冷却シートをみなとの額に貼る。一瞬、彼女は冷たさに顔を歪めたが、すぐにまた元のつらそうな表情になった。俺は彼女にそっと布団をかける。
「はぁ……」
思わずため息をついて、俺は床に座り込んだ。
みなとを背負って家に上がらせてもらった後、俺は彼女の部屋の中に入った。そして、そのままみなとをベッドの上に横たえた。それから、なぎさちゃんに頼んで冷却シートを取ってきてもらい、それを彼女の額に貼りつけて現在に至る。
相変わらず彼女はつらそうだ。できるのならその苦しみを代わってやりたいが、そんなことは不可能だ。
とにかく、風邪を引いたときは体を休めるのが一番だ。無理をして学校に来ていた時点で全然休めていないのだが、今からでも休めばそれだけ回復するのが早くなる。
そして、大事なのは水分補給だ。発熱による発汗で、大量の水分が失われる。適宜水分補給をしないと、脱水症状を起こしてしまう。特にこの時期は気温が高い。何もしなくても脱水症状を起こしやすいので、より注意が必要だ。
幸い、みなとの鞄の中に、まだ中身の入っている水筒があった。それをベッド脇の机の上に置いておく。
本当なら発汗で服もベトベトになるはずだから、パジャマに着替えさせたいところだけど……。俺にはそこまでする勇気がない。後でなぎさちゃんか家の人に頼んでやってもらおう……。
ちなみに、そのなぎさちゃんは、今は部屋の外で待ってもらっている。万が一、みなとから風邪がうつってしまったら大変だからだ。
対して、俺はアンドロイドなので風邪はひかないしひけないしひくはずがない。逆に風邪をひくアンドロイドってめっちゃ高性能じゃないか? アンドロイドは病気にならないから、その点では都合がいいよな。もしも俺がウイルスに罹るとしたら、それはコンピューターウイルスだな。
「しっかし、みなとの部屋ってこんなんだったっけ……」
一息ついて、俺はみなとの部屋をぐるっと見渡す。
壁紙はピンク、ベッドもピンク、机もピンク……ではない。壁紙は白で、インテリアもほどほどの、言っちゃ悪いが普通の部屋だ。別の言い方をすれば、テンプレから離れたあまり女の子らしくない部屋、という感じだ。
本棚には辞書やら図鑑やらいろんな本が詰まっていて、机の上は綺麗に整頓されている。彼女の性格が反映されているようで、見ていて少し面白い。
以前一度だけ入ったことがあるとはいえ、もうその時のことはあまり覚えていない。今は、初めてこの部屋に入った時と同じような気分になっている。
「これは……」
ふと、本棚の上から三段目のところに置いてあった写真に目が止まった。服装からして半年くらい前の写真だろうか。見覚えのある人物が二人、映っている。女子の方はすぐにわかる。みなとだ。そして、もう一人、隣にいる男は……。
「ほまれさ〜ん」
「ん」
外からなぎさちゃんの、俺を呼ぶ声がして、俺は写真から意識を逸らした。立ち上がって部屋を出る。
「どうしたの?」
「おねーちゃん、大丈夫ですか……?」
「大丈夫だよ。たぶん、ただの風邪だから、命に関わるような病気じゃないと思うよ。このまま安静にしておけば、すぐによくなるはず」
「そうですか……よかった〜」
なぎさちゃんはホッとしたような表情を作る。元を辿れば、みなとをこんな状態にしたのは俺なのだ。他の人の家族にまで心配をさせてしまうなんて……本当に申し訳ない気持ちになる。
だから、今自分ができることを、せめてもの罪滅ぼしとしてやらなければならないのだ。
「そういえば、お父さんとお母さんは?」
「ママもパパも今日は用事があって、遅くなるみたいです」
「そっか……じゃあさ、ちょっと台所借りてもいいかな?」
「いいですけど……夕食ですか?」
「うん。差し支えなければ作ろうと思っているんだけど、ダメかな?」
「大丈夫ですよ! 逆にいいんですか⁉︎」
「う、うん」
「やったー!」
こんなに喜んでくれるのはちょっと予想外だ。……どうやら、なぎさちゃんの中では彼女を含めて二人分作ることになっているらしい。本当はみなとの分だけ作って帰ろうかと思っていたが……まあ、二人分作っても別に構わないだろう。時間はあるんだし、もともと他人に料理を振る舞うことは好きだからだ。
「でも、ほまれさん、自分の家の方もあるんじゃ……」
「それなら大丈夫。もう家には連絡してあるからさ」
電車に乗っている間に、みやびにはメッセージアプリで連絡しておいた。すでにその時から、俺はみなとに彼女の家まで付き添う決心をしていた。心配の種になるようなことは、先に消しておくに限る。
俺がいなくても、みやびなら勝手にどこかで飯を買うなり食べてくるなりするだろう。
「あたしも何か手伝いましょうか……?」
「いや、大丈夫だよ。俺が勝手にやろうとしていることだから。なぎさちゃんはゆっくりしといて大丈夫だよ」
「……それじゃ、お言葉に甘えて」
