その週の週末。ついに来週いっぱいで一学期は終わり、夏休みに突入する。
だが、俺とみやびの生活は相変わらず厳しいままだった。前月の残りの生活費がほぼ尽きて、そろそろ貯金に手をかけようか、というところまできている。しかし、貯金に手をかけて限界まで節約したとしても、七月末までギリギリ持つか持たないかくらいだ。
それに、真にお金の消費が激しくなるのは、夏休みに入った後だ。今はみやびの昼食が給食で賄えているため、その分が浮いているが、夏休みに入ってしまうとそれがなくなる。その分のお金がかかってしまうのは必至だ。
しかし、その重大な問題は、ようやく解決されようとしている……!
俺は今、電車に乗っている。いつも通学で使う路線だが、乗り換えで降りる駅はとっくに通り過ぎて、どんどん都心方面に向かっている。学校に行くわけではないことは言うまでもない。しかし、俺の今の服装は制服だ。
なんだか無性に不安になってきたので、俺はもう一度メッセージアプリを起動して、前日に飯山から送られてきた内容を見返す。
「十二時五十分、東口で待ち合わせ……か」
よかった、俺の記憶は間違っていなかった。間違っていたらいろいろ大問題なのだが、それを考える余裕はない。
二十分後に俺を待ち受けているのは、バイトの面接だった。ついに、昨日飯山からバイトの要項が送られてきたのだ。それによれば、今日の午後一時から店で面接が始まるようだ。
ありがたいことに、飯山も俺についてきてくれることになった。知らないところに一人で行くよりも、知ってる人が一人つくだけで、ずいぶん心強いものだ。少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。約七百年前の人物が記したこの言葉の意味が、よくわかる。
休日の正午頃という時間帯のせいなのか、車内はかなり空いていた。飯山がついてきてくれるとわかっていても、緊張はする。でも、この面接をなんとしてでも通過しなければならない。そうしないと、本当にもやし生活になってしまう。
ちなみに、給料は週ごとに振り込んでくれるそうだ。だから、もしもこの面接で採用になって、一週間辞めずに続けられた場合、夏休み開始直後に最初の給料が振り込まれることになる。そうなれば、俺たちは食いつなぐことができる。
まあ、それも全部、面接が通ったらの話だが。責任重大だ。プレッシャーに押し潰されそう。
そうこうしているうちに、電車が終着駅に着いた。
滅多に来ることのない、都心の巨大なターミナル駅。日本一複雑だと言われるこの駅の東口が、飯山との待ち合わせの場所だ。
「人、多いな……」
さすが、都心のターミナル駅だ。乗り込んでいる路線の数が多いし、プラットホームの数もとんでもなく多い。なんだよ十七番線って。初めて聞いたぞ。
平日の朝のラッシュでもないのに、駅構内は人でごった返していた。油断しているとすぐにぶつかってしまいそうだ。俺は案内表示を見ながら、人の波に飲み込まれそうになりつつも、なんとか東口に到着した。
「あ、ほまれちゃ〜ん」
待ち合わせ場所に到着すると同時に、飯山が声をかけてきた。俺よりも先にここに着いていたようだ。まだ約束の時間まで五分もある。
「それじゃ、行こう!」
「うん」
早速、俺たちは店に向かって歩き始める。目的の店は、駅からおよそ徒歩五分の場所にあるらしい。
道中何も話さないのはなんだか寂しいので、俺はかねてから気になっていたことを尋ねる。
「飯山はいつからバイトしてたの?」
「始めたのは今年の四月からかな。この辺を歩いていたら、なんかスカウトされたの」
「スカウト⁉︎」
「そう! だからバイトすることになったのは半分成りゆきだけど、でもいいところだよ〜」
「そ、そっか……」
確かこれから行くのは喫茶店なんだよな。俺は飯山からそう聞いているが、店員をスカウトする喫茶店ってどんな喫茶店なんだ? そもそも本当に喫茶店なのか? 喫茶店の皮を被った別のヤバいお店だったりしないだろうな……。
いや、こんなことを考えても仕方がない。すべては、店で面接を受けてからだ。
気持ちを切り替えていると、ふと、頭の中で一ヶ月前の出来事が思い浮かぶ。
確か、テニスの時だったか、飯山の部活が気になったことがあった。結局本人に聞くことはなかったが、それからも、それまでも、学校生活を送っている中で、飯山が部活に所属しているという話は聞いたことがなかった。もしや、と思い確かめるように俺は飯山に尋ねる。
「もしかして、飯山って部活、やってない……?」
「そうだよ〜。さすがに部活をやりながらバイトはきついからね〜」
そもそも部活に入ってなかったのか。そして、部活をやっていなかったのはバイトに専念するため。なるほど、これで繋がった。
「それにしても、毎回バイトのためにここまで来てるの?」
「うん。わたしの家はここと学校のちょうど中間あたりにあるからね〜」
俺の学校の生徒なら、ここまで通うのに結構時間がかかるよなぁ、と思っていたが、どうやら飯山にとっては案外そうでもないらしい。少なくとも、俺よりかは通勤は楽そうだ。
「交通費とかどうしてるの?」
「バイト先が全部出してくれるよ〜。そこは安心してね!」
「そっか。よかった」
