翌日。俺の目が故障していようが、学校は無条件にやってくる。
もちろん、履修のための単位がかかっているため、近眼になったからといってホイホイ休むわけにはいかない。俺は学校へ出発する。
相変わらず視界はボヤッとしている。近視の人がメガネを忘れたら、本当に大変なことになるんだな……と、現在進行形でその状況を体験している俺は、ヒシヒシと感じた。人間の体に戻ったら、もっと目を大切にしよう。
最寄り駅に到着すると、改札口を通って電車に乗り込む。電光掲示板のほぼ真下まで近づいて、さらに目を細めないと次の電車の時刻もわからない。スゴく不便だ。
なんとか電車に乗り換え、人にぶつからないよう細心の注意を払いながら、俺は学校の最寄り駅の改札口を出る。ここから学校へ向かう生徒がグッと多くなる。しかも、多くの通勤客もこの駅を利用しているから毎日大混雑だ。
必死に目を凝らして、人にぶつからないよう歩いているその時、突然俺の肩に何かが当たった。
ヤバい、十分注意していたつもりだったが、人にぶつかってしまったようだ。俺はすぐに謝ろうと横を向いて声を出そうとする。だが、それよりも先に聞き覚えのある声がかけられた。
「もう、どうしたのよほまれ!」
「……その声は、みなと?」
俺の目線より少し高い位置に人の顔がある。だが、輪郭がはっきりしない。
本人かどうか確かめるべく、俺は少し背伸びをしてズイっと顔を近づけた。すぐ目の前に、驚いた表情のみなとの顔が迫る。よかった、みなとで合っていた。
ということは、さっき俺がぶつかったと思ったのは、みなとが俺の肩に手を置いただけだった、ということなのか? ぶつかったわけじゃなくてよかった。
「ちょ、こんなところでダメよ……ほまれ」
「え?」
みなとは困惑したような、少し恥ずかしそうな声を出して顔を背ける。表情はよく見えないが、たぶん声と同じような感情を表しているだろう。
「するなら、もう少し人目のつかないところで……」
そこまでみなとが言ったところで、俺はようやく彼女が何を勘違いしているのか理解した。同時に、俺の中にも恥ずかしいという感情が猛烈な勢いで生まれてくる。
「ばっ……そんなことここでするわけないだろ! 何考えてるのみなと!」
キスなんて、こんな状況では普通はしないだろ! どんなバカップルだよ! 自分たちがいかに親密なのか他人に見せたい、顕示欲がウルトラスーパー強いカップルじゃない限りそんなことしねぇよ!
まぁ、でも確かに、今の俺の行動は、ちょっとそんな誤解を招く可能性があったかもしれないな……。いや、待てよ。俺の見た目は女だから、この場合は百合になるのか⁉︎
「今日のほまれ、なんか変よ。何かあったの?」
そこまで考えが至ったところで、みなとが事情を尋ねてくる。やはり、俺のこの状態は何かおかしいとみなとも感じたようだ。特に隠す理由もないので、俺は彼女に説明する。
「実は昨日、落雷に遭って……」
「落雷⁉︎ 落雷ってあの、雷に当たることよね?」
「うん。その落雷であってるよ。それで、目のピント機能がおかしくなって、今極度の近視状態になっているんだ」
「そ、そうだったのね……」
あまりにも突飛な話に、みなとの理解はまだ完全には追いついていないようだ。俺だってこんな話信じたくはない。だけど、これはすべて現実に起こったことであり、今実際にそうなってしまっているのだ。
すると、みなとは俺の顔の前に手を翳した。
「じゃあ、今私の指が何本立っているかわかるかしら?」
「二本」
「これは?」
「五本」
「これは?」
「四本」
「これは?」
「……ゼロ?」
「見えてるじゃない」
「そういうのじゃないんだよ……」
物体の存在はわかる。わかるんだけど、その詳細がわからないのだ。つまり、そこに『何か』があるのはわかるんだけど、それが『何か』なのはわかりづらいのだ。
