皇紀承和元年二月辛丑小野氏神社在近江國滋賀郡敕聴彼氏五位以上毎至春秋之祭不待官符永以徃還同四年二月癸卯敕聴大春日布瑠粟田三氏五位巳上准小野氏春秋二祠時不待官符向在近江國滋賀郡氏神社とあり姓氏録左京皇別下小野朝臣大春日朝神臣同祖彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也大徳小野臣妹子家于近江國滋賀郡小野村因以為氏日本紀◯とあり小野氏神社なれば天足彦國押入命なる事明けし(尚此外にも天足彦國押入命を猿田彦神を祭ると云ふ社甚だ多し然れど此小野氏の事は特に明なれば引出したるなり又布瑠宿禰も同氏なれど布留神社は若◯主御◯にて氏神に非ざる故に引べきに非ず)此に準へ思ふに大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし古事記に御眞津日子訶惠志泥命此天皇娶尾張連之祖奥津余曽之妹余曽多本毘賣命生御子天押帯日子

命者春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣云云之祖成とあり板野郡は奥津之郡な

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るべし(おきはいと約りつはたに通ふ)大は美称阿佐は余曽にて御母の本居に依て大麻日子と申せしなるべし其は姓氏録左京皇別下大春日朝臣出自考昭天皇々子天帯彦國押人命也

仲臣令家重千金委糟為堵于時大鷦鷯天皇

(謚仁徳)臨◯其家詔(?)号糟垣臣後改為春日臣桓武天皇延暦二十年賜大春日朝臣姓とある

仲臣の令は米餅㫪大使主の子八榎木事命なり神八井耳命忌人と成て神祇を奉典せしより七世孫仲臣の子上成務天皇の御世に尾張國嶋田悪神を平服せし事姓氏録右京皇別下嶋田臣の條に見えたり此の子孫は嶋田臣とのみ称して中臣を称ざりしと見えて他に所見なし応神天皇仁徳天皇などの御世佐久命其子木事命も中臣職を司どりしにて(仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定㫪米部此より以前は中臣佐久命にて㫪米部起てより米餅㫪部の家なれば委糟為垣の説実に然るべし當昔の千金は今の二萬両に當るなれど穀を買時は二百萬石を買べし木事命の第市川臣は始て布留社を建て神主となる是布留宿禰の祖なり)

其後雄略天皇の御世春日和珥臣深目の娘

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童女君宵に七喚して春日大娘皇女(更名高橋皇女)を産む皇女は仁賢天皇の皇后となりて一男六女を産む(一男は武烈天皇となり六女は今略す)マタ和珥臣日瓜(ひふり)の女糠(あら)君春日山田皇女を産む(日本紀巻四観松彦殖稲天皇紀六十八年條天足彦國押人命此和珥臣等始祖也とあり姓氏録左京和尓部宿禰右京和迩部に氏みな同じ)此御世頃に天足彦命の裔の中臣部の中より春日部を立て火國阿波國の中臣部等みな春日部を出せしと見ゆ継体天皇七年九月勾の大兄皇子親を春日皇女を聘ふ八年春日皇女に迊布屯倉を賜ふ勾大兄皇子は即ち安閑天皇なり元年秋七月辛巳朔詔曰皇后雖同天子而内外之名殊隔亦可以充屯倉之地式樹椒庭後代遺迹廼差勅使簡択良田マタ二年五月甲寅二十六所の屯倉を置たまへる中に火國春日部屯倉阿波國春日部屯倉あり九月丙午詔桜井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税とあり此二所の屯倉は本より春日皇后属たる春日部の住地にて初より其地名と成たるなれば本より春日臣氏の産土