飯山はいいとしても、俺はここから学校を挟み、さらに遠くの方に家がある。いつも学校に行く時に乗り継ぐ駅までは定期の範囲に入っているので実質タダで行けるが、その先からここまでとなると、かなりの距離になる。何回も往復すれば、たかが数百円も、チリツモ的に、たちまち数千円になってしまう。その点でいえば、バイト先からの交通費支給はとてもありがたかった。
いつの間にか、俺たちは人の多い大通りから、一本外れた路地に入っていた。人混みからはわずか建物一つ分しか離れていないのに、ずいぶん静かだ。大通りに沿って並ぶ店の裏側や、商品搬入口がこちらを向いている。
「着いたよ〜」
「ここか……」
飯山が足を停めたのは、そのうちの一つ、周りと比べると比較的小さな建物の裏側だった。ここからでは、表側にどんな店が展開しているのか、まったく想像がつかない。
灰色のドアに、磨りガラスがはまっている。一応中は照明が点いていて明るいので、人はいるようだ。普段なら、絶対にこんなところに入らないだろうなぁ……。
「失礼しま〜す」
「し、失礼します」
慣れた様子で飯山が元気よく入っていく。少々遠慮がちに、俺はその後ろからついていった。
あまり幅の広くない廊下を進んでいく。不意に、飯山は廊下にあるドアのうちの一つを開けて入っていった。
部屋の中には、まずテーブルが真ん中にドンと鎮座していた。その上にはお菓子やノートが散らかっている。それを中心に、三人がけのソファーが向かい合って設置してある。端っこでは、観葉植物が薄い存在感を漂わせていた。
「なんか散らかってるね……ごめん」
テーブルの上を見るなり、飯山が散らかっていたものを手早く脇に寄せたりゴミを捨てたりする。
「それじゃあ、ちょっと店長さんを呼んでくるからここで待っててね」
「う、うん、わかった」
俺はソファーの真ん中に腰掛けた。
面接開始の予定時刻まであと五分ある。だけど、少し早く着いてしまったから、飯山が店長さんを呼んできたらすぐに始まってしまうだろう。
そう考えると、急にドキドキしてきた。いや、心臓なんかないんだけど、無性に緊張してそこら中を歩き回りたくなる。
落ち着け……! 俺はやればできる! 変な受け答えをしなければ絶対に大丈夫だ!
ガチャリ、とドアが開いた。いや、急すぎるだろ……! ビビってちょっとビクってなっちゃったぞ……。
入ってきたのは意外にも若い女の人だった。一番若く見積もって大学生くらい、上に見積もっても絶対に三十はいってないだろう。
顔立ちは、一言で形容すれば、美人。可愛いではなくて、美人だ。スゴく大人びている印象がある。
この人が、飯山の言っていた『店長さん』なのだろう。じゃなきゃ、こんな部屋にわざわざ入ってこない。
ドアが閉まる寸前、廊下がチラリと見えたが、そこに飯山の姿はない。そりゃそうだ、採用面接に余計な人を入れるわけにはいかないもんな。
部屋に入ってきた女性──店長さんは、静かに俺の向かいのソファーに座った。
ついに面接始まるのだ。しっかりしなきゃ、と背筋が伸び、拳に力が入る。
「それでは、面接を始めます」
「は、はい!」
「まずは、名前と年齢をお願いします」
「はい。えっと、天野ほまれ、十七歳です」
「念のため、学生証を出してくれますか?」
「は、はい!」
俺は定期券の裏から、学生証を取り出して、手渡す。店長さんはそれをしばらくの間見ると、俺に返却する。
「……これまでのバイト経験はありますか?」
「ありません」
「学校の許可は取りましたか?」
「はい。これが許可証です」
俺はバッグから、前日に学校から貰った一枚の紙を取り出す。申請して通らなかったらどうしようか、と思っていたのだか、あっさり許可を貰えた。
飯山も、ここで働き始めるときに同じ書類を見せているだろうから、これで十分通じるはずだ。
「……それでは、なぜこの店で働きたいと思ったのですか?」
来たよ! どう答えようか一番悩んだ質問!
いろいろ適当にそれっぽいことを言おうかと考えたけど……ここは正直に答えるのがベスト……な気がする!
「はい、えっと……夏休みに、家庭の事情でどうしても働かなくてはならなくなってしまい……、それでこの店には友人が働いていたので、紹介してもらいました」
「そうですか……」
あれ? 今、俺何かヤバいこと言った? もしかして正直に答えすぎてしまったのがダメだったのか⁉︎ ここはそれっぽい言葉でごまかせばよかったのか⁉︎
待て待て待て、落ち着くんだ俺。まだ取り返せるぞ、たぶん。うん。大丈夫だ、次の質問で挽回できる!
そう思うが、店長さんはこれ以上俺に何も聞いてこない。それどころか、席を立って俺の目の前にやってきた。そして、しゃがみ込むと、俺の顔をじっと見つめ始める。
なんだなんだなんだ⁉︎ 無言無表情だからか、ものすごい圧を感じるぞ! 謎の迫力に、俺は目を逸らすこともできずに固まる。
いったいこの人は何をしているんだ? これは不採用宣告の前振りなのか?
あぁ、不採用だったら俺はどうしたらいいんだ。夏休み中本当にもやし生活になってしまうのか。よし、帰ったらもやしレシピを調べておかなくちゃ……。
「ふむ」
ここまで考えが及んだ時、ようやく店長さんが口を開いた。
続けて一言。
「採用」
「……へ?」
呆気にとられる俺。
まさかの採用だった。