そう言うと、なぎさちゃんは台所から離れた。
俺としては、手伝うと言って聞かないよりかは、『大丈夫』と言われたらスッと遠慮せずにいてくれた方がいい。だから、今のあっさりとしたなぎさちゃんの反応は、とてもありがたいものだった。
「さて、冷蔵庫を失礼します……と」
目の前には誰にもいないが、独り言のように口から出る。
レシピを考えながら、冷蔵庫の中を見て、あるものと足りないものを把握していく。
……必要なものはだいたい揃っている。足りないものはほんの一、二品だ。それだったら、手持ちの金でなんとかなるだろう。この近辺にはドラッグストア付きのスーパーがあるはずだ。ついでに経口補水液もそこで買えるかもしれない。
そうとなれば、さっさとやるべきことをやるまでだ。
「それじゃ、ちょっと俺、足りないものを買ってくるね」
「あ、はい!」
「あと、お母さんに連絡よろしくね。夕食が二回あるのはさすがに嫌でしょ?」
「そうですね〜。でも、普段のおねーちゃんなら喜んで食べそうですけどね〜」
「ははは、違いないね」
たぶん二食分でもぺろりと平らげそうだ。普段の彼女なら。
でも、今は病気の身。病状に見合った食事をすることが、回復への第一歩になる。
「なんだか申し訳ないです。ここまでしてもらって」
「いやいや、申し訳ないのは俺の方だよ。元はと言えば、こんなことになっちゃったのは、俺のせいなんだから……」
もうこの時点で、めっちゃお節介を焼いていると思うが、俺の気持ちとしてはまだ足りないくらいだ。
「それじゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃーい」
俺は足りないものを買いに、出発するのだった。
※
目が覚めた。
相変わらず体はだるいが、それでもさっきよりもかなり楽になっている。
私はゆっくりと体を起こす。いつの間にか額に貼られていた冷却シートが、ペロンと剥がれて布団の上に落ちた。
「あ、おねーちゃん起きた?」
「なぎさ……」
その時、部屋にマスクをしたなぎさが入ってきた。手にはお盆を持っている。その上から、いい匂いが漂ってきた。
「晩ご飯だよ〜」
「ありがとう」
ベッド脇の机の上にお盆を置く。その上にはお粥とスープ、そしてフルーツポンチが乗っていた。これがいい匂いの元だったのね……。
これを作ってくれたのは、おそらく彼。さらに言えば、まともに動けない私をここまで運んでくれたのも彼だ。この料理も彼が持ってきてくれてもなんら不思議ではないけど、実際に持ってきたのはなぎさ。とすれば、彼はもう……。
私はほとんど勘づいていたけど、一応なぎさに聞いてみる。
「……ほまれは?」
「ほまれさんは、もう帰っちゃったよ」
私は壁掛け時計を見る。時計の針は七時を示していた。
ほまれだって、そんなに暇ではない。彼には彼の帰るべき家があるし、それに一週間後にはテストも控えている。私の家に長居する道理は、彼にはない。
「そう……」
「それにしても、ほまれさんって本当にスゴいね〜。料理もできちゃうし、気配りもできるし……おねーちゃんのためにこの夕食も作ってくれたんだよ?」
やはり、ほまれが作ってくれたものらしい。普段、みやびちゃんのために料理をしている、って聞いていたから、当然料理の腕もそれなりのものだろうと思っていた。実際、私にはこの料理はとてもおいしそうに見える。
「あたしも夕ご飯ごちそうになっちゃった。めっちゃおいしかったよ〜! おねーちゃんもちゃんと食べてね!」
「うん」
なぎさにも料理を振る舞っていた、と聞いて少し驚いた。たぶん、なぎさが頼んだんでしょうけど……。
ふとお盆の隣に目を向けると、水筒の横に経口補水液が置いてあった。家には経口補水液なんてなかったはず……。思わず手に取って確かめる。
「あ、これほまれさんが近くのドラッグストアで買ってきてくれたんだよ〜」
私が寝ていた間に、彼はいろいろとやってくれたようだ。
ここで、一つ気になって、私はなぎさに尋ねる。
「ねえ、なぎさ。ほまれ、何か責任を感じているような顔してなかった?」
「してた……かな? あぁ、そういえばなんか『俺が原因でうんたらかんたら』とか言ってたよ〜」
「やっぱり……」
これで私は確信した。どうやら、ほまれは昨日のことで私に風邪をひかせてしまったのだと、責任を感じているらしい。
それでも、ほまれが私のためにいろんなことをしてくれたのは素直に嬉しかった。たとえ、それが責任感から来る埋め合わせにすぎないにしても。私の心に彼の温かさが沁みる。
最後に、なぎさは私に向かってこう畳みかけた。
「おねーちゃん、ほまれさんを絶対に放しちゃダメだからね! こんなに面倒見のいい人なんて他にいないよ! 一万に一人いるかいないかの超・優良物件だからね!」
どうやら、なぎさはほまれのことを、完全に気に入ってしまったようだった。