翌朝。俺が朝食の支度をしていると、階段をトントンと静かに下りる音が聞こえた。
意図的なのかどうかは知らないが、相当小さく抑えている。みやびが自分の部屋から一階へ下りてきているのだ。
その足音は静かなまま近づいてきて、そして、台所とダイニングと一体になっているリビングへ、そのまま入って来る。
「みやび、起きたの?」
「ば、バレてた⁉」
驚きの声とともに、ズサッと床と足が擦れる音。顔を上げるが、みやびの声がしたはずの場所には誰もいない。おかしいな……絶対にさっきまでそこにいたはずなのに。
と思ったら、廊下へ繫がる開けっ放しのドアの枠から、指先が覗いていた。がっちりとドア枠を掴んでいる。
ははぁ……あそこに隠れているのか。
いつもなら何かを気にする様子もなく、「おはよー」とか言いながら堂々と姿を現すのだが。もしや、俺を相手に新手のドッキリでも仕掛けてきているのだろうか?
「何をしているんだ、みやび」
「お兄ちゃんの索敵能力が高すぎて、こんなに高く設定したことをちょっと後悔しているところ」
「えぇ……」
俺としては、この索敵能力のままにしてほしいんだけど。小さい音まで聞こえるし、遠くのものまで見えてとても便利だから。
「というか、なんでそこに隠れているの? 朝ご飯、もうすぐできるよ」
「……わかってるよ」
そう言うと、みやびは手に続いて顔だけをこちらに出す。それ以外は頑なにこちらに見せようとしない。壁の後ろでスゴくつらい体勢をしているようで、手がブルブルしているし、顔も何かを我慢しているような表情になっている。
今までの行動から察するに、みやびは俺に体を見せたくないようだ。いつも俺に対して遠慮がないみやびがこうまでなるとは、体によっぽどのことがあったのだろう。
「……もしかして、どこか具合が悪いの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあなんだよ」
みやびは恥ずかしそうに俺から視線を逸らした。そして、おずおずとようやくリビングに入り、体全体を見せてくる。
それを見て、俺は思わず呟いた。
「その格好……」
「うん……今日、久しぶりに学校に行くから」
みやびはセーラー服を着ていた。
見慣れない格好に、コスプレでもしているのか、と一瞬錯覚してしまう。しかし、これは間違いなくみやびが通っている中学校の制服だ。それに、みやび自身も中学生。コスプレであるわけがない、これが正装なのだ。
それにしても、みやびの制服姿を見るなんて、いつぶりだろう……。
中学に行く機会は、もちろんこれまでに何回かあった。だが、みやびはいつもご飯を食べた後に制服に着替えて出かけていた。だから、ご飯を食べる前に着ているのがそもそも珍しいのだ。
それに、みやびが学校に行く時刻は、俺が高校に行く時刻よりも遅い。そして、みやびが家に帰ってくる時刻は、俺が帰ってくる時刻より早い。もちろん、みやびは帰ってきたらすぐに私服に着替えて部屋に引きこもる。だから、みやびがセーラー服を着ている姿というのは、実はほとんど見たことがないのだ。
確か、最後に見たのはみやびの中学の入学式……だった気がするぞ。実に二年ぶりくらいじゃないか。
再びみやびのセーラー服を拝めるなんて、お兄ちゃん嬉しいぞ!
「へ、変じゃないかな?」
「大丈夫。似合ってるよ」
「それならいいけど……やっぱりちょっと服がきついんだよね。気を抜くとすぐにお腹が出ちゃう」
みやびは伸びをする。ただでさえ短いセーラー服の上着が上がり、おへそが丸見えになる。わぁ、みやびさん朝からエローい。
「背が伸びたから服がちっちゃくなったんじゃないか?」
確かこの前、百六十センチを超えたとか言っていたよな。中学入学時には、確か百五十センチちょいくらいだったはずだから、十センチくらい伸びていることになる。これできつくならないはずがない。
「あと一年も学校にいないのに、制服を買い替えなきゃいけないの~」
みやびがげんなりした様子で言う。確かにそれはお金がもったいないような気がする。
後ろでトースターがチンと鳴る。いよいよ朝ご飯も完成だ。俺は手早く料理をみやびの席の前に並べる。朝食タイムだ。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
俺は特にやることがないので、みやびの向かいの席に座る。
いつもとは違う俺の様子を見て、みやびが疑問を呈してきた。
「お兄ちゃん、学校の支度しなくていいの?」
「ああ、今日は創立記念日で学校が休みだからね」
「なるほどね~」
いやぁ~創立記念日が平日でよかった! これで嬉しいことに三連休だ。テストのすぐ後だし、課題もそんなに出ていないから、今日ものんびり過ごすことができる。
「みやびは学校に行くとき、いつも何時くらいに出ているの? 俺より遅いのは知っているけど」
「んー、だいたいお兄ちゃんの十分くらい後かな」
「そうなんだ。あんまり間は空いていないんだね」
みやびが在籍している中学校は、俺の母校だ。
もっと遅いのかと思ったが、どうやらそうでもないようだ。よく考えれば、そのくらいの時間に出ないと朝のSHR──中学校では『朝学活』だったか、には間に合わなかった、気がする。もっとも、卒業してから二年も経つので、中学の時の出発時刻のボーダーなんて忘れてしまったが。
「それにしても、朝ご飯の前から制服を着ているなんて、珍しいね」
「そうだっけ?」
本人は全然覚えていないみたいだ。学校に行くのが久しぶりすぎて、記憶から抹消されているらしい。
「そうだよ。いつも『制服が汚れるから~』とか言って、パジャマで食べていたじゃないか」
「そうだったかも……。今朝は制服を着るのが久しぶりだったから、まだサイズが大丈夫か気になって、起きてからすぐ袖を通しちゃったんだ。ご飯終わった後にもう一度自分の部屋に行って着替えるのも面倒くさいでしょ?」
「そうだね。あと、みっともないから、シャツをちゃんとしまっとけよ」
「わかってるよぅ」
さっきから出しっぱなしになっていたお腹が隠される。制服のきつさも相まって、シャツが見えないように動くのは、かなり難しそうだ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
食器を片付けると、みやびは中学校に行く準備を始める。歯磨きをし、階上から荷物の入ったスクールバッグを取ってくる。
「お兄ちゃん」
「どうしたの?」
俺は食器を洗った手をタオルで拭きながら、みやびの呼びかけに応える。
「ちょっとこっち見て」
「はいはい」
顔を上げて、みやびの方を見る。
制服を少し窮屈そうに着ていること以外は、特に何の変哲もない、いつものみやびに見えるけど……。
「どう? なんか制服の着こなし方で変なところとかない?」
「大丈夫だと思うよ」
「ならよかった」
みやびは身なりの最終確認をしたかったようだ。
そして、スクールバッグを、玄関で靴を履き始める。
……もう行くのか。
それならば、こちらも動き出さなければならない。
俺は台所から離れると、洗面所で自分の身なりを確認する。この前みなとに選んでもらった服を組み合わせた、外に出ても変に思われない私服。髪も跳ねていないし、俺の身なりはばっちりだ。家の鍵も持っているし、スマホも持った。
俺は玄関に向かい、ローファーを履くのに苦戦しているみやびを隣に、さっさと運動靴を履いた。ようやく立ち上がってスクールバッグを持ったみやびを振り返りながら、俺は玄関のドアを開けた。
「それじゃ、行こうか」
「……え?」
みやびが間抜けな声を出した。
「お兄ちゃん、留守番じゃないの?」
「何言ってるの? 付いていくに決まってるじゃん」
「え?」
「え?」