俺が再び目を覚ましたのは、気を失ってから一時間後のことだった。
目を覚ました直後、みやびが慌てて俺の顔を覗き込んでくる。
「お兄ちゃん大丈夫⁉︎」
「う、うん……たぶん」
気を失うまでずっと続いていたクラクラ感が嘘のように消えていた。あれだけあった熱も消えているし、呼吸──俺の場合は排熱だが、それも落ち着いていた。さっきまであった数値やらバーやらは、俺の視界からは消えている。
みやびは、俺が落ち着いているのを見て、ほっと安堵の息をついた。
「よかった……異常はないみたいだね」
「うん……みやび、俺の中のAIはどうなったの?」
それよりも気になるのはアップデートの時に入れたというAIだ。結局、俺がキャパオーバーで気絶してしまったから抜いたのか、それともまだ残っているのか。
「AI自体はまだ残ってるよ。ただ、今のままじゃ厳しかったから、かなりダウングレードしたよ」
「そうなのか……」
「あ、いや、お兄ちゃんのコンピューターがダメとかそういうのじゃないからね! 処理速度とかスーパーコンピューターに匹敵するくらいスゴいんだよ! だけど、私がAIに大量の機能を実装しちゃったから……」
みやびが慌てて俺をフォローする文句を並べ立てる。どうやらさっきの言葉で、俺が落ち込んでいると感じたようだ。別に落ち込んでなんかいないけどね。
それよりも、俺の意識を完全にシミュレートできるほど高性能な電子頭脳が処理しききないAIってどんだけ高機能なんだよ! そして、それを作ってしまう我が妹の頭脳も恐ろしい。
止まらないみやびのフォローは聞き飽きたので、俺はそれを遮って、このアップデートにおける一番大切なことを尋ねる。
「で、結局当初の目的は達成できたの?」
「当初の目的?」
みやびは首を傾げた。おいおい、そこ一番忘れちゃダメなところでしょ! 少し呆れながらも、俺は以前みやびが言っていたことを説明する。
「そもそも、このAIっていうのは、俺が何かの拍子に意識を失った時に対応するためのものなんでしょ? ダウングレードしたって言っていたけど、はたして対応できるのか? っていう話」
「ああ! うん、もちろんだよ!」
本当か……? かなり怪しいが、もともと高性能なAIなのだから、いくらかダウングレードしても、自動で物事に対処できるようなAIに違いない。うん、きっとそうだ。俺はそう信じることにした。
「ならいいよ。……もうベッドから立ち上がっていい?」
「うん」
みやびが俺のへそからケーブルを引っこ抜く。今度こそ、アップデートは終わった。俺はベッドから立ち上がり、めくれ上がっていた服を元に戻す。
すると、みやびがバッグにノートパソコンを詰め込みながら、こんなことを言ってきた。
「つきましては、お兄ちゃんにお願いがあるのですが」
「なんだよ急に……」
いつものみやびならこんな口調ではお願いしてこない。きっと、何かとんでもないことをお願いしようとしているぞ……。思わず身構える。
みやびが口を開いた。
「あのね……AIの試運転をさせてほしいの」
「試運転?」
試運転って、さっき起動途中で失敗したじゃないか! また同じことをするのか? もちろん、できる限り協力はしてやりたいが、あまり気が進まないな……。
ただ、かなりダウングレードをしたそうだから、さっきみたいに起動したら処理の負荷で気絶する、なんてことは起こらないはずだ。むしろ、気絶しないように機能を落としたのだから、そんなことは起こってはいけない。
「……具体的に試運転って何をするの?」
「お兄ちゃんに搭載したAIだけを使って、一日生活してもらうの」
「……そんなことできるの?」
「それを確かめるためにやるんだよ」
ずいぶんぶっ飛んだことをやるなぁ……。AIだけで日常生活を送るのって、相当厳しいと思う。一日の間に、多種多様な動作が必要になるから、いくら天才のみやびが作った高性能AIだからといって、すべてをこなすのは厳しいんじゃないだろうか。
「で、いつやるの?」
「明後日」
「明後日か……ってえぇ⁉︎ 明後日って、俺学校だけど!」
「だから、体をAIに委ねて学校生活を送ってもらうの」
「マジかよ……」
越えようとしていたハードルは予想以上に高かった。AIが学校生活を送るだなんて前代未聞だ。そもそも、なんでも知っているAIなら、学校という教育機関にわざわざ行く意味はないような気が……。
「お兄ちゃん、協力してくれる?」
