あれから丹恒の目から見る穹の行動には不自然な点が多く見られた。まず皆より遅くにシャワーを浴びる。丹恒と二人きりになるのを避ける。資料室に寄りつかない。
そして。
「穹」
「……っ! な、なに?」
ここ最近は、丹恒が声を掛けるだけで過剰な反応を見せる。その過剰さが丹恒の目にどう映るのかを気にも留めていない。
「最近様子がおかしいようだが……何かあったのか?」
「い、いや別に何も……」
「……」
丹恒としては、少しさみしい気持ちもある。穹とて健全な青少年だ。無遠慮に性を暴かれて、それに引き摺られないというのは難しいだろう。それは丹恒とてわきまえている。理解しているが、穹が自分を避けなければならないほどに気にしていると思うと、丹恒としては悲しい。自分たちの関係が少しだけボタンを掛け違えるように、こじれてしまったのが見て取れた。
「穹」
「な……なに?」
丹恒はそっと手を伸ばす。その指先が穹の頰に触れた瞬間だった。穹は弾かれたように後ずさる。
「……あ……」
穹はしまった、という顔をしたが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべた。
「……ご、ごめん、ちょっとびっくりしただけ」
「そうか」
「う、うん……」
異常なほど顔を赤くして、一瞬で汗だくになっている。明らかに様子がおかしい。だがそれを指摘すると、また穹は逃げていくのだろう。丹恒は息を吐いて、覚悟を決めた。
「穹、夜になったら資料室に来てくれ」
「え?」
「見せたいものがある」
『あっ♡ 穹♡ 穹♡』
「ウワーッ!」
穹は大慌てで丹恒の手から端末を取り上げた。過敏に周囲を見渡す穹を丹恒は眺める。最近はこうやって挙動不審な姿ばかり見ている気がした。……いや、彼は元々、かなり挙動不審だが。
「たっ丹恒!? な、なにこれ!?」
「あのときミス・ヘルタから送られてきた動画だ」
「なっ……さ、削除しろよ!?」
「今、お前に転送した」
「ウワーッ!?」
穹は頭を抱えてうずくまった。面白くないかと言えば少し面白い。だが、これは茶化して良い話でも無かった。丹恒は至って真面目に言う。
「お前が最近悩んでいるのは知っている。おそらくこれに関係することだろう」
「……」
「……俺も躊躇いはした。だが、お前の様子を見てこのままでは俺たちの関係にも支障が出るだろうと思った」
「そんな、ことは」
「それは好きに扱うと良い。削除するにしても、使うにしても」
「つ、使うとか言うな」
穹は端末を丹恒に押し付けてくる。丹恒は無言で動画を停止させる。その場面が丁度丹恒のイく瞬間で、動揺のあまり「あ」とか「う」しか言えなくなっているあたりが、穹の情けなさに拍車をかけていた。
「俺とこれは別の人間だと、お前に理解してもらう必要がある。そう思った。俺はお前の親友でいたい。穹……そのためには、この動画はしばらく必要になるだろう」
「イヤじゃないか? 普通、そういうことに自分が使われるなんて……」
「お前なら構わない」
穹はぽかんとした表情で丹恒を見る。それからじわじわと顔を赤くしたかと思うと、「あ~」と奇声を発した。
「もうやだ……」
穹は手で顔を覆って、そんな泣き言を言う。
「俺は丹恒が分からない……」
「俺だってお前が分からない」
トラウマになったのかと思えば、そうではない。ただ単純に丹恒が彼の中でセックスシンボルとして確立されてしまった。それは丹恒が思案しているうちに確固とした形を成し、穹の中で固定されてしまった。丹恒がいくらそれを否定したところで、もう手遅れだった。だったら乱暴な手段だとしても、あのときの出来事と、今ここに居る丹恒を彼の中で切り離させるしかなかった。
穹は端末をぎゅっと握って、それから意を決したように丹恒に向き直った。そして口を開く。
「……ありがとう」
「別に礼を言われることじゃない。……俺はお前に何もしてやれない」
「そんなことない、丹恒はいつも俺に優しいよ。今だって、俺のために……」
真面目に穹が続けている中で、押し返された端末に丹恒の指が触れ、動画が再生した。
『あっ♡ ああっ、たっ丹恒♡』
「ウワアーッ!」
「すまない、間違えて再生した」
「い、いや……大丈夫……」
止めようとして、ふと穹の顔が視界に入る。
「……っ」
