チャイムが鳴り、六時間目の授業が終了した。
今日は午後から担任の斎藤先生が出張でいないので、帰りのSHRは自分たちでやるように言われている。普段から生徒側からは連絡することがほとんどないSHRだ。授業直後に学級委員が、連絡が何もないことを確認すると、一瞬でSHRは終了した。
『俺』は勉強道具をバッグにしまうと、席を立つ。今日は部活がないので真っ直ぐ帰宅だ。それに、他にも家へと急ぐ理由が俺にはある。
まず初めに、電池残量が少ない。
今回のアップデートでAIを入れた以外にも俺はこれまで以上に様々なデータを見られるようになった。そのうちの一つが、これまで自分のスマホでしか確認できなかった自分の電池残量だ。それが現在、残り十五パーセントを切ってしまっている。もしスマホだったら、充電するよう警告が出てくるだろう。
できるだけ電力を節約しようとしているとはいえ、やはり電力はたくさん使ってしまう。確か今のバッテリーは体育祭の前に取り替えた、より大容量のもののはずなんだけどな……。普段の俺なら、余裕で三週間は持つぞ。
また、俺は学校に充電ケーブルを持ってきていないのだ。いつもは家の押し入れの中にしまってある。電池が切れるまでに、さっさと帰らなければ……最悪、電池切れで動けなくなってしまう。
そして、もう一つ。重要な問題がある。
俺は……今すぐにトイレに行きたい!
AIは、俺の予想どおりというべきか、残念ながら一度もトイレに行かなかった。その一方で、授業終わりには欠かさず水分補給をし続けていた。
するとどうなるか。決まっている。トイレに行きたくなる!
俺が危惧していたとおり、六時間目あたりからかなりきつくなってきた。だが、タンクの容量的にはまだ余裕があるのか、『俺』は澄ました顔でずっと授業を受け続けていた。こっちはずっと限界に近い状態にかれこれ一時間近く晒されているというのに! 恨みさえ覚えてくる……。
とにかく、今はこの状態からさっさと解放されたい。そのためには、なるべく早くみやびに試運転を終わらせてもらわなければならない。
そういうわけで、俺にはいち早く家に帰らなければならなかった。
『俺』も、余計なことはせずに、さっさと帰るつもりのようだ。教室の喧騒を背中に、いち早く教室を出て下駄箱へと廊下を歩く。
だが、この学校の生徒は、そう簡単には俺を家に帰らせてくれないようだった。
「天野ほまれ、少し待て」
突然背後から聞こえる低く響き渡る声。どこかで聞いたことのある声だ。『俺』の足が止まり、そのまま振り返る。
そこに立っていたのは一人の男子生徒。面識はない……ことはなく、どこかで見た記憶があるな……。そうだ、確か俺がこの体になって最初に登校した時に勧誘してきた珠算部の部長じゃないか! 確か名前は野山と言っていたか。
「何ですか?」
「聞いたぞ、どうやらAIを搭載したらしい……とな」
あぁ、もうその話は学年中に広まっているんだ……。
「そうですが」
「時間があるなら、ぜひ珠算部に来てもらいたい。そして、今度こそ、フラッシュ暗算をやってもらいたい」
「わかりました」
『俺』は即答した。おいおい、いいのかよ! 途中で電池切れにはならないよな⁉︎ でも、フラッシュ暗算くらいならそんなに電力は使わないか……。とりあえず、AIパワーをいかんなく発揮して、さっさとフラッシュ暗算を終わらせて帰りたい。
部長についていき、珠算部の部室に到着すると、俺はモニターの前に座らされる。前に連れてこられた時と同じような行動をしていて、デジャブ感がスゴい。
「今から画面に数字が出てくるから、それをどんどん足していきその和を出してほしい」
「わかりました」
「それでは始めるぞ」
モニターの向こうで、部長がパソコンのマウスをクリックする音が聞こえた。次の瞬間からカウントダウンが始まり、モニターには『32』とでっかく現れた。そして、それがコンマ三秒ほど表示されると、『47』と次の数字が表示される。その次は『21』、次は『78』、『9』、『115』、『76』、『55』……。
そんなこんなで計百個の数字が表示された後、モニターが真っ暗になった。その向こうから部長が尋ねてくる。