「いや、えぇ……正直、ものすごく不安なんだけど」
「心配しなくても大丈夫だよ! もうお兄ちゃんの学校の先生には話を通してあるから!」
「根回し早すぎ!」
そういう問題じゃないんだけどさ……。それにしても、まだ中学生にすぎないみやびが、なぜ俺の高校の教師陣と繋がっているのか……そっちの方がむしろ気になる。
「で、お兄ちゃん引き受けてくれるよね! うん! よかったー引き受けてくれるんだー安心したなー」
ついにみやびは一人芝居を始めて、架空の俺が約束を了承したことになってしまった。
みやびにここまでさせるのだから、この試運転はよっぽどやりたいことなのだろう。俺が拒絶してもあまり意味のないことに思えてきた。結局、この体をいじることができるのはみやびしかいないのだから、たとえ週末を承諾せず過ごしたとしても、月曜朝に起きたらいつの間にかAIの試運転が始まっている……なんてことになりそうだ。
それに、この試運転は、最終的には俺のためにもなることだ。もし学校でアクシデントがあって気絶したときにきちんと過ごせるかどうか。今のところ、学校で過ごす時間が一番長いのだから、アクシデントは学校で起こる可能性が一番高い。そこでうまく対処できなかったら、今回のアップグレードは意味がないだろう。
仕方ない、と俺は渋るのを諦めた。
「はぁ……しょうがないな……やるよ」
「え? ホントに⁉︎ ありがとーお兄ちゃん! ああーこれでデータが思う存分集まる!」
俺が了承した途端に元気になるみやび。そんなに嬉しいのか……。とても中学生とは思えない研究者精神だった。
部屋を出て廊下を歩くと、片側の壁がガラス張りになる。覗き込むと、自分の姿がうっすらと光の反射で映っていた。
パッと見、ほとんど人間と変わらない挙動をしているが、明後日はこの体をAIが操ることになるのだ。いったいどうなってしまうのだろう……と、俺は不安を抑えられないのだった。
※
朝六時。目覚ましが鳴らなくても、俺の意識は勝手に醒める。この時刻に起きることが習慣になっていて、体に染みついているからだ。いや、アンドロイドになってもこの習慣が続いているということは、実は体ではなく意識に染みついているのかもしれない。
早速俺は身を起こそうとするが、その意志に反して俺の体はピクリとも動かない。何かに押さえつけられている感触はないのだが……まるで体は睡眠中のままであるかのようだ。それに、辺りを見ようとするもそもそも瞼が開かない。それだけではなく、全身に力が入らない。それでいて感覚だけはやけにはっきりしているから、気味が悪い。
そんなことを思っていたら、勝手に瞼が開いた。そして、一気に上体を起こす。
よ、よかったぁ……と安心したのも束の間、そこから体が動かない。そして、俺の意思に反して勝手に手足が動いて、ベッドから立ち上がる。
な、なんだこれ……自分の体のはずなのに、自分の意思で動かせない……⁉︎ どうなっているんだ⁉︎
俺は混乱する。だが、一昨日の出来事を思い出したら、すぐに合点がいった。
そうだ、確か今日はAIの試運転をするんだっけ……。ということは、今俺の体は、搭載されているAIが支配しているのか。どうりで、体が自分の意思で動かせないわけだ。
AIが俺の体を操っている間、俺の意識はバックグラウンドで保たれている。さらに、自分の体の五感ともそのまま繋がっているし、AIがどういう行動をしようとしているのかも知ることができる。まるで、人に憑依して中身を覗く霊魂になった気分だ。
AIが稼働している間、俺は基本的に体に干渉することはできない。だが、万が一緊急事態が起こったときのみ、あらかじめみやびが決めたワードを強く念じれば、AIが緊急停止し、代わりに俺が体を動かせるようになる……らしい。
念じる、なんてかなり曖昧な方法だと思うのだが、本当にそれで止まるのか、少々不安ではある。そもそも、その言葉が必要になる場面が来ないことが一番ではあるけど。
階段を下りると、早速、『俺』は髪を結ぶ。俺はいつもツインテールにしているのだが、『俺』は手際よく髪をポニーテールにしていく。たぶん、行動するときに最も邪魔になりにくい髪型だからだろう。
洗面所の鏡に俺の姿が映る。一瞬鏡の中の人物が誰だかわからず、一拍置いてから自分だと理解する。
髪型を変えるだけでこんなに雰囲気が変わるのか、俺。いつもツインテールにしているけど、こっちもなかなかいいぞ……。むしろ、こっちの方が可愛いかもしれない!