つり上がり気味の目元が赤く染まっていて、目がとろんとしている。その目が画面上の丹恒に釘付けになっている。
「……」
丹恒は動画を止めた。穹がハッと我に帰る。
「あ……ごめん」
「いや」
丹恒は穹から視線を外して言った。
「……お前が望むなら俺は構わない」
「え?」
穹が聞き返すと、丹恒は再び端末を操作して、再生した。
『ああっ♡』
「丹恒先生!?」
「毎回深夜のシャワールームというわけにも行かないだろう。資料室を使うといい。その間俺は席を外すから……」
「い、いいいいらない、そんな気遣い!」
「だが、自慰に耽るたびに俺に気を遣うのは苦痛だろう」
「ふけっ……」
穹は顔を真っ赤にして絶句する。
「その動画の人物と、俺は別人だ。遠慮することは無い。繰り返し見るAVだとでも思えば良い」
「割り切り方がすごい……」
穹は疲れたように脱力して、それから丹恒の顔をまじまじと見た。
丹恒の口調はいつも通りで、真面目そのもの。だから穹も少し冷静になることが出来た。
「……その、ありがとう」
「構わないと言っている。……それでお前が楽になるのなら」
「うん……」
「俺はラウンジに居る。済んだら呼んでくれ」
そう言って丹恒が資料室を出ていく。穹はその背を見送ってから自分の端末を取り出し、動画に視線を移した。
再生する。
『あっ♡ あっ♡ きゅう♡ もっと♡』
画面の中の丹恒が、頭に住み着いていた姿のまま映されている。それは記憶と相違ない、大胆で、淫乱で、穹のことをとても可愛がってくれる、理想の『恋人』だった。
穹はごくりと喉を鳴らす。親友の丹恒が穹を思ってこれを渡してきたという事実にも、興奮していた。
関係を壊したくないから。
「は……」
喉が渇く。穹にもそれを壊す気はない。無かったが、どうしたって重ねてしまう。性に奔放な丹恒は、穹が壊した関係から生まれたと言った。あのとき見た丹恒の目は、切実に穹の心に訴えかけていた。それが彼の中の真実だと。
――丹恒も。丹恒も、もしかしたらあんな風になるのかな。
そう思ってしまう不埒さは、穹が丹恒を意識していることの証左に他ならない。既に丹恒への性欲は好奇心に留まることなく、穹の中で肥大化していた。
『あ、はあ……♡』
動画の中の丹恒を食い入るように見ながら、頭の中では親友の丹恒の痴態を妄想していた。
自分に触れる穹に、戸惑ったように丹恒が視線を迷わせる。
『俺たちは親友だろう……穹……』
縋るように、必死で縫い止めるように説得する真摯な目。
「は……っ、た、丹恒」
その目に自分が映るのを想像する。穹は今にも絶頂に達しそうな錯覚を覚えた。あの丹恒が、自分に懇願する様子を想像して興奮した。自分を喰らった奔放さは一切無い、禁欲的な丹恒が穹のする全てに戸惑って、そして快楽に堕ちていく様を。
「う……」
穹は射精していた。
動画はとっくに終わっていて、端末の画面が暗く沈黙している。穹は呆然としたままそれを見つめていた。
丹恒が気がついたとき、全てが手遅れだった。いつもそうだ、あのときから、一度だって間に合わないままだった。だからいつも後手後手になる。自分の深層に蓋をしたままだから、余計に何がきっかけだったのかを誤るのだ。
たとえば? たとえば、何故あのときヘルタへの合流が遅れたのか。シャワールームへ赴いた理由。動画を消さなかった訳。
消さないばかりか、彼に渡したことだってそうだった。
かすかに、不自然な点がある。それに穹が気がつかないから丹恒のそれは助長するばかりで、そしてついに自己矛盾で身動きが取れなくなった。
「穹……」
丹恒は、自分が何を望んでいるのかが分からない。おそらく見ない振りをしていたものが、こうなることをどこかで丹恒は知っていたはずなのだ。しかし彼にとって利があると、それは無意識下に判断されていた。そして、穹を追い詰めて、今。
「丹恒……」
呆然と彼を見上げる丹恒を、穹はうっとりとした顔で眺めている。丹恒を囲うように腕の中に閉じ込めて、穹は湿った息を丹恒に吹きかけた。
「穹、離せ……」
「イヤだ」
言うが早いか、丹恒の首筋に嚙みつく。
「っ、穹……」
「……俺から離れないで、丹恒」
