薄明るい部屋の天井が見える。
いつの間にか目が覚めていることに気づくまで、数分かかった。
そして、それを自覚した瞬間、下腹部に忍び寄るむずかゆいような独特の感覚。
尿意だ。トイレに行きたい。
しかも感覚からしてあまり猶予時間は残されていない。
到着初日の夜からこれか……。夕食で水分を摂りすぎたのかもな。
俺が布団をどけて起きあがろうとすると、物音がした。
視線だけを動かして音のした方向を見ると、ちょうど隣のベッドから床に降り立ったレイ先輩と目が合った。
レイ先輩はビクッと驚いたかのように動きを一瞬止める。
先に動いたのは俺の方だった。ベッドから体を起こすと、レイ先輩が小声で話しかけてきた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いえ……レイせんぱい、どこにいくんですか?」
「トイレだよ」
「……わたしもいっしょにいっていいですか?」
「もちろん! さ、いこう!」
俺がベッドから降りるやいなや、レイ先輩は俺の手を取ると、引っ張るようにして部屋から出た。
深夜だからか、廊下の明かりは全て消されていて、月明かりのみがうっすらと窓から差し込んでいる。
当然、人の気配は一切ない。完全な静寂が建物の中を包み込んでいた。
ちょ、ちょっと怖いな……。
「フォル、トイレってどっちだっけ……」
「あっちです」
確かトイレは俺たちの部屋とは反対側の廊下の端にあったんだっけな。うわー、遠い。急がないとマズいかも。
俺は無詠唱で『ライト』を発動し、小さな光源を用意すると、俺たちの前方に浮かせる。
足早にしばらく進んだのち、ようやく廊下の端が見えてきた。
トイレは突き当たりに設置されているドアの向こうにある。
「レイせんぱい、おさきにどうぞ」
「いいの? じゃあ……」
俺は一人トイレのドアの横で座って待つ。
寝静まった夜、静寂が屋敷全体を包み込んでいる。時間の経過とともに、自然と五感が研ぎ澄まされていく。
全く変化のない廊下。それを過敏になった感覚で捉えていると、次の瞬間そこに何らかの恐ろしい変化が起きてしまう妄想に取り憑かれそうになる。
しばらくすると、レイ先輩が出てきた。
「お待たせー!」
「じゃあ、いってきます。『ライト』のひかり、のこしておきますね」
「だいじょーぶ! あたし、暗いのへーきだから!」
「……わかりました」
俺は『ライト』の光球を引き連れて、トイレに入った。
なるべく早く部屋に戻ろうと、俺は急いで用を足す。
すると、トイレの外から微かな鼻歌が聞こえてきた。レイ先輩の声だ。
その歌を聴いて、俺は安心した。レイ先輩が、トイレのドアの向こうで待っている。
用を済ませると、急いでトイレの外に出る。
「スッキリした?」
「はい」
さて、帰りますか。そんな気分でいたところ、レイ先輩は思わぬ提案をしてきた。
「ね、フォル。ちょっと探検しない?」
「え、たんけん?」
「そうそう。こんな静かな中、探検するなんてワクワクしない?」
「は、はあ……まあ、そうかも?」
「とりあえず行ってみよ!」
「え、ええ⁉︎」
俺が何かを言う前に、レイ先輩は俺の腕を掴むと、グイグイと引っ張っていく。
……仕方がない。ちょっとだけ付き合うか。運動神経がいいレイ先輩なら、何かあっても大丈夫だろうし。
俺たちは階段を降りて一階に到達する。
一階も二階と同じく、灯りがついておらず、静かな廊下が続いていた。
見た感じ、一階の方が二階よりも広いみたいだった。
「あっち行ってみよ!」
俺たちが向かったのは、食堂とは反対方向だ。
廊下の突き当たりにはドアがあり、そこには鍵がかかっておらず、少しだけ開いていた。
レイ先輩は特に気にする様子もなく、ドアを大きく開いてその中に入っていく。
ドアの向こうの部屋は大きな部屋になっていた。天井は高く、壁際にはかなりの高さの棚。その中にはたくさんの物品が収納されている。
「そうこ、みたいですね」
「ねー。いろんなものがあるね!」
そういえば倉庫を増設している、って言っていたよな。ここがそうなのか。
というか、俺たちが勝手に入っていいものなのか? ここに保管されているのは、まず間違いなく会社の商品だ。それが蓄えられている場所に、部外者が入るのは、常識的にマズいことだ。
「レイせんぱい」
「どうしたの、フォル?」
「ひきかえしましょう。かいしゃのひとにことわらずにはいるのは、ダメだとおもいます」
「……確かにそうかも。じゃあ戻ろっか」
ごねるかと思ったら、意外にもレイ先輩はすんなり俺の提案を受け入れた。
俺たちは入ってきたドアに向かってUターン。そして、ドアに手をかけた瞬間。
カチャリ……カタカタ……
「い、いまのなんのおとですか……」
「わからない……」
しかし、背後の音はこれだけで収まらなかった。
カチャカチャと固いものが細かくぶつかり合うような音が断続的に聞こえ、次第にそれらは大きくなっていった。
「な、なになになに⁉︎」
「ととととりあえずでましょう!」
俺とレイ先輩は急いで廊下に出る。次の瞬間、キィー、バタン! と何もしていないのに勢いよくドアが閉まった。そして一瞬の後、今度は限界いっぱいまでバァン! とドアが開く。
こ、これがポルターガイストとかいうやつか⁉︎
とにかく、明らかにヤバい状況にあるのは間違いない!
