ミクロ実証経済学とは?
(注:以下の文章はゼミの学生が執筆しており、担当教員の校閲等は一切入っておりません)
経済学部に進学が決まり、専攻やゼミを選ぶを選ぼうにも、「ミクロ実証」の言葉の意味が分からない、あるいは分からないので選択肢から除外する、といった人は珍しくないとゼミ生も認知しております。経済学の中ではかなりの花形分野であり、割と手の出しやすい学問分野でもあり、わかりやすく面白味のある分野で、何よりデータ社会化が進むにつれ重要度が加速度的に増していることを考えると、実に残念なことです。
ミクロ実証経済学は、「ミクロ」と「実証」の名前に代表されるように、ミクロ理論経済学と計量経済学を応用して、(データを用いた)実証分析を行う分野の総称です。基本的には、「個票(ミクロ)データ」と呼ばれる、各人別、各市区町村別、各国、といった単位でのデータを基に、経済理論等を土台にデータ分析を行います。労働経済、都市経済、政治経済(ポリティカルエコノミー)、教育経済、開発経済、産業組織、医療経済、環境経済、といった分野において、広くミクロ実証的アプローチが取られています。例えば、「働き方改革による生産性向上の有無」「コロナのロックダウンの経済への産業別の影響」「インドの児童労働禁止法がなぜ逆効果だったか」「陪審員の人種による判決への影響」といった研究は、すべてミクロ実証の枠組みに内包されます。
21世紀のミクロ実証経済学の大きな特色は、因果推論に大きな焦点を置くことです。その根本は、相関関係と因果関係を区別することです。データなどから二つの経済的要因が一緒に動くことを観察するのは簡単ですが、一方でとある要因が他方を本当に引き起こしているかどうかを判断することは、はるかに複雑な課題です。これは、例えば最低賃金の変更や教育補助金などの介入の現実世界への影響を理解することを目的とする経済学者にとって、効果的な政策立案に不可欠です。
例えば経済学において近年大きく議論されている最低賃金政策では、最低賃金の上昇により、コストカットと価格転嫁のどちらの方向に各企業がどの程度動いたか、という情報が政策立案の肝となります。車の部品の価格上昇であれば、データさえあれば、同時期の最低賃金の上昇と車の部品の価格上昇との間の相関関係は簡単に観察できますが、果たして車の部品の価格上昇に最低賃金の変化がどれほど因果的に寄与したのか、ということを見極めるのは非常に難易度の高い作業です。直感的にも、同時期に他にも部品の価格に影響した出来事があった(車メーカーの体制変更など)、為替変動による市場の状態の変化、納期や決済の都合により価格や生産に波が生じた、賃金と全く関係のない経営判断により価格の見直しがあった、などと最低賃金以外にも価格上昇に寄与しうる要素が山ほどあることは明らかです。また、法令で定められた最低賃金に従わない企業は無いので、二つの似た企業のうち、最低賃金を遵守した企業と遵守しない企業を比較して、差分が最低賃金による変化である、といった論理を持ち出すことも不可能です(経済学ではこれを指し、Counterfactual は直接観察できない、という重要なコンセプトとしています、要するに「たられば」を正確に知ることは不可能ということです)。
ミクロ実証の技法を使うことで、我々はこうした「相関関係しか一目では分からない」「正確な比較検討ができない」といった悪状況を潜り抜け、正確に「最低賃金の1%の上昇は、車の部品の価格上昇の3%分ほど因果的に寄与した」あるいは「最低賃金の1%の上昇が車の部品の価格上昇を招いたとは統計的には立証できない」といった風に結論を下すことができます。
この文章の読者の多くは現役の東大生であると思われ、そうした皆さんはご自身の文章力を用いて数字なしの評論など幾らでも好き放題に放言(yapping)できることをご存知かと思います。美しい日本語でテキトーに中身の無いレポートを仕上げ、優評価を難なく獲得する、といった話は東大の学部ではよくあることです。東大生でなくとも、ネット社会化に併せ、確固たる証拠ない流言を繰り返し、言いたい放題に世論を都合よく操るような存在が近年社会に台頭していることは多くの方が認知しているかと思います。因果関係をきちんと数値的に立証した上で、統計的論拠をストーリー立て弁論を行うミクロ実証は、まさにそうした存在の天敵であり、同時に21世紀前半に最も必要とされる学問分野の一つだと言えるかと思われます。
注)
因果推論についてもう少し詳しく知るには、以下のリソースが有用です。
オンラインの情報も豊富ですが、初学者向けに書かれた書籍などを読むのが、具体例等も多く最も概念を掴みやすいかと思われます。
中室牧子・津川友介(2017)原因と結果の経済学: データから真実を見抜く思考法
NRI 用語解説・因果推論
Chishio Furukawa, 統計推論再考 -- 概念と技法 --
ミクロ実証経済学は、その射程が非常に広いことが特徴です。多くの科学と同様、経済学も極めて有力なジャーナル(自然科学の「ネイチャー誌」などを思い浮かべて頂ければ結構です)に論文を掲載することが一流の研究者の証ですが、最有力ジャーナルの一つである American Economic Journal を見てみましょう。2025年1号に掲載された論文のうち幾つかのタイトルを下に抜粋します。
