帰りのSHRが終わった直後、俺は真っ先にA組へ向かう。
A組はすでにSHRが終わっていたらしく、続々と教室から同級生たちが家路についたり、自習しに図書室へ向かったりしていた。後方のドアの脇で、その生徒たちの流れが途切れるのを待ってから、俺は教室の中に入る。
普段、A組にはほとんど行かない。それに、席替えをしたらしく、出席番号順の席順にはなっていないようだ。いったい、みなとの席はどこなんだ……?
だが、戸惑ったのは一瞬だった。教室の前の方で、席からゆっくり立ち上がる、よく見慣れた女子生徒が一人。間違いない、みなとだ。
俺は足早に近づいて後ろから声をかける。
「みなと……! 大丈夫?」
「ほまれ……私は、平気よ」
そんなことを言いながら、彼女はちょっとふらついた。
ダウトだ。絶対に平気なんかじゃない。顔はちょっと赤いし、若干呼吸も荒い。明らかに熱があって体調が悪い状態にある。
思い返せば、今朝から彼女はどこかおかしかった。
普段なら普通に声をかけてくるはずのみなとが、わざわざあんな低くて元気のなさそうな声をかけてくるか? あの時は、意趣返しだとか言われて思わず納得してしまったが……本当は、ただ単純に具合が悪かったのが声に表れていたのではないか?
他にもまだある。交差点のところでは、人に押されたわけでもないのに若干ふらついて、俺の足を踏んづけていた。ずっと声には元気がなかったし、言葉もハキハキしておらず絞り出すような感じだった。
それが明確に表れたのは今日の昼休み。いつもなら、みなとが俺のクラスに来てくれるのだが、それがいつまで経っても来ない。さすがにおかしいと思って、しばらくしてからA組に向かった。
だが、そこにもみなとの姿はなかった。そこで近くのA組の人に聞いたところ……。
「平気なわけないじゃないか……聞いたよ。昼休み、保健室にいたんだって?」
「……ちょっと、体調が悪かったから」
明らかにちょっとどころではない。ここにいるということは、今日の午後も授業を受けたということだろうけど……無理をせずに、昼休みの時点でさっさと家に帰っておいた方がよかったんじゃないかと思う。今更こんなことを言っても無駄だが。
「さて、帰らないと、ダメだわ……」
そう言いながら、フラフラと彼女は歩き出す。重そうに体を動かして歩いていく。
そして、数歩進んだところで、みなとは倒れそうになって、ガクリと膝をついた。そのまま床に倒れる。
「みなと……!」
マジかよ! 俺は急いで彼女のもとに駆け寄る。
「うぅ……」
まともな返事は返ってこない。返事をする気力すらないのか、もしかしたら意識が朦朧とし始めているのか……。
彼女の額に視線を合わせて視界を切り替える。三十八度一分。かなりの高熱だ。こんな熱じゃ、まともに動けないはずなのに……ずいぶん無理をして頑張っていたようだ。
今、俺は何をするべきか。決まっている。
俺はうつ伏せ状態のみなとの体勢を変えて、仰向けにすると、体を起こさせておんぶしようと試みる。だが、当然ながらみなとの力が入っていない状態では、俺の背中で彼女の体重を預かることはできない。
ええい、ままよ!
仕方がないので、俺はみなとの膝の下と背中の下に手を入れると、一息で持ち上げる。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
アンドロイドだからか、あるいは彼女の体重が軽いからか、持ち上げることを苦だとは思わなかった。
周りからの視線が痛い。そりゃ、お姫様抱っこなんて普段やらないし、そもそもやる人がいないし、小説や漫画の世界でしか出てこないようなものだから、当然だろう。だが、そんな周りの目を気にして恥ずかしがっている場合ではない。とにかく、早く運ばなければ。
俺はみなとを腕の上で安定させ、彼女の荷物をうまく回収すると、教室を出て階段を駆け下りる。保健室は同じ校舎の一階の真ん中くらいにある。廊下を行き交う生徒の間をすり抜けるようにして、俺は保健室まで駆けていった。
「そんな……嘘だろ……」
思わずそんな声が漏れた。
辿り着いた保健室、だがその扉には張り紙がしてあった。そして、その張り紙には、こう一言。
「『本日は放課後、不在です』……⁉︎」
ちくしょう! ツイてないな! いつもは部活動で怪我をする人がいるから、絶対に開いているはずなのだ。俺も何度かお世話になったことがある。
……いや、待てよ。今日からテスト期間に入ったから、部活動はすべて活動を休止している。ということは、それに伴って保健室も放課後は開いていない、ということなのか⁉︎
「……ほまれ」
「み、みなと!」
そんな想像を巡らせていたところ、みなとが目を覚ました。彼女は辺りをゆっくり見回すと、自分の状況を把握したらしい。ただでさえ赤い顔がもっと赤くなった。
「なっ……もしかして、お姫様抱っこ⁉︎」
「う、うん。そうだけど……」
「……おろして」
「で、でも……」
「大丈夫。自分で歩けるから、下ろしてちょうだい」
強い口調で言うので、俺は彼女を床に下ろす。立ち上がった彼女はまだちょっとフラついていたが、先ほどよりかはいくぶんマシになっているよう……な気もするし、そんなことはないような気もした。まだまだ予断を許さない状況だ。