「戻るよ、フォル!」
「はい!」
俺はレイ先輩に手を掴まれると、急いでその場から退避させられる。コケそうになったが、身体強化魔法を発動してスピードを上げ、バランスを整える。
しかし、その間にも背後のドアは荒ぶっている。バンバン! とドアが何度も開閉する。
あまりのうるささに後ろを振り返ったちょうどその時、ドアの蝶番が限界を迎えたようで、壁際へドアが吹っ飛んだ。
そして、その向こうから、走る俺たちを追いかけてくるたくさんの物品。
「「いやぁーーーー‼」」
俺たちは悲鳴を上げて、さらに加速する。
一目散に階段まで行き、二段飛ばしくらいで最短距離を駆け上がる。
階段を上り終えてから、後ろを振り返るとすぐに物品の姿も見えた。
追いかけて来る物を引き離すことが全然できていない! むしろその差はどんどん縮まって来ていた。
物品の種類はさまざまだ。人形やぬいぐるみたちもあるし、お皿や壺などの陶磁器もあるし、何の物品かよくわからないものもあった。ただ、とにかくいっぱいあった。
ヒュンッ‼
「ひえっ!」
レイ先輩が神がかった反応速度で頭を勢いよく右に逸らす。と、そのコンマ五秒後くらいにレイ先輩の頭があったところを、勢いよく皿が通過して、ガチャ―ン! と壁に当たって粉々に砕けた。
えっ⁉ 超危ないじゃん!
次の瞬間、俺の顔の右を、すれすれで高級そうなフォークが通過。髪の毛が何本か持っていかれ、前方の床にドスッ、という鈍い音とともに突き刺さった。
「い、いったいなんなんですか⁉︎」
「これ、きっと『ゴースト』だよ! 魔物の!」
ゴースト。聞いたことがある。ゴブリンやクォーツアントと同じく、魔物の一種だ。ポルターガイストを起こす悪いものから、俺たちに何もしてこない無害なものまで、いろんな種類がある。もちろん、今回俺たちを襲っているのは、前者だ。
このままではすぐに大変なことになる!
エル! 防壁を展開!
『了解っス!』
俺が背後に風系統の魔法である『エアウォール』を展開した瞬間、後ろから容赦なく、物品が俺たちに攻撃を仕掛けてくる。
皿やフォーク、そしてナイフは雨あられと飛んできて刺殺撲殺しようとするわ、火のついた蝋燭やマッチが燃やし尽くそうとするわ、『エアウォール』が無ければ即大怪我の状態になっていく。
マジでいったい何なんだよ!
魔力視を使えば、きっと原因のゴーストの姿も捉えられるのだろうが……今はそれをやっている余裕がない!
と、ようやく俺たちの宿泊部屋が見えてきた。
が、すでにポルターガイストは背後まで迫ってきている。風の防壁も万能ではない。特に大質量のものが飛んでくる攻撃に対しては、勢い次第では突破されてしまうおそれがあった。
ここで、その手前側のドアがわずかに開いていたことを、俺は見逃さなかった。
「レイせんぱい! カヤせんぱいとフローリーせんぱいのへやに!」
「わ、わかった!」
申し訳ない! と思いつつも、俺たちの部屋の一つ手前側にある二人の部屋に、俺たちは逃げ込むことにした。
先に到着したレイ先輩が、走ってきた勢いを利用してドアを開く。そして、二人で一斉に飛び込むと、レイ先輩がすぐにドアを閉め、鍵をかけた。
次の瞬間、ガラガラドンドンガッシャーン! とものすごい音。
しかし、物は部屋までは入ってこない。
はぁ……はぁ……と部屋の中には俺とレイ先輩が荒い呼吸をする音だけが響く。
ひ、ひとまず助かった……。