手を繋ぎしばらくそのままでいると、電車が動き始めた。
一駅先で乗り換え、ゴトンゴトン、と心地よい振動に身を任せること十数分。家の最寄りのいつもの駅で俺たちは下車する。
もちろん、下車する時は、それと乗り換えるときはちゃんと手を放したよ? じゃないと改札をくぐりにくいからな。
冬の日は落ちるのが早い。防災無線のスピーカーから流れる『夕焼け小焼け』が午後四時を知らせる頃には、空は赤く、街灯が道を照らしていた。
俺たちは、五十嵐の『冷たっ!』以来、少しずつだがまたいつものように話すようになっていた。それに伴って、これまでのどこか気まずい空気も薄れていった。
「ねえ慧、今日の夕食は?」
「あ? えーっと……未定」
そんなの急に尋ねられても困る。俺は夕食のメニューを冷蔵庫の中身と相談してその場その場で決めるタイプなのだ。
「じゃあ楽しみにしておくよ」
「是非そうしてくれ」
そこから再び会話が途切れる。だが、そんな沈黙の時間を許すまじ、と言わんばかりに、五十嵐は俺の隣から走って前へと出る。そして数メートル離れた所で立ち止まるとこちらを振り返った。
「ねえ、慧。今まで誰かを好きになったことってある?」
「ブフォ⁉」
突然何を言い出すんだこの天使⁉ この雰囲気で投げ込む話題かなぁ⁉ せっかくいい感じになっているというのに⁉
俺は思わず立ち止まって五十嵐の表情を凝視する。だが、沈みゆく夕陽をバックにした彼女の顔は陰に隠れ、その表情を知ることはできない。ただ、夕日のせいなのか、頬に微かに朱がさしていることは分かった。
きっと相当の覚悟を決めて言ったのだろう。
そして俺に到来するのは胸の幻痛。本当は痛くも痒くも無いはずだが、五十嵐の言葉に脳が勝手に反応して、確かに封印したはずの思い出したくもない記憶がフラッシュバックしていく。胸を刺す痛みは増していった。
誰かを好きになったこと……その言葉は俺の黒い記憶のスイッチだ。
俺は必死に思考を逸らしつつ深呼吸を繰り返して、それを収めようと努力する。
数回も深呼吸をすると、だいぶ落ち着いてきた。
「どうしたの、慧? 大丈夫?」
あまりにも黙っている時間が長かったせいか、五十嵐が心配そうに聞いてくる。
俺は何とか笑顔を作りつつ、
「あ、ああ。大丈夫だ。何でもない」
と誤魔化す。
五十嵐は心配そうにじっと俺の顔を覗き込むが、それが地雷だと分かったのか、これ以上は追及してこなかった。
「……それじゃ、早く帰ろう」
「……ああ」
☆★☆★☆
俺は、互いに気になっているかもしれない、ということに気づいた時、その気持ちを無視して普段の距離を保とうとしていた。
五十嵐は、互いに気になっているかもしれない、ということに気づいた時、その気持ちに従って距離を詰めようとしていた。
しかし、五十嵐と俺の距離は昼の放送以前に戻ることになる。この点では、俺の気持ちが五十嵐の気持ちに勝ったと言えよう。
それでも、五十嵐の行動によって、俺の心には何かの小さい変化が生じていたのだと思う。
それが何なのか、その時の俺には分からなかったが。