メガネ生活が始まって数日が経過した。
体育の件でヒヤッとしたものの、その後は幸いなことにメガネにダメージを与えるような出来事は起こらなかった。だが、ちょっと歪んでしまったメガネを使い続けることには抵抗が大きく、さっさと目を修理してほしい、という気持ちが日増しになっていた。
そんな中、俺の願いが届いたかのような知らせが舞い降りた。
「お兄ちゃん、修理の日程決まったよ!」
「マジで⁉︎」
驚きのあまり、メガネがずり落ちそうになった。フレームが若干歪んでいるので、ちょっと動いただけですぐにメガネが飛んでいきそうになるのだ。俺は慌ててメガネを鼻のところまで押し戻す。
俺の思考を読んだかのように都合よく修理の日程が決まったな。いや、俺の体は実質みやびに管理されているんだから、俺の思考を読み取ることくらい、彼女にとっては造作もないことなのかもしれない。
何にせよ、修理の日程が決まったことが、俺にとって喜ばしいことに違いはない。
「それで、いつになったの?」
「明日だよ!」
「あした⁉︎」
いくらなんでも突然すぎないか⁉︎ 部品の調達に時間がかかる、みたいなことを言っていたし、俺は精密機械の塊のようなものだから、てっきりもっと時間がかかるのだろうなぁ、と勝手に思っていたのだが……。
ちなみに今日は金曜日。メガネ生活に入ってからまだ四日目だ。修理がある明日というのは土曜日。メガネを作ったはいいものの、たったの五日でお役御免となってしまうのだ。結構お金がかかったからもったいないような気もする。
「あれ? お兄ちゃん、早く修理してほしかったんじゃなかったっけ?」
「そ、そうだけど……いくらなんでも急すぎないか?」
「できるだけ早く、って言ったからそうなっちゃったけど……。何か予定があるなら、もう少し遅くしてもいいけど」
「いや! 変えなくていいよ! 土曜日ちょうど暇だし!」
このままメガネ生活を続けるより、さっさと修理をしてしまった方がマシに決まっている!
「それならよかった。それでね、お兄ちゃん、修理のついでにアップデートをしたいんだけど」
「アップデート?」
まるでスマホやパソコンのOSみたいな言い方だな。アップデートという言葉はそれだけに使うとは限らないことは承知しているが、俺にとってはそのイメージが強い。
それで、俺のどこをアップデートするのだろうか。電子頭脳か? それとも体のどこかのパーツか?
「前にさ、お兄ちゃんの頭に物が落ちてきて、おかしくなった時あったじゃん?」
「あぁ……あったね」
「その時、お兄ちゃんは自力で体を動かせなかったでしょ? あの時はみなとさんがいたからよかったけど、もし一人ぼっちのときに起きたら、大変なことになるよね?」
「そうだね」
「だから、お兄ちゃんの意識がないときでも、自律的に活動できるようなものを搭載しないとダメだなって思ったの」
今の話の流れから、俺はみやびが何を言わんとしているのか、なんとなく理解した。
「だから、今回の修理はアップデートを兼ねて、お兄ちゃんに自律型AIを搭載しようと思っているんだ」
「やっぱりそうくるか!」
俺のこの反応を、みやびは否定的なものと捉えたらしい。
「AI、載せちゃダメ?」
「いやいや、構わないよ」
AIがなきゃ、有事の際に俺は何もできなくなってしまうから、むしろ載せてほしいくらいだ。この前と同じようなことが起きたとき、周りに迷惑をかけることだけは避けたい。
「それで、ちょっと修理時間が伸びるかもしれないけど、それだけ了解しておいてね」
「わかった」
こうして、俺の修理の日程は唐突に直近に決まった。突然通告されたアップデートで搭載されるAIについては少し気になったが、有事の時に役に立つものであって、俺の日常生活はこれまでとは大差ないものになる……はずだ。
あまり明日のことは深く考えずに、その日は就寝した。
翌日土曜日。起床して、仕度を済ませるとすぐに俺たちは家を出る。みやびによると、朝っぱらの予定になっているのは、修理やアップデートが想定よりも時間がかかった場合を考慮してのことだそうだ。
最寄り駅まで歩くて、タクシーを捕まえて研究所へ。車中でみやびに聞いたところ、研究所周辺にはバス路線も電車も通っていないとのことだ。ちなみに、みやびはいつもタクシーで通っているらしい。その交通費は研究所が出してくれているのだそうな。
研究所の前で降り、そのまま建物の中に入っていく。よく考えれば、俺がここを訪れるのはかなり久しぶりだ。いや、そもそも最初にここで目覚めて帰宅してからは一度も来ていないな。実に二ヶ月ぶりだ。
俺はみやびの案内で、研究所の奥の方の部屋に案内される。部屋の中にベッドが一つ、そしてその周辺にはごちゃごちゃと機械類が配置されている。映画に出てくる近未来的な手術室みたいだ。
「それじゃ、お兄ちゃんはここに寝て」
「うん」
言われるままに横たわる。これからいよいよ修理が始まるのだ。少し緊張する。
俺のへそにケーブルが付けられ、みやびがベッド脇のテーブルで、スゴい勢いでパソコンのキーボードをカタカタと打ち始めた。
「それじゃ、お兄ちゃんおやすみ」
タン! と甲高くエンターキーが鳴ったかと思うと、俺の意識はスイッチが切り替わるように暗転した。
※
目が覚める。スイッチが切り替わるように意識が明転する。こういう時に、自分はやっぱりアンドロイドなんだなと実感する。