Changes in Nutrient Intake at Retirement (Stephens and Toohey, 2025)
題訳:退職時の栄養摂取の変化
The Simpler the Better? Threshold Effects of Energy Lables on Property Prices and Energy Efficiency Investments (Sejas-Portillo, Moro, and Stowasser, 2025)
題訳:シンプルなほど良い? エネルギーラベルの閾値効果が不動産価格とエネルギー効率投資に与える影響
Rising Import Tariffs, Falling Exports: When Modern Supply Chains Meet Old-Style Protectionism (Handley, Kamal, Monarch, 2025)
題訳:輸入関税の上昇、輸出の減少:現代のサプライチェーンと旧来型の保護主義の衝突
Media Coverage of Immigration and the Polarization of Attitudes (Schneider-Strawczynski and Valette, 2025)
題訳:移民に関するメディア報道と態度の二極化
Location, Location, Location (Card, Rothestein, and Moises, 2025)
題訳:立地、立地、立地
論文の題名からも、ありとあらゆる社会現象を対象にミクロ実証経済学は研究を行っていることをご理解していただけたでしょうか。環境・栄養・場所、といった一見経済学とは離れたトピックも、ミクロ実証の研究手法を利用することで、分かりやすい形でその趨勢の変化や政策効果を数値的に検証することができます。また、移民や関税といった2025年に大きく取り扱われたトピックは、多くの政治家や評論家が意見を分つ議題が多く、データを利用し、ミクロ実証の特徴である因果推論を利用し、相関関係を超えた因果関係を検証することは、非常に意義深い取り組みだと思われます。
三人集まれば文殊の知恵かは果たして分かりませんが、人は三人以上集まれば必ず何かしらの形で交易・取引・協働・敵対、といったように経済的な関係性を構築します。データ社会化が一層進む21世紀に生を受けた我々にとり、ミクロデータを料理するミクロ実証経済学は、人の営む社会を観察するに非常に汎用性の高い虫眼鏡を提供するものです。
ミクロ実証経済学を専門にした場合の学生生活
ゼミ選びをする段階の東大生の大半は、「どの分野も面白そうだけど、実際毎日何をする生活になるのかイマイチ掴めないな...」と思いつつゼミへの応募書類を書いているかと思います。こちらでは、田中ゼミにミクロ実証の知識が特に無い状態で入ゼミした学生のモデルケースを掲載します。
3S
計量経済学の基礎を毎週学習(教科書やオンラインの情報源等を使い自学、毎週のゼミで発表)
内容としては、回帰分析や因果推論がまず何であるか、次にその手法を支える数学的な理論を知る、といったものです。非常に精緻に数学的な理論を追うところまでは、3Sのゼミではしません。
3Aの計量経済学の授業では一方、数学的な面が多く問われることになります。
幾つか学期内に論文(基本的には米国の有力ジャーナルの研究)を読み、発表
全て英語論文です
R or STATA でのコーディングの練習セッションが数回用意される
ほぼ全員が初心者から始めます
就活の場合は夏インターン等に向けて活動開始
3A
論文・計量のセッションが数回ある
授業で計量経済学を履修
東大経済の必修の中でまず最も難しい講義であり、夏休みに就活がひと段落した段階くらいで友達と一緒に予習をすることを強くお勧めします。特にAセメに就活が控えている学生は、早いうちに予習しないと地獄を見ます。
自主研究プロジェクトに向けて、三年生同士でチームを組み、ミクロデータ探しから行う
研究は、ミクロデータを探し、研究テーマに沿い統計分析を行い、過去の類似研究や統計的エビデンスを踏まえて研究テーマに沿った新しい論文(に近いもの)を構築する、といった過程を辿ります。過去の学生の研究の概要は、左上のメニューバーより「卒業論文・研究」からアクセス可能です!
引き続き就活
院進がある場合は、推薦状や英語のスコア等の書類の準備の開始
公務員志望であれば、本格的に試験準備
4S
論文・計量のセッションの計画や運営
コーディングの指導(三年時にプロジェクトを行うと、嫌でも大分身に付きます)
卒論に向け少しずつ指導
院進の場合は本格的に応募準備
4A
夏休みも使い、卒論を本格的に進める
田中ゼミは卒論は現状任意ですが、三年生から自主研究をすることもあり、多くの人が卒論執筆を行います。ゼミの歴史は浅いですが、特選論文受賞者等も早速出ています。
なぜ東大生はミクロ実証経済学のゼミに入るべきか?