ピノコニーで、何が起こったのか。穹は一言もこぼさなかった。正しく言うと『彼の身に起こったことを』だ。あそこから戻ってきたとき、彼の目に深い悲しみが沈んでいたことを、丹恒は一瞬で見抜いていた。普段以上に明るく振る舞っている。それが余計に彼の傷を物語っていて、丹恒は動けなくなった。時折窓の外を見て誰かに思いをはせている。その視線に必ず一度、亀裂が入るように苦しみが混ざる。傷に爪を立てて反芻しているのだと、丹恒は察していた。穹の持つ性質として、記憶や過去への愛着が人一倍強い傾向があった。詳しくは知らないが、星核ハンターのカフカに対する複雑な反応を見ていると、それは明らかだった。そこに、ひとつ『何か』が加わっている。おそらくは、丹恒の一生踏み入れることが無い領域で、彼はその傷を己の一部として、繰り返し味わっている。
『許しがたかった』。その執心、理不尽な嫉視を自覚できていたら拗れなかったことに、丹恒は今ですら気がつけないでいる。
列車の乗組員全員で食卓を囲む、そこでホテル・レバリーのバーで、成人と間違われて酒を勧められたことを話していた。その話を聞きながら、丹恒は『手違いで』彼のグラスを手に取った。酒の入った自分のグラスと間違えて、だ。
おしゃべりに夢中で、酒に慣れていない穹は、すぐに酩酊した。丹恒は自分の責任だと言って彼を介抱した。皆と別れてホテルまで連れて戻り、そしてベッドに寝かせた。呼吸が苦しげだったからその服をくつろがせ、汗を掻いていたから脱がせてタオルで丁寧に拭った。愛撫をするように。
全て『善意』だ。
――と、丹恒も穹も思っている。
「丹恒……俺、もう我慢できない」
穹の手が丹恒の服を乱していく。丹恒は抵抗しなかった。ただじっと、穹を見ている。
「ごめん……」
穹はひっかくような傷を、自らにつけている。それはすぐに記憶から薄れて治るが、穹が自分を許さない限りは永遠に生傷のままあり続けるだろう。か細く、小さな傷だ。……彼が望んで得る傷だ。
「丹恒、好きだ……」
選択は彼に委ねている。
その手が選ぶカードを丹恒は自分が用意していると気がつかないままでいる。あるいは、穹はどこかで気がついてしまっている。しかしいずれも、それを口にすることはなかった。
丹恒の身体は無体を働く穹に暴かれ、散らされ、そして彼の傷になる。それはもう、決まっていた。いつから。――いつから?
穹が丹恒では無い丹恒に奪われたときからだ。蛇のように絡まる執着は、計画的に彼を堕落させるために、丹恒自身に仕込んだものだった。
「はあ……はあっ……」
穹の息は荒い。その目は、じっと丹恒を見ている。その目に映る丹恒は穹を静かな眼差しで見ていた。
「……俺は、どうすればいい」
丹恒が独り言のように呟いた。穹は涙を浮かべた目を大きく見開いた。
「たすけて……」
絞り出すように引き攣った声がこぼれた瞬間、丹恒の口元が僅かに歪む。
「嘘……なんでもない……、っ丹恒……なんでもない……」
おそらくは、その言葉があのとき聞けなかったから、こうまでしている。
しかし、最後までその事実に丹恒が気がつくことは無い。
彼は小さく目を眇め、懺悔にも似た声をただ聞いていた。
頭が痛くてたまらない。吐き気もする。瞼を開ける。記憶に無い天井がある。穹は視線を彷徨わせ、ここがどこかを把握しようとして――目を見開いた。悲鳴をかみ殺すのに必死だった。
「……気がついたか」
「丹恒……」
隣を見たとき、裸の丹恒が横たわっていた。
「っ……う、あ……」
穹は真っ青になって口を押える。状況を把握するよりも先に本能的な恐怖を覚えてしまい、穹はそのままベッドから転がり落ちる。トイレに駆け込むと胃の中身をぶちまけた。
「……はあ……はあ……っ」
嘔吐し終えてもまだ息切れが収まらない。穹は恐る恐る顔を上げて、鏡を見た。
そこには、丹恒と同じく裸のまま、青白い顔をした自分が映っている。
「……っ」
胃液がこみ上げる。穹は再び便器にすがりついた。
丹恒はそんな穹の様子を黙って見ていた。そしておもむろに服を身につける。それから水を持って彼の手に握らせる。穹は震える手でそれを受け取り、口をすすいで吐き出した。
「落ち着いたか」
「……丹恒……俺……」
「ああ」
「ごめん……っ、ごめん……!」
穹はその場にうずくまり、頭を抱えて何度も謝罪を繰り返した。それをみてようやく、丹恒は自分が取り返しの付かない過ちを犯したことに気がついた。
決して『傷つけたかったわけじゃない』。しかし何かを、どこかで誤った。
