校庭で体育の授業が始まる。
この前まではテニスだったが、それは前々回の授業で終わった。前回からしばらくの間は、陸上競技をやるらしい。なぜこんな梅雨の時期に、しかも蒸し暑い時期に陸上をやるのだろう。暑くなる前の五月とか、夏が過ぎて気温が下がる十月くらいにやればいいのに。
……なんて文句を学校に言っても、今更カリキュラムを変えられるわけではないんだけどね。
今回は二百メートル走の計測を行う。二百メートルというと、校庭のトラック一周分だ。短いようで結構長い。普通の人ならだいたい三十秒くらいかかる。もし俺だったら、一回全力で走っただけで体が熱くなってしまいそうだ。
だが、それは俺が走ったらの話。今はAIがこの体を支配している。以前、みやびは、俺が自分の体を十分に使いこなせておらず、理論上は五十メートル四秒台が可能だ、と話していた。今までの俺だったら絶対に無理だったが、AIが支配している今なら、それまでとはいかなくても、それに近いスピードで走ることができるかもしれない。
今日のメニューはそれだけではない。同時に、ジャベリックスローという槍投げのミニバージョンみたいな競技の計測を行う。俺は今まで十メートルくらいしか飛ばせなかったが、これも好記録が期待できるぞ!
先生の説明が終わると、準備運動をして、俺たちのクラスはトラックの円周部分に集まる。体育は二クラス合同なのだが、もう一方のD組は、この時間を使ってトラック内部でジャベリックスローの練習をしている。
スタートダッシュの練習をしているクラスメイトの脇に佇んでいると、隣に飯山がやって来た。
「ほまれちゃん、ちょっと速くなるんじゃない?」
「推定で、これまでの自己ベストよりも四十パーセントほど速くなります」
「そ、そんなに⁉︎」
それはこっちのセリフだ! 速くなれるとは思っていたけど、そこまで速くなれるものなのか⁉︎ 同じ体で同じ機能のはずなんだけどな……。
「AIに代わったくらいでそんなに速くなれるの? ホントかなぁー」
すると、疑問符を投げかけながら檜山がやって来た。すでに何回かスタートダッシュの練習をしたからか、若干息が荒い。
「速くなります」
「えー、逆に遅くなるんじゃない? 胸も若干大きくなったんだし」
「そんなことはありません」
なおも疑わしそうに檜山が俺のことを見る。まあ、そう思いたくなる気持ちはよくわかる。中身が代わったといえ、外面はほとんど何も変わっていないのだから。
「ほまれちゃんは走らないの?」
「私にはその必要はありません」
「よ、余裕だね……」
やろうと思えばいつでもベストな走りができる、ということなのだろうか?
突っ立ったまま皆の練習風景を見ること数分。先生がこちらにやってきて、計測が始まる。
計測は出席番号順で、二人ずつ行われる。当然、『あ』から始まる『天野』は一番でだ。俺は先生に名前を呼ばれてスタートラインに立つ。前に見える、一つ外側のレーンのスタートラインには、出席番号で俺の一つ後ろの飯山の姿があった。
「位置について、よーい……」
ピッ、と笛が鳴った瞬間、俺の脚が動き始めた。地面が乾いているせいか、ズルっと滑りかけるが、それに動揺する様子もなく、もう片方の足を前へ持っていく。
急激にピッチが上がっていく。加速がものすごい。風圧でポニーテールが後ろに靡く。
スタートの位置の関係上、スタートの直後からカーブに入る。そのカーブを半分過ぎるか過ぎないか、というところで、俺は飯山を抜き去った。確か、飯山は体育祭の時に五十メートル七秒台、と言っていたはずだ。女子の中でも相当速いだろう。そんな彼女を抜き去ってなお、俺は加速して直線に入る。
ものすごい速さで走っているはずなのに、まったくスピードが衰えないし、衰える気配もない。ただ風を切って真っ直ぐ進んでいく。
これ、もしかしたら人間だった頃の俺よりも速いんじゃないか……?
体がとても自然に動いている。まったく無駄なく、すべての力がとにかく速く走るためだけに費やされているように感じる。スピードに乗る、というのはこういうことなのかもしれない。
直線が終わり、カーブに入る。体育祭の時、リレーでみなとと張り合ったのと同じコースだ。今の俺なら、すでに百メートルを走ってきた、というハンデを背負っていたとしても、みなとに容易く勝つことができるだろう。
そのままカーブを曲がりきると、スピードを落とすことなく俺はゴールラインを踏んだ。数歩惰性で進んで、そのままコースアウトする。
その数秒後に、飯山がゴールラインを超えた。
さて、タイムはいかほどだろうか……?
