みなとの誕生日から数日。六月に入って一週間もすると、さすがに梅雨に入ったようだ。黒南風(くろはえ)が運んできたどんよりとした厚い灰色の雲が空一面を覆っているので、昼間なのに空は薄暗い。雨は、しとしとと穏やかだが、ずーっと降っている。そのくせ気温が高めだからとにかく不快だ。個人的基準の不快指数は、ここ数日間、百を突破していた。そろそろ二百に到達しそう。
そんな環境の中、俺はここ最近、放課後は体育館に籠っていた。
理由は簡単、俺が男子バスケ部のマネージャーだからだ。
バスケ部は基本的に体育館で練習をするので、天候に左右されずに部活動ができる。
雨が建物に打ちつける音をBGMに、ボールが体育館を跳ね回る。
「ボールいきました! すみません!」
前から部員の声が飛んでくる。視線をあげると、こちらにバスケットボールが大きく弾んで向かってきていた。タイミングよくちょうど胸の前でキャッチすると、遠くから駆け寄ってくる彼の方へ、ボールを投げ返す。
「はいよー」
「あざっす!」
男バスのマネージャーの業務は多岐にわたる。
主な仕事内容は、出席欠席の管理、練習に必要な物品の管理、練習内容の記録や練習計画のサポート、ミーティングの記録、あとは休憩時間に部員たちが飲む飲み物の補給……。これ以外にも、やるべきことはたくさんあり、挙げたらキリがない。部活動中はいつも何かをしているような状況だ。
初めは普通の部員として活動するよりも楽だ、と思っていたが、全然そんなことはなかった。むしろマネージャーの方が忙しい。あぁ、何も考えずに練習していた頃が懐かしい……。
でも、これはこれでとてもやりがいがある。表に出ない分、黒子として暗躍している気分になる。それに、必然的に部員全員と接することになるから、チームの土台となって部活に貢献している実感が湧いてくる。
最近は特に忙しい。平日は毎日部活漬けの日々だ。俺の体は疲れないが、それでも精神的な疲労は溜まっている。
だが、目の前で練習している部員たちの方が、肉体的な疲れを感じる分、俺よりも疲れているだろう。それでも、そんな素振りを誰も見せることなく、今日も熱心に練習に励んでいる。
そして、毎日部活があるのにも、部員たちが熱心に練習しているのにも理由がある。
タイマーがけたたましい音を立てて鳴る。俺は急いでそれを止めに行った。
「男バス集合!」
俺がタイマーを操作している間に、部長が声を張り上げた。練習していた部員たちが駆け足で、体育館の舞台の前に集合する。
全員が集まったことを確認すると、部長は皆に話し始めた。
「それでは、ミーティングを始めます!」
「「「「「はい!」」」」」
威勢のいい返事。いつもこんな感じだ。どんなときも気合いと返事だけは十分なのが、我が男子バスケットボール部の特徴である。
いつものように連絡事項が伝えられる。俺はそれを急いでメモしていく。
連絡が一段落したところで、部長が一息ついた。
「それでは、明日からの公式試合について、天野から」
「はい」
俺は事前に用意しておいた資料を見ながら話し始める。
「えっと、皆さんご存知のように、明後日は他校との公式戦です。市民体育館に朝八時半に集合です。絶対に寝坊しないようにして下さい。持ち物は事前に配ったプリントどおりです。これも絶対に忘れないでください……」
その他、注意事項を読み上げていく。
明後日は、他校との公式戦である。すでに対戦相手のデータも収集済みで、皆で話し合って作戦も立ててある。それを踏まえて、この一週間は、試合対策ための練習を特に重点的に行ってきたのだ。
また、部員たちが熱心に練習していた理由はこれだけではない。
重要なことを全部言い終えた後、俺は皆を鼓舞する。
「この試合が、三年生の先輩方の最後の試合になります。それぞれベストを尽くせるように頑張りましょう!」
「「「「「はい!」」」」」