「……」
丹恒は穹の手を引き、立ち上がらせる。そしてベッドに戻って二人で座り込むと、口を開いた。
「お前は何も悪くない。……俺が間違えてお前に酒を飲ませたんだ」
「ごめん……俺……っ」
「お前は、何も悪くない」
言い聞かせるように丹恒は言う。穹は彼の手を強く握って俯いたまま何も言わない。丹恒はじっと彼の様子を見ていた。丹恒は誤ったが、おそらく欲しいものは手に入れた。
「穹」
「……っ、なに……」
「お前は俺を恨んでいい。昨夜のことを忘れているなら、忘れたままでいるといい。俺は……お前を苦しめたいわけじゃない、んだ……」
そのはずだった。なのに丹恒の胸がつきりと痛む。穹は戸惑ったように顔を上げた。
「丹恒……」
その目に、涙がたまっている。
「泣かなくていい」
「ちがう……そうじゃなくて……」
穹は必死で涙をこらえながら、丹恒の手を握り返した。
「……俺が、お前を苦しめてた?」
丹恒は目を見開く。穹はどこか痛みを堪えるような顔をして、俯く。
「ごめん、解らない……俺は丹恒のこと……よく……」
「――俺にも、お前が解らない」
何故、今に至って自罰する。何故、俺を責めない。
「穹」
丹恒は穹の身体を強く抱きしめた。びくりとその身体が震える。それはただの反射のようなものなのだろうと丹恒は思う。あのときから彼はいつもそうだった。
目が合ったなら、逸らしてはいけない。
「……俺は、お前が思うほど高潔な人間じゃない」
「……」
「お前が傷つくと解っていて、受け入れた。抵抗をしなかった。殴り飛ばしてやった方がお前は救われると知っていて、そうしなかった。……お前は、そんな俺を赦すのか?」
「……た、丹恒は、何も悪くないだろ……」
「お前を傷つけている」
穹の顔が引き攣った。
「故意に傷つけた。お前を傷つけるものが許せないと言いながら、他の影を追い、傷つくお前を見て――俺で傷つけばいいと望んでいた」
穹の唇が戦慄く。それを見て、丹恒は彼を解放する。そして両の手で穹の頰を包むように触れると、額をくっつけた。
「……結局のところ、お前の心が他人で乱されるのが、許せないんだ」
「丹恒、でも……そんな……」
動揺する穹の耳に丹恒はそっと囁く。
「助けて、と。お前からその一言を引きずり出すために、俺は身体を明け渡した」
穹は丹恒を引き離して、殴り飛ばした。
丹恒はベッドから転がり落ちて、這いつくばったまま穹を見上げた。その瞳に憎悪の火が宿っていたなら良かったのに。彼の目に浮かぶのは恐怖と混乱で、それがまた丹恒を逆なでる。
「っ……ごめ」
「謝るな。何度も言っているだろう、お前は悪くないんだ」
穹は口を押さえて、その場にうずくまった。理解の許容範囲を超えたのだろう。
「穹」
丹恒は努めて穏やかに呼ぶが、彼は答えなかった。だから丹恒はそのまま続けた。
「……俺はお前に同情していたわけじゃない。哀れみをかけていたわけでもない。決して弱いとも思っていない。お前はおそらく、誰よりも強い。だからこそ、俺はお前からその言葉を引き出したかった」
「なんのために」
「俺のために……穹。お前には理解しがたいだろうが、俺は」
丹恒は穹の前に膝をつき、手を伸ばした。その手で彼の髪を撫でる。
「お前を……慈しみたいのだと、思う」
「なに……それ……」
穹は顔を覆った。丹恒は彼の髪を撫で続ける。やがて、穹がぽつりぽつりと言葉をこぼし始める。
「……わかんないよ……好きってこと?」
「それでかまわない」
「かまわないって何?……好きじゃないってこと?」
「いや、好きだ」
「好きなんだ……」
穹は顔を上げた。その瞳には涙がたまっている。しかし、彼が泣くことは無かった。ただ顔をゆがめて笑っただけだった。
「……俺……俺も、丹恒のこと好きだよ」
「ああ」
「でも、丹恒が俺に思ってるのと多分ちがう……」
「そうか?」
「そうだ……」
穹はそのままベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。その背中を丹恒の手が優しく撫でる。
穹はそろそろと振り向いて丹恒を見た。
「……もうしないから」
「してもいい」
「しない。お前を思ってとかじゃなくて――俺のために、しない……」
丹恒は久しぶりに、自分が晴れやかに笑ったと思った。
「そうだ。それでいい」