"その日"のことを、水鳥 冥(ミナトリ メイ)はよく覚えていない。
第一志望だった高校に入学して、暫くしたころ。日常になりつつあった通学路では、若葉の色が濃くなる初夏。
徐々に慣れてきた学校生活、友人らしきものもできて、それなりに充実していた気がする。
楽しかった、のだと思う。今となっては虫に食われたように曖昧で、感情は分厚いガラスの向こう側に置き去りになっている。
あの日から、全てが変わってしまった。
いくつかの記憶と、いくつかの感情を失い、少女はこの世界に"死に永らえ続けている"。
--*--*--*--
――夜。春の生ぬるさをはらんだ風が、ゆっくりと遊歩道を撫でていく。さらさらと流れるように、淡桃の花弁が舞う。街灯の黄ばんだ光は明滅を繰り返し、影が一層冥く、濃くなる。
少女のローファーが石畳を踏んだ。すらりと伸びた脚は白く、制服のスカートが翻る。
きっちりと着込まれたわけではないが、過度に崩してもいない。どこにでもいるような、普通の高校生。
けれど、今が一人で出歩くにはいささか不用心な時間帯であること、少女自身手ぶらであることを加味すれば、多少、違和感は強くなる。
当の本人には意に介した様子は見えず、淡々と歩を進めていく。その足取りに物怖じするような様子は、少しも感じられない。
そしてその姿が暗がりに沈んだ、一瞬。
『冥』
年若い男の、姿無き声。突如呼ばれた自身の名に驚く様子もなく一つ頷き、少女は小さく呟いた。
「暗夜/静寂/閃光」
声に不安はない。ぐっと、闇が濃くなる。
「【勧請】」
『【了】』
同時、破裂音と共に街灯が消えた。背後から風を切り飛礫が地面を打つ。跳躍して回避、身を捩って反転する。少女の瞳に宿った青い燐光が、暗闇に鮮やかな軌跡を残す。
周囲に人影はない。だが、"気配"はある。
「【顕現】」
キーワードと共に一振りの日本刀を観測実体化させた。脳髄の未使用領域を励起し行われるそれは、冥の、強い想いに呼応して物体を現実化する。
空《くう》から出現した刀を淀みなく抜刀し、構えた。抜き身の刃は月明りを反射し、美しくすらある。
『まだ来るよ。気を付けて』
「わかった」
息つく間もなく礫が飛ぶ。先ほどまでより大きいものが石畳を削っていく。臆すことなく、少女、冥は飛来する方向へ走り出した。恐怖はない。やるべきことはただ一つ。
小さいものは刀で払い、大きいものは踏み込んで飛び越える。疾走、音が遠くなっていく。そして一本だけ残った街灯の下で、一閃。
「ヒッ」
空間が溶けるように崩れ、内側から女が現れた。
「なん、なんで、クソッ! ただのガキじゃねぇのかよ!」
焦燥、苛立ちに顔を歪め、口汚く罵って女が駆けだす。追い打ちをかけるように、返す刀で横に薙ぐが、それは見えないなにかに弾かれた。右手に鈍い痺れが広がる。
『認識阻害の応用かな? やるね』
面白そうな青年の声を聞き流し、女を目で追う。遊歩道に沿って走りながら、それはがむしゃらに腕を振っていた。
遠目から見れば滑稽に映る。けれど、女の動きに従って徐々に上部の空間が歪み、そこにやがて大きな岩が現れれば話は別だ。
あぁ、と嘆息する声が脳内に響く。
『さすがに、ちょっとまずいかな?』
「……そうみたい」
真っ直ぐに、重量のある岩が飛ぶ。女の哄笑が耳につく。
速度と質量、まともに当たれば、ひとたまりもないことは容易に想像できる。横に走ったとて間に合いはしないだろう。ならば。
『いける?』
「できると思う」
眼前に迫るその瞬間、衝突する岩を踏み台にして、その威力を上への跳躍に変えた。息が詰まるほどの衝撃など、大したものではない。
青い軌跡を残して少女は高く、高く飛び上がる。そして茫然と見上げ、立ち尽くす女の姿を捉えた。
くるりと姿勢を変え、刀を持たない左手を伸ばし、宙で握る。女の足元に広がる影が、呼応するようにずるりと蠢く。その身を蛇の如く這い上がり、足元から拘束する。
冥が再び地面に降り立つ頃には、影に包まれた真っ黒な簀巻きができあがっていた。
「なんなんだよ、お前! 俺、俺は一般人だぞ!」
濃い化粧は崩れ、髪を振り乱し、転がされた女が喚く。言動のちぐはぐさ、苦しまぎれの虚言、それを少女は冷ややかな視線で見降ろしていた。
「私は、"あなたが何かを知っている"」
「はぁ!?」
「あなたが霊基体であることも、あなたの目的も、あなたのその身体が、どうなっているのかも。だから、何を言っても無駄」
霊基体。人間の身体を使い、人間の記憶、感情を食らうモノたち。冥はあの日からずっと、その存在を追い続けている。
少女の言葉に、女はぴたりと動きを止めた。見開かれた目が、ぎょろりと値踏みするように冥の身体を舐めていく。