今回の試合は、三年生にとっては最後の公式試合になる。言い換えれば、引退試合なのだ。これ以降は、受験勉強のためにバスケ部には来なくなり、その代わりに、俺たち二年生がトップを務めることになる。
だから、今回の試合では、三年生のためにいい結果を残したい。一、二年生はそんな思いで、三年生は自分たちの最後の試合で勝利したいという思いで、今まで以上に、皆一生懸命練習してきたのだ。
「他に何か質問や連絡事項はありますか?」
部長が皆に尋ねるが、特に誰からも質問は出ない。
「それでは、これで今日の部活を終わります。お疲れさまでした」
「「「「「ありがとうございました!」」」」」
ミーティングが終わると、部員たちはそれぞれボールを片付け、体育館から去っていく。
俺もメモ帳をバタンと閉じると、物品の片付けを始める。しかし、いかんせんやることが多すぎる。まず、ボールの入ったカゴを倉庫の中に片付けなくちゃいけないし、バスケのゴールを上げる機械も操作しなければならない。カーテンも閉めなきゃいけないし、コートを半分に区切っているネットを開いて、体育館を完全に復元する必要がある。そして、最後に照明を消して鍵を閉めなくてはならない。
わたわたしている俺の様子を見かねたのか、佐田がこちらへ小走りでやってくる。
「ほまれ、このカゴしまってくるよ」
「ありがとう佐田! 助かる!」
ネットをシャーと引きながら、佐田に感謝する。
こういう気配りのできる人を、心のイケメンと言うんだろうなぁ……。佐田の場合は、心だけではなく顔も相当イケメンなんだけど。
皆から遅れること七分三十二秒。すべての片付けを終え、ようやく俺は体育館を離れる。あとは、鍵の返却と顧問の先生への活動報告をしたら終了だ。
三階から更衣室のある二階に下りる最中、佐田が後ろから追いついてきた。カゴを倉庫にしまうのに、少し時間がかかってしまっていたようだった。
「ほまれ、倉庫の鍵」
「サンキュ」
佐田が俺を追い抜かす時に、倉庫の鍵を渡してくる。そのまま遠ざかっていく彼の背中に、俺は声をかける。
「佐田、明後日の試合、いけそう?」
「もちろんだ! あれだけ練習をこなしてきたからな」
自信満々だ。自信があることはとてもいいことだ。
マネージャーの仕事の一つに、部員たちの精神的なサポートがある。だが、佐田に関しては、彼の言葉から想像するに、どうやら心配は杞憂みたいだ。
「ほまれも、マネージャーは大丈夫そうか? かなり大変そうに見えるんだけど」
「うーん……正直に言えばかなり大変だよ。何も考えずにただ練習していた時が懐かしいよ」
「やっぱそうなのか」
練習している部員からも、やはり俺の仕事は大変そうに見えるらしい。
「でもまあ、やりがいはあるかな。なんか組織を裏から支えている感じがするからさ。なんて言うのかな? その、黒幕感がスゴい」
「ははっ、黒幕感って何だよ」
ちょっと違う気がしなくもないが、俺の語彙の中ではそれが一番的確な表現だった。裏のラスボスになった気分だ。
「まあ、何にせよ、いつもありがとな、ほまれ。助かってるぞ」
「お、おう……」
佐田がいい笑顔でこちらを向く。本気でそう思っていることが伝わってくる屈託のない笑顔に、不覚にも俺はちょっとドキッとしてしまった。
いかんいかん、体は女性型アンドロイドでも、あくまで俺は男だぞ! みなとという彼女もいるのになんでちょっとときめいているんだ俺!
でも、今ので佐田のことが好きな女子の気持ちがわかったような気がした。
二階まで下りると、俺は廊下へ進む。女子更衣室がこの階にあるからだ。一方の佐田は、男子更衣室のある一階へさらに下る。俺たちが同じ方向に向かうのもここまで。たぶん、帰りも一緒のタイミングではないだろうから、俺は別れの挨拶を切り出した。
「それじゃ」
「おう、お疲れ、ほまれ!」
「明日、頑張ろうね!」
「ああ」
明後日の公式試合は、着々と迫ってきていた。