今は『無』の表情だが、もしニコッと笑ったら破壊力は抜群だろう。
次に向かうのは台所。みやびのために朝食を作るのだ。
『俺』は台所中を忙しなく動き回る。驚くべきことに、複数の料理を同時並行で作っているのだ。AIだからこそなせる業である。もし俺がやろうとしたら、間違いなく混乱して一品はダメにしてしまう気がする。さらに、同時並行なのにもかかわらず、手順も量も正確そのものだ。しかも、俺が作ったものよりもおいしそう。
こうして、普段は三十分はかかるところを、徹底的な無駄の削減と効率化により、わずか十五分で朝食の準備を終える。さすがはAIだ。
みやびはまだ起きてこない。飯を食べる必要のない俺は、その間に制服に着替えて、学校に行く支度を済ませる。時刻はまだ七時前。これだけ早く朝食の準備ができるなら、朝はAIに任せた方がいいかもしれない。
七時前に、みやびが階段を下りてくる。
「お兄ちゃんおはよ〜」
「おはようございます」
しゃ、喋ったあああああああ! いや、喋るのは当然だと思うけど……。自分でもビックリするくらい抑揚のない声だ。声質は同じはずなのに、全然印象が違う。
いつもと違う様子に、みやびは最初キョトンとしていたが、すぐに試運転のことを思い出したようだ。
「あぁ……今日は試運転の日だっけ。って、もう朝ご飯できてるの⁉︎」
俺もビックリだよ! こんなに早くできるなんて。
「それじゃ、いただきます……」
みやびが席に着いて、朝食を食べ始める。はたして、AIが作った料理のお味はいかがでしょうか……。
みやびが俯いて口だけを動かす。も、もしかして口に合わなかったのか……?
「お、おいしい……」
みやびがポツリと感想を漏らした。
よ、よかったぁ……ダメだったらどうしようかと思った。俺が作ったものではないけれど、めっちゃハラハラしたぞ……。
あっという間に、みやびは朝食を完食した。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
今日は、食器は食洗機を使って洗うようなので、学校に出発するまでの時間、俺は特にやることがない。
何もすることがないとき、本当にAIは何もしないようだ。ピクリとも動かず、何も言わずに座る。小刻みに揺れることもなく、瞬きすらもしない。
そんな俺にみやびが近づいてきて、向かいの席に座る。俺の様子を観察して、独り言。
「……スリープモードに入っているんだね」
スリープモードに入っているのかコレ! 動かないんじゃなくて、単純に電力を節約しているのか! 言われてみれば、確かにさっきからAIがまったく活動していない。合理性を追求するAIならではだなぁ……。
そんなこんなで十五分。そろそろ家を出発する時刻だ、という時に、再び俺の体は動き始める。電車が来る時刻から逆算して、ちょうどこの時刻に出れば間に合うと判断したのだろう。
「行ってきます」
「お兄ちゃん、行ってらっしゃーい!」
俺の一日AI学校生活が、始まろうとしていた。