「おはよう、みなと」
翌朝、登校した俺は、下駄箱で上履きに履き替えているみなとに話しかける。
俺の声に振り向いたみなとは、キョトンと目を丸くすると、戸惑った声で尋ねてくる。
「……ええと、あなたほまれよね?」
「酷いなぁ……俺だよ俺」
「どこの特殊詐欺よ」
もっともな返答だ。自分でもそう思う。
でも、みなとは俺だということをわかってくれたようだった。
「おはよう、ほまれ」
「今日ずっと駅のところから後ろをついていったのに……気づかないなんて酷いよ」
「それはほまれがメガネをかけているからよ……というか、ストーカーじゃないそれ……」
メガネをかけただけでそんなに印象変わるかなぁ、俺……。確かに、自分で鏡を見た時は、少し頭がよくなったような印象を受けたけど、人相が変わるまで変化したようには思えない。顔の形とかそういうことではなくて、雰囲気や纏っているオーラが変化した、みたいな感じだろうか?
「それにしても、メガネをかけているほまれ……レアね」
「まあ、修理の時が来るまで限定だけどね」
「えっ⁉︎ それなら今のうちに写真を撮っておかないとダメじゃない!」
みなとがバッとスマホを取り出すと、俺に向けてシャシャシャシャと連写を始めた。周りの生徒がギョッとして、俺たちを奇異の視線で見つめる。
あの、恥ずかしいんでやめてくれませんかね、みなとさん……。
「それにしても、そのメガネ、いつ作ったのよ?」
「昨日、越智に付き合ってもらって、学校近くのメガネ屋で作ったんだ」
「越智……? ああ、いおりに付き添ってもらったのね」
「知ってるの?」
「一年生の時、同じクラスだったから。こっちこそ、ほまれがいおりと一緒に行っていたなんて予想外よ。そんなにあなたたちって仲が良かったかしら?」
「最近いろいろあってね」
体育祭で一緒に騎馬を組んだり、メガネがまだできていなかった時に席を交換したりメガネを貸してもらったり……まあ、それだけなんだけど。
「いろいろ、って何よ」
「いろいろはいろいろだよ」
説明が面倒くさいので省く。と、みなとの顔がみるみる不機嫌になっていた。俺、みなとの癪に障るようなことを言ったかな? そう思って今までの発言を顧みるが、特に何も不適切な発言は……いや、もしかして。
「……みなと、もしかして妬(や)い」
「違うわよ全然そんなんじゃないわよ別にいおりとほまれがそんな仲だなんて私はこれっぽっちも思ってないわよ」
思ってるじゃねぇか! こんな否定がスラスラと続く時点で、嫉妬の確定演出じゃねぇか!
でも、みなとの立場に立って考えてみれば、この反応は当然だろう。だって、みなとからしてみれば、彼氏が彼女に黙ったまま別の女子と一緒に買い物に行っているのだ。そりゃ、妬きたくなるし疑いたくもなる。もし立場が逆だったら、俺だってこの気持ち……独占欲と疑念を止められる自信がない。
俺が謝ってちゃんと説明しようと口を開きかけると、みなとははぁー、と長くため息をついた。
「……まあいいわ。真面目ないおりに限って変なことは起こるはずはないし。ところで、いおりって目が悪かったのかしら? わざわざメガネ屋に付き添うなんて、目が悪くてメガネをかけるような人でないとしないと思うのだけれど」
「いつもコンタクトしているんだって」
「それは知らなかったわ」
みなとも知らなかったということは、越智は高校入学時からずっとコンタクトで生活していたのだろう。メガネをかけている姿を見たり、本人からカミングアウトされない限り、その人の目が悪いだなんて普通は気づかないだろう。
俺たちは下駄箱から教室へ向かう。
「……C組は今日、体育ってあったかしら?」
「あるよ」
「それなら、十分気をつけなさいよ。メガネにとって、飛んでくるボールは脅威だから」
「わかった」
俺たちは別れてそれぞれの教室に入る。
そういえば、今日はテニスだったか……。確かに、スゴい勢いで飛んでくるテニスボールがメガネに当たったら、大変なことになりそうなのは容易に想像がつく。今日は十分気をつけないと……。
そんなことを心に留めていると、佐田が声をかけてくる。
「おはようほまれ……ってどうしたんだそのメガネ!」
めっちゃ驚いた声を出してくるので、それに俺もビックリしてしまう。
「お、おはよう佐田……どう、似合ってる?」
「スゲー似合ってて可愛いぞ!」
「あ、ありがと……」
『可愛い』なんてストレートな褒め言葉で言わないでくれよ! 照れちゃうだろ! 嬉しいけどさ!