「修理はしてもらえないのかしら? みやびちゃんに頼めばやってくれそうだけど……」
「なんかね、直すには研究所まで行かなきゃならないんだって。それに部品がないみたいで、しばらくこのままなんだってさ」
「そ、それは大変ね……メガネやコンタクトレンズは準備しているの?」
「いや、してないよ……」
昨日俺が目覚めて話を聞いたのは夜だったので、メガネもコンタクトレンズも用意できていない。なるべく早く用意したいところだ。
ここまで話したところで、A組の前に差しかかったので、俺たちはここで別れる。
教室を一つ分通り過ぎて、俺は自分のホームクラスであるC組に辿り着く。そして、中に入ると自分の席に向かう。
そして、机の間の通路を通り抜けようとして、誰かの机の脚に自分の足を引っ掛けてしまった。
「うわっ!」
ガシャン! バンッ! と凄まじい音を立てて机がひっくり返り、ドサドサドサと机の中に入っていたノートや教科書が床に散らばる。一方の俺は、ガツンと額から床に激突した。
この惨事に、少し騒がしかった教室が一気にシーンとなった。
「天野……あんた大丈夫?」
すぐ近くにいた檜山が心配そうに声をかけてくる。
「だ、大丈夫……」
俺は自力で立ち上がると、床に散らばったものを集めて机とともに元に戻すと、ちょっと平衡感覚が狂ったままフラフラと自分の席に向かう。あぁ……目が悪いと狭いところの移動もままならないのか……。
朝からカタストロフを巻き起こして、自分に幻滅したまま1日が始まった。
だが、苦難の一日はまだ始まったばかりだということを、俺はこの直後から思い知った。
目が悪いことで学校生活を送る上で一番支障になること。それは授業の時間に起こる。
黒板の字が、まったく見えないのだ。
俺の席は教室の前から五番目の列に位置している。後ろから数えた方が早い場所だ。そんな俺が、八メートル三十センチ離れている黒板の字が見えるかといわれると、そんなの見えないと答えるしかない。白いチョークで何か書かれていても、ピントの狂った俺の目には、そこにはただののっぺりとした濃緑色の板があるようにしか見えないのだ。
そういえば小学生の時、席替えの時に目が悪い人を前の方の席にする、みたいなことをやっていたなぁ……。あれ、目の悪い人からしてみれば本当にありがたいことだったんだな……。
一時間目が終わるなり、俺は佐田の席に向かうと彼に声をかける。
「佐田〜」
「おう、ほまれか。あ、傘サンキューな。傘立てに入れておいたぞ」
「オッケー。ところでさ、さっきの授業のノート、見せてくれない?」
「そりゃいいが……寝てたのか?」
「いやいや違う違う。見えないんだよ、黒板の字が」
「黒板の字? あの先生、結構デカめの字しか書かないと思うんだけど」
「あー、それなんだけど……」
俺はかくかくしかじかと事情を説明した。
全部聞き終えると、佐田は少し黙り込んだ。その後に、静かに言葉を発した。
「そんなことが……申し訳ない」
「なんで佐田が謝るのさ? まったく関係ないだろ?」
「いや、俺があの時ほまれの傘を受け取っていなかったら……」
なるほど、それを気にしていたのか。
「俺が傘を差して帰ったって、雷は当たっていたかもしれないよ? とにかく、佐田のせいじゃないから、気に病む必要はないって」
「そっか……。ところで、ほまれはメガネを持っていないんだよな?」
「うん」
「だとしたら、この先の授業、きつくないか? まったく見えないんだろ?」
「それなんだよな……」
佐田は、俺の今日一番の問題を的確に指摘した。
今日の授業はすべて座学。だから、このまま黒板の字が見えないままだと、授業が終わるたびに誰かにノートを見せてもらわなくてはならない。正直面倒くさいし、他人に迷惑をかけてしまう。これはなんとかして避けたいところだ。