そしてまた、けたたましく声を張り上げた。
「なんなんだよ、俺が何したって? ふざけんじゃねぇ、この化け物が! 早く離せ!」
じたばたと暴れ始める女の目に、強い光が宿る。
ふ、と少女の頭上に影が落ちた。
『冥!』
「――ッ!」
強い頭痛が少女を襲い、思わず頭を押さえた。脳髄が腫れているような圧迫感。血流が巡り脳を揺らされる。息が詰まる。遠くで、風の音がする。
足元の影が揺らぎ、少女を覆った。中空からの落石を受けてたわむ。帳のような影を纏って、内側から一人の青年が現れた。
「怪我はない?」
「……七枝」
今まで聞こえていた姿無き声の持ち主、七枝(ナナエ)が心配そうに冥を見つめていた。青い炎のような瞳が揺らいでいる。
足元には、ブロックのような石塊が転がっていた。咄嗟に守ってくれたのだろう。全て一瞬の出来事だった。
「ありがとう、大丈夫」
それを聞き、七枝はふと息を吐き、安堵の表情を浮かべる。
「よかった。……で、そっちの方は」
そう言って女を一瞥した。先程と打って変わり、その様子は一変していた。
「な、な……」
声を震わせ、女は芋虫に似た動きで後ずさる。
「ああぁ、おま、お前、"同胞殺し"か!?」
脂汗を滲ませ、視線が忙しなくさ迷う。驚愕、狼狽、恐怖。
「なんだ、知ってるなら話は早いね」
笑顔を貼りつけた青年が一歩、距離を詰めた。女は小さく息を飲む。
「ほら、俺を見て」
頬を掴んで無理矢理、視線を合わせさせた。びくりと身体を震わせて女が硬直する。ひび割れた唇が、小さく震える。
「やめ、やめて、たすけ……」
視線を外さず、数秒。しばしのちに糸が切れたように、女の身体が脱力した。どさりと地面に伏して動かない。
この女性はどこから来たのだろうか。考えても仕方のないことが一瞬、冥の脳裏を過っていく。そのうち、ニュースになればわかるだろう。
青年は気にした様子もなくこちらを振り返り、すぐに申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、出てきちゃって。危なかったからつい」
七枝の実体存在維持には、強度の観測実体化が必要となる。その負担は重く、冥が今手にしている日本刀とは、比べ物にならない。
現に先ほどよりも頭痛は酷くなり、鼓動に合わせて脈打つ。それでも冥は首を横に振る。彼には、気にしてほしくない。
「平気。それより、目的は果たせた?」
冥の問い掛けに、七枝はもちろん、と頷く。
「ただ、冥の役に立ちそうなことはなさそうだね」
「そう……。それなら、次を探さないと」
「焦りは禁物だよ」
そっと冥の頬に触れる。少女の肌は滑らかで、温かい。
「じゃあ、俺は戻るね」
観測実体化していた七枝と日本刀が、青く光る粒子となって解けていく。それを最後まで見送り、冥は遊歩道をあとにした。
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少女は思い出す。
黒くタールのようにまとわりつく水、見上げた先の白い月。身体の内側を、ゆっくりと撫でられる気持ち悪さ。
視界は揺れ続け、すべての音があり、何も聞こえない。
溶けていく。意識も、記憶も、感情も、水に流れゆらゆらと溶け出していく。境目がなくなり、小さくなって、底に落ちる。
じぶんが、だれか。
なにを、かんがえているのか。
このかんじょうが、なにか。
わからない。
おちていくなかで、"なにか"と、目があった。
名を呼ぶ声を聞いた。
火花が散る。
青く美しい、炎が見えた。
【水鳥 冥】ミナトリ メイ
高校2年生の初夏、霊基体によって殺されたが、別の霊基体「HK/VC-07E」に寄生されることで死に長らえることになった。
死亡前の記憶の一部と感情の一部を奪われており、それらを取り戻すためにも「HK/VC-07E」の手伝いをすることに決めた。
戦闘時は「HK/VC-07E」による脳髄未使用領域励起の影響で目が青く光る。観測実体化した日本刀と影を操って戦う。
決して笑うことのない、冷酷無比な執行者。
【HK/VC-07E】
同胞殺しの霊基体。
強度の観測実体化を行うことで、青年の姿で現れることもできるが、冥の脳への負荷が激しいため滅多にやらない。
軽い口調でよく喋る、底の見えない謎のお兄さん。
【霊基体】
肉体を持たない寄生生命体。
通常は人間の死体に寄生し、宿主の意識を封じて自分の肉体として使用する。
本能的に他者の記憶と感情を集めるが、それらを奪われた人間は死に至る。
「HK/VC-07E」は冥と共に、他の霊基体が集めた記憶と感情を回収している。目的は未だ不明。