「お帰りなさいませ、ご主人様☆ 二名様でよろしいでしょうか☆」
夏休みも残り一週間となった。外はいまだにクソ暑く、夏は終わる気配を見せない。それでも、俺の夏休みは確実に終わりへと近づいていた。
それはすなわち、この店でバイトをするのもあと少しだ、ということだ。
もともと夏休みの間だけの短期バイト、という契約で働いている。それに、七月初めの生活費を賄うという当初の目的も達成できたし、夏休みの旅行代だってカバーできた。本来ならもうやり残すことはない……はずだ。
ただ、その一方で、この仕事がとても楽しい、と俺は感じていた。
確かに、メイドとして接客するのは大変だ。しかし、『メイド』という仮面をつけることで、普段とは全然違った自分になれる。なにより、ちやほやされるのも、案外悪くないと感じていた。
午後八時。終業時間を迎え、俺たちは最後の客を見送ると、店を閉めて片づけを始める。
「おつかれ~」
「お疲れ、ひなた」
今日は、飯山とバイトの時間が被っていた。俺たちは一緒に店の清掃を始める。
「もうすぐ夏休みも終わっちゃうね~」
「そうだね。夏休み、あっという間だったよ」
「でも、楽しかったね!」
「うん」
振り返ってみれば、この夏休みにはいろんなことがあった。
友達だけで遠くへ旅行に行った。
部活の合宿に言った。
みなとと夏祭りにも行った。
そして、飯山に紹介してもらったこの店で、メイドとして働いたということも、忘れちゃいけない。
「ほまれちゃんはさ、これからどうするの? バイト」
「それは……」
俺は、迷っていた。
当初の目的はとうに達成しているし、夏休みいっぱいで辞めても何の問題もないだろう。それに、このまま続けると、みやびに家事の負担をかけ続けることになってしまう。しかも、二学期になったら授業も再開するし、部活動も始まるから、時間的観点からバイトを続けるのは難しくなるだろう。
それはわかっている。わかっているんだが……。俺の中に、辞めずにこのまま続けてもいいな、という将来の自分に対して極めて無責任な気持ちがあるのも、また事実だった。
飯山が言う。
「……最初紹介した時は、『夏休みだけの短期バイト』って言ったと思うけど、ほまれちゃんがやりたいなら、二学期になってもバイトできるんじゃないかな」
「……そうなの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「店長さんは、ほまれちゃんがこれからも働きたいと言ったら、喜んで雇ってくれると思うよ」
それに、と飯山は言葉を切る。
「……少なくとも、わたしは、ほまれちゃんと一緒に働いてて、楽しかったよ」
「……」
俺がここでこれからも働くことに、肯定的な人は少なくとも一人はいるみたいだった。
しかし、結局、ここで働き続けるのか決めるのは俺だ。契約満了の時までに、心の内を決めなければならない。
飯山と俺の、二人きりのホールに、変な空気が流れる。
だが、それを打破するように、奥から店長さんの声が聞こえてきた。
「ほまれ、ひなた、掃除は終わったか? そろそろミーティングを始めるぞ」
「は~い!」
「今行きます!」
俺たちはゴミを捨てると、掃除道具を急いで片付けて『STAFF ONLY』の扉の向こうへ入る。
閉店して掃除が終わると、最後まで勤務していたバイトと店長さんが集まってミーティングをするのが恒例になっている。
俺とひなたは、何人かの他のバイトとともに、ミーティングに出席していた。
いつもは、大した報告はなく、数分間で終了する。しかし、今日は様子が違った。
店長さんが大きく咳払いをすると、開口一番に宣言する。
「さて、店対抗の腕相撲大会が迫ってきた」
そう言うと、店長さんは一枚のビラをテーブルの上に置いた。
「腕相撲大会……?」
「そっか、ほまれちゃんはまだ聞いていないんだっけ?」
「うん」
初耳だ。俺はビラをまじまじと見つめる。
ビラにはデカデカと『メイド喫茶対抗! 腕相撲大会!』と書かれていた。店長さんが説明を始める。
