当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。
禅師のあとは義天・雲谷・桃隠から雪江・景川・悟渓・特芳・東陽などの高僧に引きつがれ、明治に至るまで四派輪住の寺であった。
当寺は永禄八年(一五六五)の兵火で焼失したが、織田信長より朱印状を得 て再建、次いで、秀吉が寺領五十石を寄せ、その後、尾張徳川家も当寺を被護した。
塔頭は判明するだけでも二十四ヵ院を擁した。 現在は龍済・龍泉・臥龍・ 輝東・臨渓・妙喜の六ヵ寺がある。
鐘楼は古く室町時代明応三年(一四九四) 建立と伝えられ、三猿は左甚五郎 の作と伝えられる。山門は犬山城内田御門を移したものである。
正中3年(1326年)- 応永17年6月4日
尾張の生まれである。9歳の時、父と共に東山建仁寺塔頭、天潤庵の可翁宗然に仕える。
剃髪し、十五歳にして沙弥と成り、十七歳にして得度する。
その後出家得度し建仁寺において出世していったが、35歳を過ぎて妙心寺の授翁宗弼の許に通うようになる。
やがて建仁寺から出て応安4年(1371年)に授翁宗弼から印可を得た後、妙心寺3世住持となる。
その後、妙心寺住持を退き天授6年(1380年)に寝屋川観音寺の住持となり、応永元年(1394年)に西宮海清寺の開山となる。
応永11年(1404年)には波多野重通の開基により、妙心寺退蔵院の開山となった。
応永17年(1410年)6月4日、海清寺で示寂。元禄11年(1698年)に東山天皇から興文円慧禅師と諡された。
法嗣に後に妙心寺四祖となる日峰宗舜や舂夫宗宿がいる。
日峰禅師は、正平二十四年(一三六九)京都嵯峨の生まれで、幼年期は、菊夜叉と呼ばれた。
父は、嵯峨の本源庵に九歳の菊夜叉を預けた。
菊夜叉は、夢窓国師の高弟であった本源庵住持・岳雲和尚のもとで、昌昕という諱を授けられて修行に励んだ。
本源庵は夢窓国師開創の天龍寺塔頭であり、生家と本源庵は隣り合うほどであった。
昌昕も岳雲和尚も雲居寺へ移り永徳三年(一三八三)十五歳のときに沙弥となる。
そして、嘉慶二年(一三八八)十九の時に得度して僧となった。
昌昕は暫くして修行の旅に出た。
はじめ伊勢の日長(四日市市日長)の光讃寺に至り、その後遠江の奥山方広寺の無文元選に参じた。
そこで自らの修行の低さに愕然とし、無文和尚のいう「無字」を参得するに至った。
無文和尚は後醍醐天皇の皇子といわれる人で、明徳元年(一三九〇)に示寂した。
昌昕が方広寺を去ったのは、示寂後の事であろう。昌昕は無文和尚の影響を大いに受けていたといわれる。
その後美濃の東端、遠山荘の大円寺の南山和尚に至り、和尚から摂津海清寺の無因宗因禅師に参じるよう諭される。
一度は決意しかねたが、大悟するまでは門を出ないことを約束して旅立った。
そして昌昕は、摂津海清寺の無因宗因禅師に参じた。その後日夜勉励した。
無因が応永四年頃に河内の観音寺へ住山するや、昌昕も参侍し、片野(河内国交野)の大悟庵が無住となっていたので、和尚は昌昕をその住持とした。
両寺は十キロほど隔たるのみで、昌昕は日々往来して参究に倦むことがなかった。
まもなく無因和尚は京都円福寺住持に招かれたので、昌昕も随って円福寺に至り、ある夜、仏殿前の柏樹の上で、蒼竜が明珠を弄するのを見て、明珠を奪って昌昕の懐中に入れるという夢を見て、自身の大悟を感じた。
その翌日、すなわち応永十三年の孟冬上浣に和尚から印可状を得たという。時に昌昕三十九歳であった。
応永十七年(一四一〇)の無因宗因示寂後、日峰禅師は関山慧玄の旧跡をたどって美濃に至り、春木郷の無著庵に至った。
その後、継鹿尾観音に至り、大蔵経を看ること数年に及んだという。
東陽英朝が著した伝記の一節には、以下のように記されている。
継鹿尾観音にいる間に、犬山の内田に住む蜂屋玄瑞という沙弥が日峰禅師に帰依して自分の所有する山に日峰を招いて寺を建立したいと申し出たのであった。
玄瑞とともに山を訪れた日峰は、岩間から湧き出す甘泉を見つけ、そこに草をさして寺地と定め、寺号を瑞泉、山号を青龍と称することにした。
瑞泉寺創建に関わる今一つの記録として、貞享三年(一六八六)の「青龍山瑞泉寺記」がある。
内田左衛門次郎(仏済無心居士)が継鹿尾観音に参詣し、日峰に出会った。
そこで一精舎を建立したいので、ぜひ住職にお願いしたいと申し出た。
日峰と左衛門次郎が山へ行ってみると水が無かったので、蜂屋玄瑞に命じて探索させると、清泉が湧き出し池となっているところが見つかった。
