「はっ!」
開口一番、その言葉が出た。
真っ先に視界に入ってきたのは白い壁。そしてフローリング。間違えるはずがない、ここは俺の家だ。
そして今、その廊下に、俺は背中を壁に預けてペタンとしりもちをついて座っていた。
床の上を黒いケーブルが這っている。その先を目で辿っていくと、廊下の端の方にあるコンセントに繋がっていた。ということは、どうやら俺は現在充電中らしい。
そもそも、なぜ俺がこうなったのか。それを考え始めると同時に、今から一時間半前の記憶が瞬時に思い浮かぶ。
……そうだ、俺はみなとと一緒に帰ろうとして、それから電池切れになって、強制シャットダウンしてしまったんだ。となると、動けない俺を、地球儀直撃事件の時みたいに、またみなとが俺の家まで送り届けてくれたのか? そうとしか考えられない。
それにしても、なんか太もも辺りに気持ち悪い感覚がするなぁ……。
横にだらんと弛緩していた手に力を入れて、床に触れる。
「うわっ!」
俺の周りがビシャビシャに濡れていた。
な、なんだこれ……というか、頭も服もスカートも全部濡れてるじゃん! お情け程度に充電ケーブルが繋がっているへその周辺はきちんと拭かれているみたいだけど……。全身が妙にひんやりしているのは、このせいだったのか!
外では相変わらず雨が降っているようだ。もし、みなとがここまで人力で運んできたんだとすると、俺を運ぶのに傘なんて差していられなかったのだろう。となると、みなともびしょ濡れになってしまっているのでは⁉︎
ここで、俺はようやく自分で自分の体を動かせていることに気づいた。ということは、もうAIの試運転は終わったということなのか⁉︎ 便利ではあったけど不便でもあったバックグラウンド生活も終了だ。ようやく自分の好きなように体を動かすことができる!
そんな束の間の喜びに浸っている間もなく、俺は思い出した。自分が電池切れになる前、いったい何を耐え忍んでいたのかを。授業後に毎回水を飲んで、許容量の限界近くまで溜め込んでいたがゆえに起こりそうだった出来事を。
それを意識した途端、急にきた。
「だああぁぁああ! トイレ行きてぇぇええええ!」
俺はへそから充電ケーブルを抜き取ると、超高速でトイレに駆け込んだ。
※
「ふぅ……」
トイレから出ると、ちょうどみやびと鉢合わせる。
「あっ、お兄ちゃん目が覚めたんだね」
「うん……もう試運転は終わったんだよね?」
「そうだよ。データもたくさん取れたから、大満足だよ! お疲れさま!」
その割には、電池が切れたり精神的にいろいろと大変な目に遭ったりしたけどね……。まぁ、みやびの研究がこれで少しでも進むのならいいのだけれど。
「AI、使ってみてどうだった?」
「そうだなぁ……便利なところもあるけど、不便なところもあるなぁ」
例えば、運動能力がとんでもなく向上したとか、計算がコンピューター並みにスゴく速くなったとか。例えば、人とのコミュニケーションが激減したりとか、電力の消費がものすごく激しいとか。
便利な面は思ったより便利だったし、不便な面は思ったより不便だった……かな。
「作ったばかりだからね……。まだまだ改善の余地はあるから、頑張らなきゃ」
みやびはあくまでポジティブだ。この調子で研究が進めば、もっといいものを開発してくれそうだ。
「さて、これから分析しないと〜」
目を輝かせながら階段を上っていこうとするみやびを、俺は慌てて呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って」
「どしたの?」
「あいつは……みなとはどうした? 俺をここまで運んできてくれたんだよね?」
「ああ、うん。そうだよ」
やっぱりな……みなとが運んできてくれたのか。地球儀事件の時といい、今回といい、わざわざ俺の家まで、こんな重たい俺の体を運んできてくれたなんて、本当に感謝以外の何物でもない。
俺の体がびしょ濡れになっているということは、みなとも少なからず濡れてしまっただろう。せっかく俺の家まで送り届けてくれたのなら、家でシャワーの一つでも浴びていってくれてもよかったと思うんだけど……。
「お兄ちゃんをおんぶして、雨の中びしょ濡れになってわざわざここまで送ってきてくれたんだよ? 後でちゃんとお礼言ってね」
「うん、もちろん。で、みなとは家でシャワーとか浴びていかなかったの?」
「それがね、お兄ちゃんを引き渡したらすぐ帰っちゃったの」
「……シャワーとか浴びていくようには?」
「言ったよ。だけど『着替えがないから』ってすぐそのまま帰っちゃった」
「そ、そっか……」