「やっぱり、視力の問題を受けて作ったのか?」
「うん。だからもうノートは見せてくれなくても平気だよ」
「そっか……見えるようになってよかったな」
「ホントだよ」
メガネがこんなにすぐに作れるもので本当によかった。そうじゃなきゃ、今日もまだ黒板の字が見えなくて困っていただろう。
「ほまれさん」
「あ、越智。おはよう」
すると、後ろから越智が声をかけてくる。
「昨日はいろいろとありがとう」
「いえいえ。今日は席を交換しなくても大丈夫ですよね?」
「うん。お陰様で」
「わかりました。では」
どうやらわざわざ確認に来たらしい。律儀な人だ。
朝のSHRの開始のチャイムが鳴る。立っていた生徒が自分の席に戻り、担任の先生が教室に入ってくる。
これで、メガネがないことによる不便な日常は終わりを告げた。たが、これから、メガネがあることによるトラブルが起こることを、この時の俺はまだ知らなかった。
体育の時間、俺たちはテニスコートに移動する。
すでにソフトボールは終わり、今の時期は女子はテニスをやっている。梅雨の時期なのに外でやるスポーツを学ぶなんて、ちょっとおかしなカリキュラムだ。だが、今日は曇天で、幸いにも雨が降るという予報は出ていない。
もちろん、俺はメガネをかけたままテニスをする。だって、メガネがなかったらボールが見えないんだもん。授業にならない。
授業が始まると、早速ラリーの練習を始める。
俺の学校にはテニス部がある。しかも、人数が多いので男子と女子に分かれている。ちなみに、みなとや檜山はこの部活の所属だ。C組には、檜山の他にもテニス部の女子は何人かいるので、授業中は彼女ら経験者が中心になって進んでいく。
一応バスケと同じ球技とはいえ、直接ボールを手で取り扱うのと、ラケットで跳ね返すのでは勝手が違う。これまでの授業でだいぶ苦戦はしたが、俺のテニスの腕はそこそこのものになっていた。
「天野ー! ラリーしよー!」
「いいよー」
ウロウロしていると、早速檜山から声がかかる。テニスコートが三面しかないので、練習では何人かでグループを組んでラリーをする。ネットを挟んだ反対側にも、こちら側と同じように待機列ができている。一対一で練習をして、ボールを返せなかったら、交互に交代していく。
列の後ろに並ぶこと数分、ようやく俺の番が回ってきた。
お相手は飯山だ。そういえば、飯山って何部なんだろう……。
「ほまれちゃん、いくよ〜」
「はーい」
いかんいかん、ラリーに集中しなければ……。
あっちがサーブだ。飯山はテニスボールをポンポンと弾ませて、それから高く上げる。来るぞ、と俺は身構える。
「えーいっ!」
ブオン! というラケットが風を切る高い音とともに、テニスボールが電光石火の速さでこちらに飛んで……来なかった。ボールはポテンと飯山のすぐそばに落ちて転がる。思いっきり空振りしたのだ。
「うぅ……もう一回いい?」
「どうぞ」
勢いづけた割には外してしまい、飯山は恥ずかしそうだ。顔を赤くしながら落としたボールを拾い上げる。少なくともテニス部ではなさそうだ。
さて、今度こそはちゃんとやってくれよ! 飯山はもう一度ボールを高く上げる。
「えーいっ!」
そして、先ほどと変わらぬ声と一緒に、ラケットを力のままに、といった様子で振り下ろす。
だが、さっきと違ったのは、それがボールにジャストミートしたということだった。