「合計は?」
「8676」
『俺』は即答した。
「正解だ」
部長も即答した。
当然だ。なんたって、コンピューターにただの足し算をやらせているだけのだ。これで間違っていたら逆にヤバいだろう。
彼はガタンと椅子を鳴らして立ち上がると、ツカツカと歩み寄ってきて、俺の両手を握り、顔をズイっと近づけてまくし立てる。
「どうだろうか、ぜひ君には我々と一緒に、珠算部の大会に出てもらいたい! この部活に入ってもらわなくても構わない、今度の九月の大会にだけでも出てほしい! これなら優勝も」
「たのもーーーーーーう!」
次の瞬間、ズダアアァァアン! と壊れんばかりに勢いよく扉が開く音と同時に、それと同じくらい威勢のよい女子生徒の声が聞こえた。これまた聞き覚えがある。俺たちは同時に顔をそちらに向けた。
先に反応したのは、珠算部部長の方だった。
「なっ……山内⁉︎」
「お! やっぱりここにいた! というわけで、ちょっとこの子借りてくね〜」
その女子生徒……室内遊戯部部長の山内は、呆気に取られている彼を前に、俺の腕を掴むと、そのまま半ば強引にズルズルと引きずっていく。
「ま、待て! まだ話は終わって……」
「ダメだよ〜野山くん。どうせこの子を使って、地区大会に出ようとしてるんでしょ?」
「う……」
「言っとくけどね、この子にフラッシュ暗算させるのは、コンピューターに計算をさせるようなもんだからね! いわゆる……そう、チートだよ! チート! ダメだよ! そんなことしちゃ!」
山内の言うことは正論だ。確かに、『俺』が大会に出てしまったら、それこそただのズルだ。そのことは承知していたようで、野山は反論に窮している。
「うぐぐ……そういう君も、天野を使って大会に」
「ちがーう! あたしはただのリベンジマッチ! そもそも部員が足りなくて大会には出られないから! そんじゃ!」
山内はそう言って強引に話を打ち切ると、俺を連れてダッシュで珠算部から脱出した。
そして、そのまま階段を二階分上がると、あっという間に『室内遊戯部』に到着する。結構な体重のある俺を、かなりの力で引っ張っているにもかかわらず、全然疲れているような様子が見えない。相変わらずの力強さだ。
部室の中には、この前と同じように真ん中に机があり、そこに将棋盤が置いてあった。この前とは違い、今度はあらかじめめ駒が綺麗に並べられている。
山内は、俺を手前の席に座らせると、奥の席に勢いよく腰掛けた。そして、ニコニコしながら俺に問いかける。
「聞いたよ〜、確かAIをアップグレードしたんだっけ?」
「違いま」
「スゴいよね! ディープラーニング? の成果なんだよね!」
「そんなことしてま」
「それじゃ、将棋、しよっか!」
ダメだ……人の話を聞かない性格は相変わらずのようだ、『俺』も返答を遮られて困っているようだ。
「ルールは一手二十秒の早指し! 先手はそっちでいいよ!」
「……わかりました」
しばらく、静かな空間に、パチン、パチンと駒が盤を打つ音だけが響く。
『俺』は、相手が打ち終わった瞬間に、手を動かして次の一手を繰り出していく。将棋初心者の俺には、この駒を動かすことで何が起きるのかさっぱりわからないが、AIにはきっと勝利への道筋がはっきり見えている……のだろう。
局面がどんどん進んでいくにつれて、徐々に山内が使う持ち時間が長くなり、二十秒いっぱいを使うようになっていく。表情も険しくなっている。考え込むことが多くなっていく。
そして、開始からちょうど十五分。歩を進めると同時に、『俺』は宣言した。
「王手」
「なにっ⁉︎」
慌てて盤面を見渡す山内。そして、頭を抱えて十秒うーんと唸り、その後ガックリと肩を落とした。
「……負けました」
す、すげぇぇええ! なんかよくわからないけど、将棋で勝ってしまったぞ! 山内はずいぶん手練れのはずだが、それに易々と勝ってしまうなんて……さすがAIだ。
「それでは、私は帰ります」
「うん……今度はチェスで勝負しよう!」
また勝負するのかよ! 今度はチェスかい! チェスとか将棋よりルール知らんぞ!