かつてない規模でデータが入手できる現在、データを利用し因果推論を行い、数値的に厳密なエビデンスを構築するミクロ実証経済学の重要性は、多くの方が首肯していただけるかと思います。実際、国政で大きく問われるようなトピックであっても、アカデミアの方から「関税強化によるXX産業の雇用押し上げは、新規の雇用一人分につきYYドルかかり非効率だ」というようなエビデンスが提供されれば、純粋な政策議論としてはすぐにカタがつき、残るはいかに国民の理解を得るか、という点に移ります。
東大生(特に経済学部の東大生)のうち、以下のような人はミクロ実証のゼミに入ることを我々は強くお勧めしています。
政治、労働市場、環境など多くのトピックに興味がある学生
労働経済学(労働市場の分析)、ポリティカルエコノミー(投票など政治システムの分析)、産業組織論(企業行動の分析)、国際貿易、空間経済学、環境経済、医療経済、経済史、といったように、人の関わるありとあらゆる現象において、各アクターの行動を分析できるのがミクロ実証の面白さです。興味のある領域が一つに絞りきれない、という学生は多いと思いますが、ミクロ実証を行うゼミにおいては、習うスキル的には、こうしたどの分野においても将来活躍できる学生に成長できます。担当教員の田中先生ご自身も、開発・労働・国際貿易・経済史、といったように多方面で最先端の研究をされている方です。
新聞を読んでいて特に社会・政治面などに興味を惹かれる学生
ノーベル経済学賞を取った学者らの著名な研究には、例えば「米国のファストフード産業における最低賃金の果たした役割の分析」「義務教育の生涯年収に果たす役割」「労働者教育の効果分析」「アフリカにおける医療支援プログラムの結果分析」「性別・人種による雇用面での不利益の分析」などと、必ずしも「経済学」と聞いてまず思い浮かべるマクロ国家経済などとは関係のない研究主題が多いです(というより大半を占めます)。新聞の社会面や政治面を賑わせるようなトピック、例えば投票・犯罪・教育・医療、といったものは、ミクロ実証経済学と非常に相性が良いです。
スポーツ、農業、医療などのバックグラウンドがあり、王道の経済学と自分の領域との間で何かしら繋がりのある研究をしたい学生
ミクロ実証経済学は非常に懐が広く、ミクロデータさえあれば実質何でも分析対象となります。例えば、アカデミアで著名であり誰もが知っている論文の一つに、相撲を対象にした論文もあります。何か好きなテーマがあれば、適当なデータさえ見つければ、その土台の上で立派な研究をすることが可能です。
英語力に自信がある学生、あるいは英語力を磨きたい学生
経済学の中心は北米であり、現状論文執筆等は世界中ほぼ全て英語で行われています。特にミクロ実証では、読む論文や学会は全て英語ですので、英語力は非常に問われる要素です。ミクロ実証は数字だけではなく、統計的エビデンスを綺麗に説明するナラティブを構築する力も重要なので、深みのある英語を操れることは明確な+要素です。
コーディングを磨きたい学生、あるいはコーディングに熟達した学生
実証研究ですので、統計分析にコーディングが必要です。非常に複雑な数学モデルや深層学習等が必要となる他分野に比べ、かなり扱いやすい統計のコーディングから学習を始めることがでいます。
少なくない東大生が、統計的・数学的要素から逃げようとゼミ選びや専門選びをする姿を見かけますが、結局の所は経済学・経営学においては基礎的な統計や数学は必須です。実証は理論経済ほどは数学的素養は求められませんが、それでもある程度はコーディングをして数式を紐解く必要があります。大概の人がすぐに「逃げ場はない」と気づき腹を括って学習することになります。将来的にも知らないと困るスキルでもあるので、ゼミ選びの段階で重要視して良い要素かと思います。
文章力に自信のある学生
研究の成果を論文にする際、綺麗にエビデンスを総括し、読み手に重要性を訴えるナラティブを構築する力は、研究者として非常に重要な要素の一つです。
正直経済学の中で何をやりたいのかわかっていない学生
ミクロ実証経済学は、適当なミクロデータさえあれば何でも対象にできますし、分析手法や帰納のありようの形も万用です。既存研究や教員・他の学生との関わりの中で、誰もが各々にとり面白いトピックに次々と出会えること間違いなしです。
卓越した数学力を持っているのであれば、実質的にほぼ数式の羅列と読んでも差し支えないミクロ理論や計量理論が理想的に活躍できる場かもしれませんし、金利やファイナンスに強い興味があれば、マクロ理論やファイナンスが最適な土俵かもしれません。ただ、ミクロ実証はその特有の懐の広さにより、どのようなバックグラウンドを持った東大生でも活躍できる分野であると思われます。
田中ゼミの取り組み
田中ゼミでは、学生が主体的に研究できるようになる能力を学部生活を通じ付けることを目標に、活動が行われています。教科書輪読の段階から、自主的な確認クイズ、コーディングセッション、発表などを通じ、落伍者を出さず、皆一定以上の能力を必ず身に付けるような体制を取っています。「わかったフリをしない」ことをモットーに、アクティブな学びの場としてゼミが機能するように運営方針を採っています。輪読から研究まで、先生は親身にアドバイスを下さるので、ゼミを卒業する頃には優秀なミクロ実証系学生となっていること間違いなしです!!