この池は宿龍池と呼び、龍が出て青い光を放ちつつ天に昇ったのを見た人があると言い、日峰は山号を青龍、寺号を瑞泉と名づけることにしたという。
以上が、「青龍山瑞泉寺記」の記録である。
伽藍の完成には十数年の歳月を費やし、完成は応永二十二年(一四一五)のことであったという。
本堂には朝態山の虚空蔵菩薩を勧請して本尊とした。
永享の初め、応永以来幕府から取りつぶしになっていた妙心寺再興の機運が、関山派中に活発となり、衆議の結果、瑞泉寺の日峰宗舜を措いて他になしとの結論に達したという。
日峰禅師はこれを辞退したが、ついに承諾して、再興の重責を一身に受けて上洛した。
禅師は後事を義天・雲谷・桃隠に託して永享五年(一四三三) 本山へ上った。
「正法山妙心禅寺記」によると、禅師はまず函丈(方丈)を造り、次に微笑の塔を修復し退蔵院を稍営した。
また、山堂の傍に小院を創建して養源院と名付けた。
取りつぶされた妙心寺は、まだ公称することが出来なかったので、ひとまず養源院と称したのである。
日峰禅師は大徳寺住山と重ねて打診されていたが、その度に辞退して、妙心寺再興に全力を投入したのであった。
文安二年、日峰禅師は体が相当弱っていることを弟子に伝え、間もなく雪江の号を宗深に付与した。
その後文安四年、大徳寺に入寺し、間もなく退山する。
翌文安五年(一四四七)正月二十六日示寂し養源院に葬られた。
妙心寺一派中で議して「中興開山」と崇めることに決め、位牌を祖堂にあげた。
瑞泉寺における日峰の墓は、本源塔といった。
日峰が初めて仏門に入った寺が本源庵であったから命名されたものである。
以降輪番によって順次住持が住山したが、入寺開堂に際しては、無因の塔と本源塔とを両開山塔と称して必ず参拜した。
禅師のあとは義天・雲谷・桃隠から雪江・景川・悟渓・特芳・東陽などの高 僧に引きつがれ、明治に至るまで四派輪住の寺であった。
その後、土御門天皇より、 禅源大済禅師の諡を賜る。
昭和天皇より、霊鑵慈光という国師号が贈られる。
文政二年八月一日~明治三十一年(一八一八~一八九八)
道号は無学、法諱は文奕。室号は樹王軒。俗姓は関。
生まれは美濃の国、武儀郡神洞村(現在の岐阜県美濃市神洞)山田久兵衛の男子(次男)として生まれる。
六歳の時、家が破産したために、父母は文奕を美濃市の清泰寺梅山和尚のもとへ預けた。
八歳で剃髪した。天保八年(一八三七)、十六歳で大阪に至り、また、二十三歳の時、江戸に赴いて要津寺に寓居し、佐藤一斎・川田屏浦の門下に入り、経史詩文を学んだ。
さらに各地を遍歴し、九州に至り、久留米の梅林寺蘇山和尚に師事することおよそ九年に及んだ。
慶応三年(一八六七)二月に蘇山が示寂すると、四十七歳で梅林寺の住職となった。
時代は明治維新となり、仏教界は危機が来た。
明治元年の神仏分離令でいわゆる廃仏稀釈の嵐である。
臨済宗妙心寺派も揺れた。梅林寺も廃毀されようとしていたが、梅林寺の保護と金三千両の寄付を得ることに成功したという。
ついで明治七年には五十五歳の時、妙心寺住持に出世した。
その後、明治九年十二月に妙心寺を退いて済松寺へ移ったが、この時に臨済宗九派管長等にあった職も辞した。
同十一年七月に臨済宗九派と黄檗宗がそれぞれ別に管長を置くことになり、再び七月に和尚は初代 妙心寺派管長に任ぜられた。
ついで明治十二年和尚は大教正に補されたので、梅林寺住持職(兼務) は門下の獣禅に譲って管長と大教正に専念することになった。
明治十五年六月妙心寺派管長を辞したが、明治十八年四月再び管長職に押され、明治二十年八月、瑞泉寺独住三世に転じた。
無学は、日峰が瑞泉寺から妙心寺へ再興に出向いた故事からして、今度は疲弊した瑞泉寺を妙心寺派管長が再興しなければならないといい、弟子の蒙堂(後の三四九世(独住五世)関蒙堂老師)に命じて、瑞泉寺伽藍の大改修にとりかからせたのであった。
しかし、その後の明治二十四年十月二十八日に当地方を襲った濃尾大震災で、瑞泉寺の建物は大被害をうけたので、復興の工事を起して二十五年十月に完成、落慶式を行った。
この工事は関蒙堂が監督をして、万端手を尽し、影の力となったといわれている。
明治二十九年四月、無学は妙心寺管長に選ばれて上京し、同三十一年十二月三十一日、妙心寺で示寂した。
世寿八十。墓塔「樹王塔」は、本堂西側、禅堂の北側にある。
瑞泉寺の中興開山として奉じることを無学老師は堅く止めていた為、明治三十六年、関蒙堂老師は、その代わりとして身代わり地蔵尊を安置するため、地蔵堂を改築した。