スバン! という音の直後、俺の目の前にはバウンドして跳ね返ってきたボールが迫っていた。一直線に、真っすぐ、顔面直撃待ったなしのコースで。
そして、この体はそのことに気づいても避けられるほど俊敏には動けない。
「のわっ!」
俺は慌てて上体を逸らしてボールを避けようとするが、遅すぎた。
ボールが俺の顔面の、目と目の真ん中、メガネのブリッジの部分に勢いよくぶつかる。
その衝撃で、メガネが俺の耳から外れて、宙に舞い上がる。
俺も、ボールがぶつかった勢いでバランスを崩してよろける。ただ、倒れるまでとはいかず、一歩二歩と後ろに下がっただけだった。
しかし、下がったのがいけなかった。二歩目、下げた右足が何か丸いものを踏んづけた。その足に体重を乗せていた俺は、バランスを思いっきり崩してひっくり返った。
「ぐべっ」
頭に衝撃。
「だ、大丈夫⁉︎」
幸いなことに、俺の身には特に異常は起こっていないようだった。ふらつきながらも立ち上がる俺に、ラケットを放り出した飯山が近づいてくる。
「うん……このくらいだったら俺の体は壊れないよ」
そう言って、俺は大丈夫であることを見せようと一歩を踏み出した。
その瞬間、足元からペキ、と軽いものが割れるような小さな音がした。
あ……嫌な予感がする。見たくない。今、俺の右足が踏んづけたものの正体を、見たくない。
だけど、ここから永遠に動かないわけにもいかない。
おそるおそる右足をどけると、そこには何か赤いものがあった。
メガネが外れ、視力が悪い状態に一気に逆戻りしたのでよく見えない。
俺はしゃがみ込んで、それを拾い上げた。
「お、俺のメガネ……」
さっきテニスボールに当たって吹っ飛んだ、俺のメガネだ。
遠く離れたところに落ちているかと思ったが、こんな近くに転がっていたのだ。
いやいや、それよりも、まずはこれが無事なのかを確かめないと!
俺は慎重にメガネを持つと、いろんな角度からその状態を確認する。
「メガネ、大丈夫そう……?」
「大丈夫……そうだね」
ペキとかいっていたが、フレームが少し歪んだだけで、レンズが割れたり欠けたりはしていなかった。
どうやら、買ったメガネは俺の想像以上に丈夫だったようだ。よ、よかったぁ……。まったく、ヒヤヒヤしたぜ……。
「あれ? なんでこんなところにソフトボールが……」
飯山の声につられて足元を見ると、そこにはソフトボールが転がっていた。どうやら俺はこれを踏んづけて転んだらしい。
どうしてこんなものがテニスコートに転がっているんだ……? まさかテニスコートでソフトボールをするわけがないし、誰かがテニスボールの代わりにソフトボールでテニスをしたのか……? それとも、ソフトボールが飛んできたとか。
そこまで考えたところで、俺ははっ、と気づく。二ヶ月近く前の体育の授業のソフトボールの授業中、俺は防球フェンス越えの特大ホームランを放った覚えがある。まさかこれがその……。
「まあいいや、後で戻してもらおう〜」
そんなことを考えている間に、飯山はソフトボールをポケットにしまった。そして、テニスの練習は再開される。
メガネ生活初日からこんなことになるなんて……メガネが壊れるのが先か、それとも修理が間に合うのが先か。何にせよ、メガネをかけている間は普段よりも注意して過ごさなければ、と思うのだった。