ご相談・ご予約等につきましては、店舗スタッフまで、又は電話でお気軽にお問合せください。
豊観光ラザ旅行センターTEL:0551-45-8681〒400-0107山梨県甲斐市志田字柿木645-1ラザウォーク甲斐双葉1階
【車】中央自動車道---松本IC---国道158号---(約60分)---湯元齋藤旅館
【電車】中央本線---松本駅---(松本電鉄/30分)---新島々駅---湯元齋藤旅館※松本より白骨温泉までタクシーで約60分
悠久の自然に抱かれて二百七十余年。白骨の湯に思いを込めて湯屋から湯宿へと歴史を育んできた、湯元齋藤旅館。宿の風情と信州の情緒が織りなす館内で、ごゆっくりと湯の効能をお試しいただき、旅の和みのひとときとしていただけますよう、おもてなしのご用意を整えております。
鎌倉時代、北陸地方と幕府を結ぶ最短コースとして、この地に鎌倉往還が開かれていました。この頃から白骨には湯が湧いていたといわれることから、その歴史は 400年以上にわたることになります。湯屋ができたのは江戸時代に入ってからで、以来、明治・大正・昭和と山問のひなびた湯治場として栄えていきました。
北陸地方から当時の政治の中 心であった鎌倉を目指す鎌倉往還は、その後も飛騨街道として元禄14年に作られた元禄国絵図に登場するなど、信濃と飛騨を結ぶ道として定着していたことをうかがわせます。白骨には、この鎌倉往還の頃から湯が湧いていたと言われています。やがて戦国の世になると乗鞍岳の麓に、武田信玄によって大樋銀山が開発されました。銀山とは言っても主鉱は鉛でしたが、鉄砲が普及しはじめた当時は貴重な軍需物資でした。その銀山から峠を一つ越えて一里半の道のりの白骨の温泉では、銀山の傷病者の療養が行われていたことでしょう。そして白骨に初めて本格的な湯屋を作り営業を始めたのは、元文3年(1738年)に 松本藩から「白船制札」が下された湯元齋藤旅館の祖先にあたる、大野川村の庄屋であるといわれています。
ここの地名は地元に伝わる古文書によると「白船」「白舟」とあります。それは栃の大木を六尺ほどに伐って丸木舟様に彫った「フネ」と称するものを湯槽に用いていたところ、その内側に温泉の石灰分が白く結晶したことからそれを「シラフネ」と呼んだのが由来だと言われています。明治になり吉田東吾の「大日本地名辞書」が発行されると、そこには「白骨の温泉、白船の湯ともいう。」とあります。おそらくこれが白骨の呼称のはじまりであったのでしょう。その後「白骨」の名を広く一般に知らしめたのが、大正2年9月より新聞紙上に連載の始まった、中里介山の小説「大菩薩峠」でした。以来、地元でも「シラフネ」と呼ぶものが少なくなり、いつしか「白骨」の名が定着し今日に至りました。
見晴しの野天風呂、豪壮な梁組みの大浴場と露天風呂。そして、湯屋の貸切り風呂にあふれる源泉かけ流しの白骨の湯は、今もかわらぬ大地からの恵みの賜物。湯を守り、今に伝える湯元ならではの湯舟の趣きのなかで、春夏秋冬それぞれの湯のぬくもりをご満喫くださいませ。
「鬼が城」の二つの野天風呂は、深夜のご利用入れ替えでご滞在中に両方にご入浴いただけます。
泉質は35~45℃の炭酸水素塩温泉(硫化水素型)で、その成分からたいへん医療、薬用効果の高い温泉です。特に胃腸病、神経諸系統病、貸血症、婦人病などに効果があり、古来より「三日入れば、一年風邪をひかない」といわれるほど、薬用効果のある温泉です。白骨温泉は、湧出時(湯出口)では、無色透明ですが、空気にふれて変化し、乳白の温泉となります。
朝夕の御婦人、殿方のご利用入れ替えでご滞在中に両方にご入浴いただけます。
春、湯舟から萠黄の芽吹きに見入る。
夏、緑の涼風で良泉のほてりをさます。
秋、天高い空の下、紅葉の彩りにつつまれる。
冬、雪景色のなか、湯のぬくもりが一番の季節。
一、まず、「かけ湯」をして、膚下の血管を拡げて血圧の急上昇を防ぎます。
二、入浴時間の目安は39℃前後のぬるめの湯は約15分、42℃くらいまでの熱めの湯は5分程度です。湯上りには、シャワーや水で体を洗い流さないほうが良いでしょう。温泉成分を流すと、効果が半減してしまいます。
三、入浴後は、少なくとも30分~1時間は楽な姿勢で体を休めてください。
四、次の入浴までの間に適度な運動をしてください。
五、以上の入浴を一日三回を限度にしてください。
六、白骨温泉は、飲用すると胃腸病に大変効果がありますが、薬用ですので、最初は試しに一口だけ飲用して1~2時間様子をみてください。その後の飲用は、湯出口の湯、コップ半分程度が一回の量です。なお、飲酒後の入浴はご遠慮ください。