みなとは自分の荷物を持つとボヤく。
「まったく……ちょっと熱が上がったかも」
「えぇ⁉︎ マジで? 余計ダメじゃん!」
「……誰のせいよ」
そのままスタスタと昇降口の方へ歩いていくので、俺は慌てて彼女を追いかけた。
ほとんどの人からしてみれば、みなとは一見大丈夫そうに見えるだろう。しかし、それは誤りだ。実際はかなり頑張って虚勢を張って、平然を装っているにすぎない。絶対につらいはずだ。
俺は何も言わずに、みなとの斜め後ろをついていく。みなとも何も言わない。
俺たちは、校門を抜け、朝通った通学路を逆に進み、最寄り駅から電車に乗り込む。
「ふぅ……」
ドサリと、みなとが席に腰掛ける。腰掛けるというよりは、全体重を預けているといった方が正確かもしれない。また熱が上がってきているのか、呼吸が若干荒くなり、汗が彼女の額に浮かんできた。
これは……少々マズいかもしれないな。
直感的にそう感じた俺は、自分のスマホを取り出してみやびにメッセージを送る。
ほどなくして電車が発車し、それからすぐに次の駅に着く。普段なら、ここで俺は電車を乗り換え、みなとは下車だ。俺たちは電車を降りて、一度改札のある階へと下りる。
ここから別のホームに移る階段を上ると、俺の普段の帰り道になる。次の電車は二分後の発車だ。すぐに階段を上れば間に合うだろう。
だが、今日、俺が行く場所は違う。
「それじゃ、また明日、学校でね……」
そう言って、みなとが改札を通り抜けた。
彼女はそのまま数歩進むが、後ろをついてくる足音に振り返る。
「ほまれ……こんなところで何やってるのよ……早くしないと電車が」
「電車なんて乗らないよ」
「……え?」
「こんな状態のみなとを一人で帰らせるかよ」
「私は大丈夫だから……」
「どう見ても大丈夫じゃないじゃん! フラフラじゃないか!」
病人をそのままにして自分の家に帰れるほど、俺の心は腐っちゃいない。それが自分の彼女だというのならなおさらだ。
しかも、昨日は自分が倒れて家まで送り届けてもらったのだ。雨の中、ずぶ濡れになって。そのせいで、彼女はこうして今苦しんでいる。
恩返しをするのも責任を取るのも、ここでやらないのならいったいいつやるというのだ!
「うっ……」
「──!」
慌てて駆け寄って、俺は倒れかかった彼女の体を支えた。そのまま、彼女を俺の背中へ、前のめりにもたれかからせる。
「おんぶするよ」
「……ん」
彼女が腕を、肩の上から回してくる。俺は少し屈んで、彼女の太ももの辺りに手を回して、ゆっくりと持ち上げた。この体はパワーだけはある。彼女の体は楽々と持ち上がった。
「それじゃ、行くぞ」
俺はみなとの返事を待たずに出発する。駅構内を早足で抜けると、北口から外に出る。
「私の家、わかる?」
「わかるよ」
みなとが俺の家を訪ねてくる頻度ほどではないけど、俺だってみなとの家くらい行ったことがある。まあ、行ったといっても数回だけど。だが、駅からの道筋はちゃんと覚えている。確か駅近のマンションだったはずだ。
歩くこと数分、俺の目の前にマンションが現れた。十一階建てのかなり高いマンションだ。記憶の中の、みなとが住んでいるマンションと一致している。俺はエントランスへ入っていった。
だが、ここで俺は壁に阻まれる。
これくらいのデカいマンションになると必ずついてくるセキュリティー。さて、なーんだ?
答えはこれ、オートロック!
部外者の侵入を防ぐために設置してあるものだ。
どうしよう、と思考が一瞬止まる。
「みなと……」
「バッグの外ポケット……クマさんのストラップ、ついてるから」
「了解」
俺は、みなとが手から吊り下げているバッグに目を向ける。あった。外ポケット、そのファスナーに、同じ特徴のものがくっついている。
俺は片手を外すと、バランスを取りながらバッグを受け取ると、オートロックのセンサーに鍵を翳した。ピピッ、という音とともに、ドアがスッと開く。こんな、おんぶを片手で支えながら鍵を開けるなんていう芸当は、バランス感覚の優れたアンドロイドでない限りできないだろう。
オートロックをくぐり抜けて、俺たちはエレベーターへ向かう。確か、みなとの家は九階だったはずだ。エレベーターが上から降りてくるまでの時間が、とても長く感じる。
ようやく降りてきたエレベーターに乗り込むと、俺は九階を押して閉ボタンを連打する。上昇とともに軽いGを感じる。
エレベーターを降りて、すぐそこの部屋が、みなとの家だ。
「誰かいる?」
「この時間なら、なぎさが帰っている……はず」
それを聞いて、俺はインターホンを鳴らした。頼む、一刻も早く出てくれ……。
数秒後、バタバタとドアの向こうから音がして、ガチャリとドアが解錠される音、続いてドアが若干耳障りな音を立てながら開く音。
ひょっこり顔を出したのは、みなとの妹のなぎさちゃんだった。みなとの言うとおり、もう帰ってきていたらしい。
「は〜い……ってほまれさん……ですよね?」
「こんにちは」
「お姉ちゃんは……」
「背中」
「え? えっ? えっ⁉︎」
なぎさちゃんはかなり戸惑っていたが、俺の背中のみなとがただならぬ状態であることを察したようで、すぐに俺たちを中へ招き入れてくれた。