舞台裏、楽屋のそばにある女子トイレ。
人の気配がまったくないその空間に、俺は早足で駆け込むと、一番奥の個室に入ってドアを閉め、鍵をかけた。
俺は、便座に腰掛ける。
俺がもし人間だったら、嫌な汗が背中をダラダラと流れていただろう。
最悪の想像が、俺の脳裏をよぎる。まさか、いや……そこまでは、酷くなっていないはずだ……たぶん。
しかし、確かめずにはいられない。この後に決勝戦がある。そのために、体の状態を確かめておかなければならない。
そして、俺の嫌な予感は、最悪の形で当たってしまった。
右腕を押さえている左手を、ゆっくりと外す。
外した当初は何もなかった。俺はホッと一息ついて、腕を動かそうとする。
だが、次の瞬間、ガキ、と嫌な音が響き、腕が勢いよく下に引っ張られた。
「な……」
俺の右肘から先が、消失していた。
いや、正確には消失はしていない。肘関節を境に、腕がなくなっており、その断面から金属の部品が丸見えになっていた。
さらに、配線が何本も露出していた。そのうち何本かはコネクタが外れて、宙ぶらりんになっている。
そして、繋がっている配線を辿っていくと、宙ぶらりんになっている腕の先があった。その断面からは機械の金属光沢がこんにちは。
つまり、腕が外れてしまったのだ。
「……ど、どうしよう」
ひとまず俺は右手の指を動かそうとする。もちろん、この状況でまともに動くなんて思ってはいない。そして、実際にまともには動かなかった。
かろうじて、右手の中指と薬指だけはぎこちなく動くが、それ以外はうんともすんともいわない。おそらく、配線が取れてしまっているからだろう。
このまま宙ぶらりんにしていては、配線に負荷がかかって断線してしまうかもしれない。そうなると余計にマズいので、俺はとりあえず無事な左手で落ちている腕を拾い上げると、膝の上に載せた。
「現在時刻は……十二時一分三十秒、か……」
俺が次に出場するのは決勝戦、その相手は前回王者の飯山だ。
しかし、その前に三位決定戦があり、さらにこれらは昼休みの後の午後の部で行われる。午後の部の開始時刻は午後一時なので、時間的余裕は少しあるはずだ。
とにかく、それまでにこの状況をなんとかしなければならない。
俺はとれてしまった自分の右肘から先を見る。このままの状態で戻るわけにはいかない。最低限、アンドロイドであることがバレないようにしなくては。
俺は左手で自分の右腕を持つと、右肘の関節に元どおりにはめようとした。
この際、とれてしまった配線を戻すことは諦める。どれがどこに繋がっていたかなんて、俺にはわかりっこないからだ。
「んっ……えいっ……くそっ……はまれっ……!」
俺は慣れない左手で、どうにか肘を元どおりにくっつけようとガチャガチャさせるが、一向にはまる気配はない。みやびが外した時は、やすやすと元どおりにくっつけていたのに……。
しばらく格闘していたが、左手が滑って右腕を落としてしまう。
「あっ!」
なんとか繋がっている配線も切れてしまうのではないか、と思わず大きな声が出てしまう。しかし、幸いにも配線は切れず、再び宙ぶらりんになった。
最初からやり直しだ……。いや、そもそも元に戻そうというのが無謀なのかもしれない。しかも、利き手ではない方の左手で。これ以上やっても、またさっきみたいに手を滑らせて落としてしまうかもしれない。その際に配線が切れてしまったら、余計に状況が悪化してしまう。
はぁ……あの時、楽観視したのは間違いだった。まさかこんなことになるとは……。おかしいと思った時に、潔く勝負を降りるべきだったのかもしれない。いや、そうでなくても、その時点でみやびにヘルプを要請するべきだったのだ。
「スマホは……」
俺はみやびに連絡をしようと、スマホを探す。
だが、スマホが控え室の自分の荷物の中にあることを思い出した。
どうしよう、詰みじゃん!
このままの状況で外に出ていくわけにはいかないし、みやびに助けを求めることもできない……! どんどん焦りが募っていく。
そこで、俺はふとある可能性に思い至る。
これならみやびに連絡ができるかもしれない……!
それができる、とみやびが言った記憶は存在しない。しかし、やってみないとわからない。もしかしたらみやびが言っていないだけで、あるかもしれないのだから。
俺は目を閉じ、頭の中で念じる。
みやびに電話を繋げろ、とただひたすら念じる。
夏祭りの時、みやびが俺の脳内へ直接情報を送り届けてくれたことがあった。
つまりそれは、みやびの持っている端末と、俺の中の電子頭脳が、何らかの回線で繋がっている、ということを意味する。
それならば、逆に俺からみやびへ、メッセージを届けることも可能なのではないか?
ただ、問題なのは俺はそのやり方を知らない、ということだ。みやびに教えてもらったことがないのだ。
これは、ある意味で賭けだった。みやびの端末に繋がってくれ。できれば電話で通話したい。もはや、念じるのではなく、祈っているような状態だった。
そんな俺の祈りが通じたのか、突然プルルルル、とどこからか電話の音が聞こえてきた。
頭を動かして辺りを見回すが、音が大きくなったり小さくなったりする様子はない。
つまり、周りの誰かが電話をかけている音ではない。どうやら俺は電話をかけることに成功したらしい。
まさか、本当に電話の機能がついているとは……。我ながら自分の体が恐ろしい。なんでもできるな。マジで。
あとは、みやびが出てくれればいいのだが……。
『はーい、もしもし? お兄ちゃん?』
すると、ガチャリという音とともに、みやびの声が聞こえてきた。
俺は思わず、安堵のため息をついた。これで、一縷の望みが繋がった。
だが、ここで俺はまた次の問題にぶち当たる。
これ、どうやって通話すればいいんだ?
『もしもし? お兄ちゃん?』
おーい、みやびー! 聞こえているかー! 反応してくれー!
俺は頭の中でそう念じるが、みやびにはどうやら聞こえていないみたいだった。
『……もしかして、お兄ちゃん、頭の中から直接かけてる?』
おお、察しがいいな! そうだよ! みやびにはわからないはずだが、俺は思わず大きく頷いてしまう。
『だったら声を出してみて。出せればいいから、小さな声でも大丈夫だよ』
こ、声を出さなきゃいけないのか……。周りから見たら、何も持たずに誰かと会話しているヤバい奴だと思われそうだな……。
だが、幸いにもここはトイレ。そして個室だ。今、このトイレの中には誰もいないようだし、もし誰かがいたとしても、トイレの個室で電話をしているように見せかけられるから、そこまで不自然には思われないだろう。
「……みやび?」
それでも、なるべく自分の存在を悟られないように、俺はできるだけ小さな声を出す。
『あ、聞こえた。この機能、お兄ちゃんには教えていなかったはずだけど』
「ああ、うん。なんか念じたらできた。それよりも、今は緊急事態なんだ!」
『え、どうしたの?』
「実は……」
俺は簡単にこれまでの事情を話した。
「というわけで、申し訳ないんだけど、できるだけ早く来てほしいんだ」
『もちろん! すぐ行くから待ってて! あ、お兄ちゃんにGPSついてるから、場所は教えてもらわなくても大丈夫』
「うん。ごめん、よろしく」
俺がそう言うと、電話が切れた。
みやびは、できるだけ早く俺のところに来てくれるらしい。
俺はとりあえずホッと一息ついて、後ろのタンクに背中を預けるのだった。