「お兄ちゃんおはよう」
呑気なみやびの声がすぐそばから聞こえる。俺は目を開けると、ゆっくりと上体を起こしてベッド脇を見る。すると、ばっちりみやびと目が合った。
「……ちゃんと見えてる!」
「でしょ?」
みやびの姿がスゴくはっきり見えていて、俺は思わず声に出してしまった。どうやら修理は無事に終わったようだ。以前の悪い状態から元に戻っただけなのだが、これまでの視力が悪すぎたせいで、俺はとても感動していた。
一説によると、人間は知覚の八割を視界からの情報に頼っているらしい。こんなにはっきり見えることに、感謝、感謝だ。
そして、俺の視界に起きた変化は、これまでのようにはっきり見えるようになったことだけではなかった。
「あのさ、みやび」
「どしたの?」
「なんか、視界にいろんなものが映っているんだけど」
「具体的にはどんな?」
どんな、と言われても、とても説明しづらい。たくさん変わったところがありすぎて、どう表現したらいいのかパッと思いつかない。
俺は一回思考を落ち着けると、視界に映っているものを順番に説明する。
「まず、視界に白い四角い枠があって、それから左上に棒グラフ? みたいなものが四本くらいあって、それが常に上下して動いているな。右上には何かの数値が表示されていて、左下と右下には小さく英語が書かれている……ように見えるよ」
「そっか。だったら、お兄ちゃんのアップデートの方も無事に成功したみたいだね」
アップデート、というと俺の中にAIを入れるとかいうやつか。ということは、視界に映るようになったこれは、AIが俺の体の中で正常に働いていることの証左なのか。
なんだか本格的にアンドロイドっぽくなってきたな……。どんどん人間離れしている気がする。
ところで、この白線やら数字やらは、何かの役に立つのだろうか?
「この視界のやつってさ、出て何かよいことあるの?」
「うーん……あんまりないかな」
「ないんかい!」
だったらつけなくてもよかったんじゃないの⁉︎ ぶっちゃけ邪魔だし!
「ま、AIを入れたついでに、表示してみようかな〜って思ってやっただけだから。気にしなくていいよ」
「気まぐれかよ……」
みやびにめっちゃ振り回されている気がする。でも、自分で自分の体はいじれないから仕方がない。この視界のやつも慣れるまで我慢だ。
「あと、どうでもいいけど、AIを入れた関係でお兄ちゃんのおっぱいが若干デッカくなってるよ」
「確かにどうでもいいな! ……いや、どうでもよくねぇよ!」
言われてみれば、前に比べて胸が若干きつくなっている……気がする。AIを入れた分だけ機械が必要になって、体積が増えるのはまあわからなくはないけれど、よりによって俺の一番出ているところに入れるかなぁ……。また檜山にセクハラされそうな予感がする。
「それにしても、AIって本当にはたらいているの? 前と全然変わっていない気がするんだけど」
「そりゃそうだよ。いつもはAIの機能を五パーセントくらいしか出せないように設定しているもん」
「そうなの⁉︎」
てっきりAIがあったら勝手に計算してくれたり、体を動かしたりしてくれて、その間に俺は自由なことでも考えられるかな、と思ったけど……そんなことはないようだ。
「それじゃ、今AIはほとんど俺の中で眠っている状態ってこと?」
「うん。別にお兄ちゃんがいいなら今ここで全部起動してもいいけど」
「じゃあ起動してよ」
せっかくなのだから、本格的にAIを起動したとき、どんなふうになるのか体験してみたい。
みやびは俺のへそにケーブルを繋げ直すと、再びパソコンをいじり始めた。
「それじゃ、いくよ〜」
エンターキーを押す音がした途端、俺の中で何かが動き始めた。
次の瞬間、俺の視界に次々とウィンドウが現れた。それに加え、視界の端に表示されるバーの数が増え、棒グラフみたいなものも活発に動き始める。
視界だけではない。聴覚も触覚も、これまでより鋭敏になる。意識が明確になり、これまで観測できなかった細かい情報が、一気に頭の中に入ってきてわかる。超人になった気分だ。
ここまでなら、俺は興奮してそれで終わりだっただろう。
しかしながら、みやびの作ったAIは、俺の予想をはるかに上回るスペックだった。
数秒経っても、情報の流入が止まらない。それどころか、毎秒当たりの情報量はどんどん増え続けている。五感が鋭くなったことにはなったのだが、なりすぎている。知覚過敏のような状態になっていく。
あまりの情報の多さに、早くも俺の頭は処理しきれなくなってきていた。ぐ……頭がクラクラする。
情報量が今も増え続けているあたり、まだAIが完全に起動しきっていないのか⁉︎ となると、完全に起動しきったとき、いったいどれだけの量になってしまうんだ⁉︎ これだけでも処理しきれていないのに、AIが起動しきってしまったら、俺の電子頭脳が追いつけるはずがない。AIに対するスペックが決定的に不足しているのだ。
俺の電子頭脳がフル回転しているせいで、頭から体の中心部に向かって熱くなっていくような感覚が起こる。一生懸命排熱しようと、呼吸が荒くなっていくのが自分でもわかる。
や、ヤバい……これは早くみやびに言って中止してもらわなければ……!
だが、そうする前に俺の体は限界を迎えた。
息苦しさと熱さの中、俺の意識は再びプツリと途切れたのだった。