「天野……二十四秒ジャスト」
二十四秒⁉︎ マジで⁉︎ 俺が人間だった頃よりも圧倒的に速いじゃねぇか! サラッとスゴいタイムを出してきたぞ……。それは、他の人も感じたようで、これを聞いた周りの女子がざわめく。
この体に本当にこんなポテンシャルがあったとは……。しかも、どうやら『俺』は全力で走っていないらしく、余力を残しているみたいだ。実は、今まで『理論上は四秒台が可能』というみやびの言葉をまだ少し疑っていたのだが、これでまだ本気を出していないのならば、本当に五十メートルで四秒台が出るかもしれないな……。
「ほ、ほまれちゃん速すぎ……」
飯山がゼーゼー言いながら、俺の隣でへたりこんだ。ちなみに彼女のタイムは二十九秒前半。女子にしては十分速い方なのだが……。
「こ、これは負けてられませんね……陸上部として……」
そう言いながら、俺の隣に来たのは越智。もし、俺がAIの試運転をしていなければ、間違いなくこのクラスで最速タイムを叩き出していただろう人物だ。そんな彼女は、不敵な笑みを浮かべようとして、微妙に笑えていない顔をしている。口角が上がったままピクピクと引き攣っている。
「越智! タイムを計るよ!」
「は、はい」
先生に名前を呼ばれ、越智は慌ててスタートラインにつく。そして、先生の合図でスタートを切った。
さすが陸上部、スタートを切ったそばからぐんぐん加速していく。走るフォームもスゴく綺麗だ。普段なら電力消費を抑えるために、周囲で何があってもじっと視線さえ動かさない『俺』だが、このときばかりは興味があったのか、走っている越智を目で追っていた。
ぐるっとトラックを一周して、ゴールラインを通り越す。
「越智……二十四秒六七」
タイムが読み上げられる。俺よりコンマ七秒ほど遅いが、それでも十分すぎるほど速い。
「くっ……はぁ、はぁ……負けました……速すぎます……」
走り終えた越智は、数歩地面を踏んで、そのままレーンの外に出るとへたり込んだ。さっきの一本は、本気の本気で走ったんだな。
その様子を見て、本気で速さを追求している人に対して、俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。AIに疲れを知らない機械の体とか……チートもいいところだ。
二百メートルの計測が終わると、D組と入れ替わるようにして、俺たちはトラックの内側に入る。これから今度は、ジャベリックスローの計測が始まるのだ。
ジャベリックスローなんて、この体育の授業があるまでまったく聞いたことがない競技だった。それもそのはず、テレビでも新聞でも日常生活の会話でも、この競技が話題に上がったことは皆無だったのだから。
俺は他のクラスメイトと同じように、カゴの中からターボジャブを一つ手に取る。それは、長さ約七十センチで、小さな槍のような形をしている。だが、槍と違うのは、プラスチックでできているところ、先端が柔らかいゴムでできているところ、そして、後ろ側には尾翼のようなものがついているところだ。
これをできるだけ遠くへぶん投げて、その飛距離を競うのが、ジャベリックスローという競技である。
すぐに計測が始まるわけではない。練習タイムが設けられていて、ターボジャブを手に取った人から試し投げを始めている。
すると、『俺』は投げる準備を始める。今度は本番まで傍観、みたいなことはせず、ちゃんと練習をするようだ。
「お、今度はちゃんと投げるんだ」
「はい。データが足りないので、集めなければいけません」
「なるほど……つまり、緻密な計算の上で、最大飛距離を叩き出す、ってことだな!」
檜山がふふっ、とカッコつけて笑う。AIはそれを狙って練習しているのだろう。彼女の言っていることは外れていないようだ。
並んでいると、前の人が投げてターボジャブを回収し終わる。いよいよ順番が回ってきた。周りの人が続々と投げ始めるのに合わせて、『俺』は体を捻って勢いをつけ、地面に対して斜め四十五度方向に飛ばす。
「おお……」
空中に飛んだターボジャブは、初め、進行方向に対して真っ直ぐ体勢を保ったまま遠くなっていく。だが、途中で先端が進行方向から真横に九十度の方向を向き、勢いを失ってそのまま地面に落ちていった。風に煽られたのか、投げ方に問題があったのか、俺にはよくわからなかった。『俺』は、失速して地面に落ちていくターボジャブをただじっと見つめていた。
それでも、二十五メートルは飛んでいる。これまでの最高記録である十メートルに比べればものすごい進歩だ。
地面に落ちたターボジャブを拾って戻ると、飯山が興奮した様子で話しかけてくる。
「ほまれちゃんスゴいね! 二十メートルくらい飛んでなかった⁉︎」
「二十五メートル八十七センチです」
「これで、記録大幅更新だね!」
「いえ、まだまだ伸ばせます」
「まだいけるの⁉︎」
もしあれが、途中で横を向かずにそのまま真っ直ぐ飛んでいたら、もっと飛距離を伸ばしていた。AIはそういうことを言っているのだろう。
しばらくすると、先生がこっちに来て、本番が始まる。五人一気に計測だ。俺たちは白線の数歩後ろに並んで構える。
「投げていいぞー」
先生の声で、計測が始まる。
俺の体はすぐには動かない。そうこうしているうちに他の四人が投げ終わる。それから、ようやく動き始めた。
数歩ステップを踏んで、軽く勢いをつける。腕は後ろに曲げて、グリップをしっかり握る。そして、体を大きく捻り、白線の手前ギリギリを踏み締める。
その瞬間、体を捻って溜めたエネルギーを一気に解放し、同時に腕を伸ばしてさらに加速を付与する。角度は四十五度より少し浅めの四十三度。投げる方向とターボジャブの向く方向を完全に一致させて、『俺』は力の限りぶん投げた。
ヒュン! と風を切る音とともに、どんどん遠ざかっていくターボジャブ。それは綺麗な放物線を描きながら、バランスを崩すことなくどんどん遠ざかり……。トラックの白線を越え、校庭と学校の敷地外を区切る防球フェンスにカツンと当たって落ちた。
推定飛距離、六十五メートルオーバー。予想だにしなかった数字に、俺は呆然とする。当然ながら、周りの女子も呆然としていた。先生もバインダーを持ったまま固まっている。
ただ『俺』だけが、この雰囲気に乗らずに、いつもの無表情で自分の飛ばしたターボジャブを取りに歩き出した。
AI、恐るべし……。