午後六時半を回ると、日の入りを迎える。西の空が赤くなり、太陽が水平線の向こうに沈んでいく。
「いや~遊んだ遊んだー」
「だいぶ疲れました」
「そうだね~」
「お腹が空いたわね」
「みなとは食いしん坊だなぁ」
俺たちはサンダルをペタペタ鳴らして、旅館に戻る。
ナンパを追い払ってかき氷を食べてからは、しばらくの間再び海で遊んだ。そして、人がだいぶ少なくなった頃に撤収すると、上着を羽織って荷物を持ち、そのまま温泉に向かった。
温泉は温泉でも、旅館の温泉ではない。水着のまま入れる公共の温泉がビーチにあるのだ。ビーチに温泉とはなかなか突飛な組み合わせだが、散々遊んで海水をたっぷり浴びた俺たちの体を洗い流すのには、ちょうどいい施設だった。
そこで二百円を払い、皆でしばらく湯舟に浸かって景色を楽しんでから、今に至る。
旅館に戻って着替えると、夕飯の時間になったらしく、すぐに夕食が出てきた。会席料理だ。旅館でしかお目にかかれないような豪華な料理である。
俺の目の前に、料理がどんどん並べられていく。いつも思うのだが、この量を食べきるのは、大の大人でもなかなか難しいんじゃないだろうか……。
仲居さんが部屋を去った後、越智が心配そうに聞いてくる。
「……ほまれさんは、どうするんですか?」
「うーん、誰かに食べてもらうしかないんだけど」
本来なら、俺が食べられないという事情を説明して、一人分減らしてもらうべきだったのだが、うっかり忘れてしまっていた。だからと言って、このまま丸々残すのは俺の良心が痛む。事前に一人分は要らないと言っておけばよかった……と今更ながら後悔する。
「それなら私が食べるわよ」
「みなと……いけるの?」
「問題ないわ」
早速口を動かしながら、みなとはこちらにサムズアップ。
「さすがすぎる……みなっちゃんて、そんなに大食いだったっけ?」
「……前、高校の駅前のラーメン屋の大食いチャレンジを成功させてたよ」
「え⁉ あの量を? 四キロくらいなかったっけ⁉」
「……もしかして、学校周辺で大食いチャレンジをしている店に恐れられている、『大食い美少女JKチャレンジャー』ってみなとさんのことですか?」
「恥ずかしいからその名前で呼ばないで」
みなと、そんなふうに呼ばれていたんだ……。確かに、大食いで美少女でJKであることはあっているんだけど。
それにしても、よく大食いをしても太らないよな……。代謝がいいのだろうか? 体質だろうか? こんなこと、本人に直接聞いたら怒りそうだから聞けないけどさ。
「それにしても、みなっちゃん、よく太らないね。めっちゃ食べるのに」
檜山がサラッとみなとに聞いた。直球だな!
「……太らないような努力をしているだけよ」
それに対して、みなとはサラッと受け流して、手を動かし続ける。俺は一言。
「……無理はしないでね」
「もちろんよ。でも、これくらいなら食べきれそうだわ」
それから一時間三十分後。仲居さんが来る頃には、みなとは宣言どおり、自分の分、そして俺の分まで綺麗に平らげていた。
「ごちそうさまでした」
「……みなとちゃん、本当に食べちゃった」
ただ、さすがに量が多すぎたのか、みなとは動けないようだ。他の三人も、一人分しか食べていないのだが、やはり量が多かったらしく、お腹をさすっている。
おそらく、皆は三十分くらい部屋で休むことになるだろう。大量の飯を食った後は動きたくなくなるものだ。
……とすれば、俺にとっては大チャンスだ。
俺は自分の荷物を開けて、袋を取り出すと、皆に見えないように抱えて立ち上がる。
「……ち、ちょっと俺、行ってくるね」
「どこに行くのよ?」
「か、館内を探検してくる」
「いってらっしゃ~い」
飯山の弛緩した声を背中に、俺はスリッパを履いて廊下に出る。そして、足早に館内を進んでいく。
館内を探検する。その言葉は嘘だ。本当は、ある場所に一直線に向かっている。
ここに来た時、館内図をしっかりと頭に叩き込んでおいたので、俺は迷わずに、最短コースでそこに向かう。
「……ここだ」
俺の目の前にあるのは、紅色と藍色の二つの暖簾。どちらにも『ゆ』という勘亭流チックなフォントの白文字がデカデカと書かれている。
俺は今から、皆に先んじて、密かに温泉に入ろうとしていた。
本来なら、皆と一緒に入るのが筋だ。しかし、それは健全な思春期男子にはさすがに刺激が強すぎる! 自分の裸だって、最近やっと慣れてきたところなのに、他人の女子の裸なんて、とてもじゃないが見れない! 一度見てしまったら俺の中の倫理観が致命的なまでに崩壊してしまう気がする。
だったら、さっきの公共温泉で我慢すればいいじゃないか、という話だが、あれはあくまで水着を着ながらの入浴。体や頭はきちんと洗えていないのだ。それに、せっかく温泉付きの宿に泊まっているのだから、入らないのはもったいない!