こうして家の中の廊下で話していても聞こえてくるほど、雨は強い。もし俺が電池切れになっていなければ、なにがなんでもシャワーを浴びるように勧めたんだけど……今更どうすることもできない。
心配なのは、雨に打たれたことで風邪を引いてしまわないか、ということだ。もう夏直前で、気温もずいぶん高い。しかし、学校からここまで、途中で電車を使っているとはいえ、濡れながら俺を運んできたのだから、体はかなり冷えてしまっているに違いない。
これで風邪になって休んでしまったら、とても申し訳ない気持ちになる。今は、みなとの体が丈夫であることを信じるしかない。
みやびは散らかった充電ケーブルを巻き取って片付けると、再び階上に行こうとする。だが、その足を自ら止めると、俺の方を向いて言う。
「そうそう、お兄ちゃん」
「ん?」
「後で濡れている廊下拭いといてね」
「あ、うん」
「あと、ワイシャツ透けてるから、さっさとお風呂に入って着替えちゃった方がいいよ」
「へ?」
慌てて、俺は洗面所の鏡の前に立つ。
鏡に映った俺は、雨で濡れたワイシャツが見事に透けて、下着が丸見えだった。
「なっ……!」
こ、これはエロい……。今まで、この格好で平然とみやびと話していたのかよ! そして想像以上に恥ずかしい……。
俺はその恥ずかしさを掻き消すように、ダッシュで自分の部屋まで着替えを取りに、みやびの後を追って階段を駆け上がる。
いろいろあったが、これでようやく、AIの試運転は終わったのだった。
※
翌日は、昨日雨が降っていたのが嘘だったかのように、久しぶりに朝からスッキリした晴天が広がっていた。
昨日はAIにすべてを任せていたので楽だったが、今日からはまた全部自分でこなさなければならない。自分で何事も自由にできることは大事なことだが、やはりちょっと面倒くさい。
ちなみに、みやびは昨日徹夜をしてAIの改良に励んでいたらしく、朝食を食べに下りにきた時には、目の下に黒いクマができていた。足取りもちょっとおぼつかない様子だった。
本当にこんな状態で中学校に行けるのかよ……。真にAIが必要なのは、俺ではなくみやびなんじゃないか、という気さえする。
俺はいつものように朝の電車に飛び乗って学校へ向かう。
もちろん、みやびのことは心配だが、同じくらいみなとのことも心配だ。
おそらくびしょ濡れで帰っただろうみなと。今日風邪を引いていなければいいのだけれど……。
学校の最寄り駅に着くと、俺は改札から学校方面に歩き始める。この時間帯であれば、いつもなら、この道すがらみなとの姿を見つけるのだが……。同じ制服が周りを取り囲む中、キョロキョロと辺りを見回して、彼女の姿を探す。
「お、おはようほまれ……」
「わっ! び、ビックリしたぁ……おはよう」
突如として後ろから幽霊のような低い声とともに、俺の肩にポンと手が置かれた。
飛び上がりそうになりながら振り返ると、そこにはみなとがいた。び、ビックリしたぁ……。今まで聞いたことがないほどの低い声だったから、マジで幽霊に祟られたのかと思った……。
「そ、そうだ、昨日はありがとう。俺を家まで運んでくれて」
「どういたしまして。もう、急に倒れちゃうんだから……驚かせないでよ」
「俺も今のでスゴく驚いたよ……」
「今のはお返しということで」
そういうことなのか……⁉︎ これは意趣返しだったのか⁉︎
それより俺が心配しなきゃいけないのは、みなとの体の方だ。
「みなとは大丈夫なの? 昨日の雨でびしょ濡れになったんじゃないの?」
「ああ……うん、まあ。でも大丈夫よ。全然大丈夫、だから」
「そ、そっか……ならいいけど」
見た感じはいつもどおりではある。幸い風邪は引いていないみたいだ。それなら本当によかった……。
俺たちは信号待ちのため立ち止まる。これ以上この話題を引きずりたくなかったので、俺は何か別の話題を探す。と、みなとが話を変えてきた。
「そ、それよりも来週のテストはどう? 今日でちょうど一週間前だけど、今回は大丈夫そうかしら?」
「うーん……まあまあかな。前回のテストで反省して、毎日一時間は必ずやるようにしているよ」
「偉いわね。それなら大丈夫そうね」
「みなとの方は?」
「私は……まあ、今回もいつもどおり、ってとこかしらね」
「そっか……もしかして学年トップテンに入るんじゃないの?」
「さぁ……どうかしらね」
信号が青になり、一斉に生徒が動き始める。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「大丈夫だよ」
みなとが少しよろけて俺の足を踏んづける。もちろん、みなとの体重が乗っかったくらいじゃ、俺の体はちっとも壊れないぜ! はっはっはー!