すると、佐田が指を鳴らした。何かを思いついたようで、俺に提案してくる。
「それだったら、今日一日だけ、前の方の席の人と代わってもらうのはどうだ?」
「なるほど! さすが佐田、冴えてる!」
それだったら自分でノートを取れる! 誰かに席を代わってもらう必要はあるけど……いちいちノートを見せてもらうよりかはマシだろう。
「じゃあ、それでやってみる。ノートは今日中に返すよ」
「おう」
さて、誰に席を代わってもらおうか……。なるべく前の方の席の人で、俺の頼みを聞いてくれそうな人……。俺は、脳裏でこのクラスの座席表を思い浮かべる。
数秒考えた後、俺はある一人の女子のもとへ向かう。彼女なら俺の頼みを聞いてくれるはずだと俺は踏んだ。
幸い彼女は席に座っているようだった。俺はその背中に声をかける。
「越智、ちょっといい?」
「ほまれさん……どうしましたか?」
前から二列目、つまり俺の三つ前に座っている越智。彼女なら、きっと俺の事情をわかってくれるはずだ。体育祭で一緒に騎馬を組んだから、まったく交友関係がないというわけでもないし、彼女の目が悪いという話も聞いたことがない。なにより頼れそうな雰囲気の人なのだ。きっと大丈夫だろう。
俺はざっと事情を説明した。
「……というわけで、今日一日だけ、席代わってくれないか! 頼む!」
越智は即座に返事をした。
「もちろん、大丈夫ですよ」
「ありがとう! 恩に着る!」
越智は席を立って、早速自分の勉強道具を片付け始める。
「ところで、ほまれさんは今どの程度見えているんですか?」
「0.1はない……らしい」
「それじゃあ、ここからでも黒板の字を見るのは厳しいかもしれません」
「えっ」
マジかよ……。でも、確かに、ここからでも、黒板の日直の名前がやっと見えるか見えないか、だ。もし字の小さい先生が来たら、見えないかもしれない。
「念のために聞きますが、ほまれさんは本当にロボットなんですよね?」
「そうだよ」
「ピントがズレているだけで、これ以上悪くなるわけではないと」
「うん」
「それだったら、わたしのメガネを貸しますよ」
そういうと、越智はメガネケースを取り出して、こちらにメガネを手渡してきた。
俺はそのままの流れで受け取るが……そこではたと気づく。
「えっ、それじゃあ越智は目が悪いんじゃ……そもそも俺と席を交換したらマズいんじゃ」
「いえいえ、わたしはコンタクトレンズをしているのでまったく問題ないです」
確かに、よく見ると何かレンズのようなものが越智の目の中に入っているのがわかる。コンタクトレンズをしていたのか……今まで全然気づかなかった。
「試しにこのメガネをかけてみてください。少しはマシになるかもしれません」
「わかった」
俺は丁寧にメガネのつるを開いてかける。
おぉ……めっちゃ見える! これまでぼやけていたのが嘘のようだ。さっきよりも黒板の字ははっきりしている。
だが、これはもともと越智のために作られたメガネ。俺にとっては若干弱いようで、遠くの方はまだぼやけていた。たぶん、俺の席まで下がってしまうと、黒板の字は見えなくなってしまうだろう。
「どうですか? 多少はマシになると思うのですが」
「うん。これで大丈夫そうだ。ありがとう!」
「それならよかったです。それに、ほまれさん、メガネ似合ってますね」
「そ、そうかな……?」
自分がメガネをかけているところなんて見たことも想像したこともないから、いったいどうなっているのかまったくわからない。後で鏡を見てみよう。
互いの荷物をまとめて移動し、席を交換したところで、二時間目開始のチャイムが鳴る。
こうして、俺は今日一日、メガネっ娘属性を手に入れることになったのだった。