「知っている人もいるだろうが、改めて説明する。定期的にここら辺のメイド喫茶が集まって、腕相撲大会を開くんだ。各店舗で腕相撲が強い一名を選び、それに前回の優勝者を加えた八名でトーナメントを行う」
「な、なるほど……」
そんな奇天烈なイベントがあるのか。知らなかった……。
「で、うちの店は毎回店の中でトーナメントをやって、代表者一名を選出することになっている。任意参加だが、明後日の三時に予選を開催するから、出たい人は準備しておけ」
俺は脳内カレンダーを思い浮かべる。明後日はちょうど一日中バイトが入っているな。参加しようと思えばできる。
それにしても、腕相撲か……。俺は自分の細く白い腕を見ながら考える。
体を使う数ある勝負の中でも、腕相撲に関していえば俺に圧倒的に有利だ。
俺の機械の体は、静止したまま圧倒的なパワーを込めるのに向いている。それは、体育祭の棒引きの経験からも明らかだ。普通の人であれば、俺の膂力(りょりょく)には勝てないだろうな。
重要な連絡はそれだけだったようで、ミーティングが終わる。俺たちは更衣室で各々のロッカーに向かって着替え始めた。
「ほまれちゃんは、もちろん出るよね?」
「え?」
着替えていると、隣から飯山が尋ねてきた。
それに、俺は曖昧な返事しかできなかった。
「うーん、どうしようかな……」
「悩んでるの?」
「うん」
俺は自分の腕を見つめながら考える。
出場したら、きっと余裕で優勝してしまうだろう。それくらい、俺は自分が並々ならぬ馬鹿力を発揮できることに自信がある。
しかし、それは面白くない。周りから見れば、こんな線の細い女の子が優勝するのは驚きかもしれないが、俺にとっては出来レース。チートしてステータスを無理やりマックスにあげた状態で、ゲームをこなしているような気分になる。
俺は職場の人に、自分がアンドロイドであることをまだ明かしていない。明かしてしまえば、このモヤモヤした気分は晴れるのだろうが、今更明かすのも気が引けるし、なんて反応されるか……。
「それは、ほまれちゃんの力が強いから?」
「……そう、かも」
「なんだ、ほまれ、自信あるのか?」
すると、店長さんが絡んできた。すでに着替え終わったようで私服姿だ。
「え、えっと……ま、まあ、それなりには」
「そうかそうか。でも、一筋縄ではいかないと思うぞ?」
「え?」
「メイド喫茶の腕相撲大会といえば、低レベルの戦いだろうと思うだろう。だが、実際はそんなもんじゃない……侮ることなかれ、猛者ばかりだぞ」
「そうだよ、ほまれちゃん! ほまれちゃんでも、ちょっと優勝できるかは、怪しいかも……?」
「そ、そんなに……?」
「そうだよ!」
俺の正体を知っている飯山のその発言を、俺は少し意外に思った。
俺の力でも、勝てるかどうか怪しい腕相撲大会なのか……。なんだか、自分の力に酔ってるナルシストのような思考がつい飛び出してしまう。
怖いもの見たさ、つまり、好奇心が俺の中に芽生えていた。
「それに、大会の優勝者には豪華賞品もあるぞ」
「そうだよ! だから出てみようよ!」
「そ、そこまで言うなら……」
「やった〜!」
「ふっ、そのための腕相撲大会だ。強者が出なくてどうする、という話だ」
二人はなんだか嬉しそうだ。
まんまと流れに乗せられ、言質を取られてしまった格好になったが、不思議と悪い気はしなかった。
帰り道、飯山と別れた後、電車に揺られながら考える。
悪い気がしなかったのは、きっと、俺がアンドロイドだということを引け目に感じることなく、腕相撲大会に参加できそうだからだろう。俺が簡単に勝てないくらいの強者が出るのなら、ワンサイドゲームにはならないはずだ。俺が負けてしまうこともありうる。
……なんて考えが頭を巡るが、本当は、単純に腕相撲大会に出たかっただけなのかもしれない。
自分の気持ちの正体に感づきながら、俺は窓の外の景色に目を向ける。
俺は、腕相撲大会が楽しみになりつつあるのだった。