それにしても、何かが引っかかる……。なんだろう、なぜかわからないがスゴく嫌な予感がする。この感じ……推理小説を読んでいるときに、重要なヒントを見ているはずなのにそれが意識の外にあるような、とても奇妙な感覚がする。
そんな変な感覚を抱きながら、俺は彼女と一緒に昇降口から中に入る。
モヤモヤしながら下駄箱で上履きに履き替えていると、再度、みなとが風邪を引いているかもという心配が俺の頭をよぎる。
そうだ、念のためにみなとの体温を測定しておこう。
「みなと、ちょっとこっち向いて」
「どうしたのよ?」
俺が声をかけると、みなとがこちらを向く。その際に、俺は視界を『可視光』から『赤外線』に切り替える。
この前のアップデートで行われたのは、AIの搭載だけではない。これまで搭載されていたものの、解放されていなかった機能が一部、解放されたのだ。そのうちの一つがこれ、『視界の切り替え』だ。普通人間の目には、赤から紫までの可視光、つまり数百ナノメートルの波長の電磁波しか見えない。しかし、アンドロイドである俺には、それ以外の光を検知するセンサーがついていて、そのような光も『視える』のだ。
今確認できるだけで、『赤外線』、『紫外線』、『マイクロ波』、そしてデフォルトの『可視光線』の四つの種類の光を切り替えて視ることができる。ちなみに、『マイクロ波』を視えるようにすると、どっかの芸人がやっていた『Wi-Fiが飛んでる』みたいなことが本当にできるのだが、オンにした途端すんごい量の電波が見えて気持ち悪くなるので封印している。
閑話休題。『赤外線』をオンにすることで、俺の視界が全体的に緑だらけの変なものになる。まるでサーモグラフィーで見ているような……いや、実際、観測した赤外線を画像処理してサーモグラフィー的に表示しているのだ。
口ではみなとは『大丈夫』と言っているが、本当は全然大丈夫じゃないかもしれない。というわけで、風邪を本当に引いていないのかどうか、体温を測定しようとしているのだ。
どれどれ……みなとの体温は……。だいたい三十七度くらいか……うーん……これは平熱? それとも微熱?
「……ほまれ?」
俺がじっとしていることに不信感を抱いたような声が飛んでくる。慌てて視界を元に戻すと、俺は脱いだ靴を下駄箱に勢いよく押し込んだ。
「あ、うん! なんでもないよ! 行こう!」
「そう……」
みなとは、そこまで熱があるわけではないようだ。咳やくしゃみなどの症状もない。『健康』の範疇に収まるだろう。
でも、やっぱりなんか不安だな……。いったいなぜだろう。
モヤモヤは解消されないまま、俺たちはそれぞれの教室へ入っていく。
しかし、俺のその不安は的中していた。それが明らかになるのは、それから四時間後のことだった。
この日の昼休み、みなとは俺のところには来なかった。