しかし、俺がこの温泉に入るには、あまりにもハードルが高かった。
そもそも男湯には、体の問題で入れない。もし間違えて入ってしまったらただの痴女になってしまう。この旅館には混浴風呂は存在しないので、必然的に女湯に入ることになる。もし混浴風呂があったとしても、他の男に体を見られるのは……ちょっと嫌だ。
結局、女湯に入ることになるわけだが、俺が入っている間に他の人がいる状況はなるべく避けたい。相手の問題ではなく、自分の気持ちの問題だ。しかも、風呂場で他人と鉢合わせるかどうかなんて、結局はただの運次第。こうしてこっそり一人で来ることでその確率を下げたとしても、別の客が入っているのは十分にありうることだ。
俺は、他の人が入っていないように! と願いながら、紅色の暖簾をくぐる。
「……よし!」
そんな俺の願いが通じたのか、脱衣所には誰もいなかった。おそらく男湯と同じような構造である更衣室には、人の気配はまったくない。ロッカーを見渡すも、誰かの荷物が入っている様子も見られない。俺は、ギャンブルに完全勝利したのだった。
この勝利を活かさない手はない。俺はロッカーに袋を突っ込むと、素早く服を脱いでいく。そして、すっぽんぽんになるとタオルを持って、中に入った。
中に誰かいたらどうしよう、とちょっと心配だったが、それは杞憂に終わった。ザバザバとお湯の音が響く中、人の気配はない。俺は滑らないように注意しながら、入り口からできるだけ遠い席を選んで早速体と頭を洗っていく。
一応外の温泉で砂や塩は落としたはずだが、体に残っているといけないので、もう一度、今度は石鹸を使って念入りに洗い直す。それらが残っていたせいで機械の調子が悪くなって、皆に迷惑をかけてしまったら最悪だ。
全身を洗い終わると、俺は内風呂に入る。浸かる時間もそこそこに、俺は内風呂を出ると、外に繋がるドアを開けた。
「おお……」
俺の目の前には、露天風呂があった。暗い中、照明がわずかに足元と水面を照らしている。俺は慎重に、湯船に体を入れていく。
「ふー……」
旅館の女湯の露天風呂を独占した俺は、目の前の光景に目を向ける。
すでに日は落ちきっていて、外は真っ暗だった。都会から離れているせいで、明かりが少ないのだ。目の前には太平洋が広がっているはずだが、暗いためあまりよく見えなかった。きっと、昼間だったら綺麗なオーシャンビューが楽しめるんだろうな、なんて思いながら、俺は視線を上に向けた。
すると、満天、とまではいかないが、星がよく見えた。少なくとも、俺の家があるところよりかは、見える星の数が多い。
あれがデネブ、アルタイル、ベガ……早速、夏の大三角形を発見する。教科書やプラネタリウムでしか見たことのない光景が、今実際に見えていることに、俺は少し興奮を覚えた。
しばらく一人きりを満喫していたが、長居はしていられない。ここは俺の独占が認められているわけじゃない。いつ、女湯に他の人が入って来てもおかしくないのだ。そうなる前に、なるべく早く女湯を脱出して、着替えて部屋に戻らなければ。
そう思って俺は、ザバーンと露天風呂を出ると、再び中に入ろうと、ドアに手をかける。が、その時、俺の手が止まった。
おそるおそる、耳をドアにくっつける。
「…………~!」
「……と、……ぎ……ぎよ」
俺の高性能な耳は、お湯が注がれる音に混じって、誰かの話し声を捉えていた。