※当館の大浴場、露天・野天風呂、貸切風呂はすべて、自家源泉からの「源泉直引き、掛け流しの湯」です。なお、ご入浴の最適温にするために加温しております。
【昭和館/四階建】一階/玄関、帳場、お休み処、みやげ屋「蔓篭(つるかご)」、二階/御食事処「あづみ野」(四つのしつらえから成ります。)、「りんどう」(椅子席十四席)、「あけび」(椅子席十四席)、「山ゆり」(個室九室)、「野ぎく」(御座敷六室)、三階/大広間「大菩薩峠」(一〇五畳/三分割可)、四階/客室(バリアフリー洋室ツイン一室/和風ベッドツイン四室)【明治館/二階建】一階/ラウンジ「胡桃(くるみ)」【大正館/三階建】一階/貸切パーティルーム「楽隠郷(らくいんきょう)」(一)(二)、二階/貸切風呂「仙人の湯」(バリアフリー)、三階/客室(和室二室)【牧水荘/三階建】一階~三階/客室(和室十八室)【介山荘/四階建】一階~四階/客室(和室二十八室/内山の天然水を沸した循現形式の露天風呂付き和室十室)【湯元館/温泉浴場専用棟】御婦人湯、殿方湯、各露天風呂付き【野天風呂「鬼が城」/温泉浴場専用棟】御婦人湯、殿方湯●全五十三室●二六八名様収容●駐車場五十台
春の山菜、夏の盛菜、秋の豊菜、冬の根菜。四季折々の信州の旬材の旨みと山海の幸でおもてなしする、御食事処「あづみ野」と御懇親の宴。昭和館二階の「あづみ野」は、お楽な椅子席と掘りごたつ席を備えております。また、明治館二階に続く御食事処の御座敷は、往時のしつらえを再現しております。
中里介山氏29歳の大正2年(1913年)9月から都新聞に「大菩薩峠」の連載が始まり、同14年1月「無明の巻」からは東京日日、大阪毎日新聞に連載が続きました。そして小説は「他生の巻」で、白骨を舞台に物語が展開するのでした。その中で綿々と描かれる白骨の場面は、介山氏が大正14年8月2日にわずか一泊で構想を得たものです。そのとき宿泊されたのが湯元齋藤旅館です。
「大菩薩峠」の一節です。「他生の巻における机竜之助の姿は、うちに滞在中の先生のお姿を彷佛とさせるようだ。」と、先代は申しておりました。その後介山先生は亡くなられる2年前の昭和17年10月11日に再び訪れ、1週間ほど滞在されました。没後10年を迎えた昭和29年7月、東京作家クラブの提案で、白骨温泉旅館組合と諮って「大菩薩峠文学碑」が白骨温泉入口に建立されました。中里介山先生自筆による「上求菩薩下化衆生」と刻まれた碑です。
歌人若山牧水が数年来患っている胃腸病の湯治のために、大正10年9月26日に湯元齋藤旅館に来られました。早速一浴された後、彼方の小梨子平の山に目を放ち
と詠まれています。また、白骨には俳人・河東碧悟桐、荻原井泉水、歌聖・斉藤茂吉、歌人・随筆家下村海南、藤沢古美、幸田露伴、与謝野晶子、三好達治など多くの文人・歌人が訪れ、白骨温泉の自然と湯に魅了されたのでした。
季節の彩りを映す、白骨の自然への散策は、湯元から出掛ける、ご入浴の合間のお楽しみ。 また、登山、ハイキングなどの自然探訪のコースも豊富にあります。
薬師堂と湯治湯(温泉)のつながりは深く、古くは信仰と湯治によって病気の治療が行われた時代もありました。ここ白骨温泉でも薬師信仰は江戸時代に建立されたといわれています。今もなお薬師堂を訪れる湯治客が絶えない白骨温泉では、温泉の効能と相まって薬師信仰が生き続けています。
鍾乳洞の上を流れ、四季折々の移ろいが美しく映える滝。
バス停のすぐ下にある湯川の急流の 浸食によってできた天然のトンネルです。
温泉に含まれてる石灰質が噴出口の周囲に沈殿して、丘のように堆積したものです。温泉地ならではの見所で、特別天然記念物に指定されています。
鍾乳洞ですが、一部崩れている箇所があるため洞内の見学はできません。
標高2.500m、往復5時間くらいの道のりです。登山やハイキングが気軽に楽しめます。
乗鞍高原へのハイキングはここを経由します。ここから望む乗鞍岳などの眺めは最高です。
W.ウィンストン氏、明治24年上高地へ。穂高連峰を後に清流、梓川が今も変わらぬ光景を描きます。(沢渡まで車で約30分、沢渡~上高地間専用バスで約40分)
ビギナー、ファミリー、上級者まで。12月~3月上旬、8月まで夏スキーも。(車で約20分~40分)
日本一の高所を走る有料道路。平湯峠(標高1.648m)から畳平(標高2.702m)を結び、途中の山並は絶景です。(マイカー規制有、開通期間5/15~10/31)
ご相談・ご予約等につきましては、店舗スタッフまで、又は電話でお気軽にお問合せください。
豊観光ラザ旅行センターTEL:0551-45-8681〒400-0107山梨県甲斐市志田字柿木645-1ラザウォーク甲斐双葉1階