小林多喜二

こばやし たきじ

小林多喜二(こばやし たきじ)

小林多喜二(こばやし たきじ)は にほんの プロレタリア文学者(ぶんがくしゃ)〈literary〉です。(プロレタリアは 下(した)の 説明(せつめい)を みてください。) 


大正時代(たいしょうじだい)の ひとです。

有名(ゆうめい)な 作品(さくひん)は 『蟹工船(かにこうせん)』です。


多喜二は 秋田県(あきたけん)で うまれました。

4歳(さい)の 頃(ころ)に 小樽(おたる)に すみました。

苦(くる)しい 生活(せいかつ)を してました。


大人(おとな)に なってからは 銀行(ぎんこう)で はたらきました。

多喜二は 水彩画(すいさいが)〈watercolor painting〉、詩(し)〈poem〉、短歌(たんか)を  つくっていました。

文学(ぶんがく)〈literature〉も つくりました。


多喜二は にほんを 悪(わる)く いいました。

天皇(てんのう)〈emperor of Japan〉も 悪(わる)く 言いました。


警察(けいさつ)は 多喜二が 嫌(きら)いでした。

警察は 多喜二を 何度(なんど)も 逮捕(たいほ)〈arrest〉しました。

多喜二は 29歳(さい)の 時(とき)に 死(し)にました。


かいたひと:さかい のぶたか。

プロレタリア文学(ぶんがく)

プロレタリア(ぷろれたりあ)文学(ぶんがく)<proletarian literature>は 1920年(ねん)から 1930年(ねん)に 生(う)まれました。


1920年(ねん)から 1930年(ねん)は 強(つよ)い人(ひと)と 弱(よわ)い人(ひと)が いました。


弱(よわ)い人(ひと)の ことを プロレタリア<proletarian>と いいます。


プロレタリア<proletarian>は 働(はたら)く 人(ひと)です。 プロレタリア<proletarian>は お金(かね)を もらいます。


プロレタリア(ぷろれたりあ)文学(ぶんがく)《proletarian literature》は 弱い人(ひと)の 気持(きも)ちです。


プロレタリア(ぷろれたりあ)文学(ぶんがく)《proletarian literature》は 世界(せかい)《world》に あります。 日本では 「蟹工船」(かにこうせん)が 有名(ゆうめい)です。


「蟹工船」(かにこうせん)は 小説(しょうせつ)《novel》です。 小林多喜二(こばやしたきじ)が 「蟹工船」(かにこうせん)を 書(か)きました。


かいたひと:たむら そうま

文学碑 <monument>

冬が近くなるとぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは人は重っ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている ぼくはどこを歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている段のように山にせり上がっている街を ぼくはどんなに愛しているか分からない


ふゆが ちかくなると ぼくは そのなつかしい くにのことを かんがえて ふかい かんどうに とらえられている。

そこには うんがと そうこと ぜいかんと さんばしが ある。

そこでは ひとは おもっくるしい そらの したを どれも せを まげて あるいている。

ぼくは どこを あるいていようが どのひとをも しっている。

あかい だんそうを ところどころに みせている だんのように やまに せりあがっている まちを ぼくは どんなに あいしているか わからない。



 この文学碑 <monument> は、山(やま)の なかに あります。すこし ふべんな ところです。

 でも、きれいな 山、きれいな 海(うみ)、きれいな 小樽(おたる)の 町(まち)を みることが できます。

住居跡(じゅうきょあと)

小林多喜二(こばやしたきじ)の 住居跡(じゅうきょあと)(住(す)んでいたところ)は、小樽築港駅(おたるちっこうえき)の 近く(ちかく)にあります。

ここで 多喜二の家族(かぞく)は 小さな(ちいさな)パン屋(や)を していました。

この家(いえ)の 近くには 労働者(ろうどうしゃ)〈Worker〉が 住んでいました。

この労働者たちは ひどい生活(せいかつ)をしていました。

このことが 多喜二が 作品(さくひん)を作る(つくる)ときに影響(えいきょう)〈Impact〉しました。

近くに 海(うみ)が見える(みえる)公園(こうえん)(築港臨海公園(ちっこうりんかいこうえん))が あります。

ショッピングモール(ウイングベイ小樽(おたる))が 近くにあります。

 

かいたひと:たきざわ かずと

旧庁立(きゅう ちょうりつ)

小樽商業学校(おたる しょうぎょう がっこう)

 小林多喜二(こばやし たきじ)は、この学校(がっこう)の がくせいでした。

 いまの なまえは、「北海道小樽未来創造高校(ほっかいどう おたる みらいそうぞう こうこう)」です。

旧小樽高等商業学校

(きゅう おたる こうとう しょうぎょう がっこう)

 小林多喜二(こばやし たきじ)は、この学校(がっこう)の がくせいでした。

 いまの なまえは、「小樽商科大学(おたる しょうか だいがく)」です。

旧北海道拓殖銀行(きゅう ほっかいどうたくしょく ぎんこう)

小樽支店(おたる してん)

 ここは むかし、ぎんこうでした。小林多喜二(こばやし たきじ)は、ここで はたらきました。

 いまは、ここは 美術館(びじゅつかん)です。