と、とにかく、今はさっさと帰らなければ……。
俺は室内遊戯部の部室を出る。いつの間にか、廊下の窓からは、雨が降っているのが見えた。天気予報では降水確率は四十パーセントくらいだったはずだが……。まあ、折り畳み傘がバッグの中に入っているはずだから、なんとかなるだろう。
そんなことを考えていると、またしても後ろから声がかけられた。
「あの、天野ほまれさん」
その声に、俺の体は飛び跳ねそうになった。実際は飛び跳ねてないし、そもそもこの体は今は動かせない。しかし、間違いなく動揺した。
なぜか。それは、俺がこの学校で出会いたくない生徒ランキング・第一位に、運悪く声をかけられてしまったからだ。
『俺』は足を止める。その間にも、背後からその声は続く。
「噂は聞きました。AIを搭載したんですよね?」
「…………」
「そのAI、どのようにしてその体を動かしているのか、そしてどのようなことができるのか……とても興味があります」
「…………」
「なので、ぜひ、ぜひ! ロボ研であなたを分解させてください!」
それを聞いた瞬間、『俺』は振り返ることなく、廊下を猛ダッシュで逃げ出した。
これまでとは違い、なぜか一言も返さなかった。俺のトラウマが影響しているのか、はたまた、鳴門がヤバい人物だとAIに判断される根拠があったのか、俺にはわからないが、いずれにせよ幸運なことだった。
もちろん、AIが操っているので、『俺』の足はものすごく早い。鳴門の声がみるみる後ろへ、後ろへと遠ざかっていく。
「待ってくださ〜い……、あなたを、分、解、させて、くださ〜い!」
お断りだー! と、もし俺がここで体を操っていたら叫んでいたことだろう。
そのまま全力で疾走すること数十メートル。階段を上り下りして昇降口まで辿り着くと、『俺』は足を緩めた。鳴門の声は聞こえてこない。どうやら撒くことには成功したようだ。
さて、これでようやく家に帰れるぞ! 『俺』は下駄箱から自分の靴を取り出すと、上履きからそれに履き替える。外に出ると、雨はかなり激しく降っていた。軒先で『俺』はバッグから折り畳み傘を取り出して差す。
「あれ、ほまれじゃない」
すると、後ろからまた声がかけられる。振り返ると、そこにはみなとの姿。どうやらちょうど帰るところだったらしい。
みなとは俺の隣に並ぶと、空を見上げる。
「あら……雨が降っているのね。どうしよう、傘持ってきてないわ……」
雨が降っているのに気がついていなかったようだ。だが、隣には折り畳み傘を持った俺、そして、このセリフである。もはや、わざとやっているんじゃないかと疑うレベルだ。
もちろん、ここでやるべき行動は一つだ! AI! わかってるだろうな!
その思いが通じたのか、『俺』は開いた折り畳み傘を彼女の方に傾ける。
「一緒に入りましょう」
「あら、ありがとうほまれ!」
よし! よくわかってるじゃないかAI! このまま一緒に帰れば万事OKだ!
俺たちは歩調を合わせて一歩、外に踏み出す。開いた折り畳み傘に雨粒が当たる。
その瞬間だった。
ガクン、と体が右に傾いた。急に右足の踏ん張りが効かなくなり、脱力する。そのわずかコンマ数秒後に、左足にも同様の現象が襲いかかる。
足だけではない。体もそうだ。全身から力が抜けていく。傘が傾いて、逆さまになって地面に落ちる。
「ほまれ……?」
みなとが俺のそばで不思議そうな声をあげる。
この奇妙な感覚。俺はこれに覚えがあった。それに、同時に納得もしていた。
ついに来てしまった。これが起こってしまうおそれがあったから、本当は早く帰らなくてはならなかったんだけど……。今こんなことを思っても、後の祭りだ。
『俺』は無機質な声で宣言する。
「電池切れです。強制シャットダウンを行います」
そして、俺の意識は、張り詰めた糸が切れるかのごとく、プツンとなくなった。