それから一週間、俺は必死に勉強した。
休み時間も無駄にはせずに英単語を必死に覚え、昼休みも、みなとが昼食を食べ終わった後は、一緒に理系科目の勉強をする。
そして、家に帰ったら、寝るまでみやびにみっちり苦手な数学を教えてもらう。たまにみなとも家に来て、一緒に勉強する。
間違えた問題は数知れず、それで胸を揉まれた数も知れず……。
この体は疲れを知らないので、まさに精神修行だった。
そんな勉強の成果を発揮する日が、ついに巡ってきた。
定期試験、その初日。
俺はいつもより早く学校に向かって、自分の席に座ると最後の追い込みをかける。
初日の今日は、なんと初っ端の一時間目から数学だ。
テストは四日間あり、全部午前中で終わる。もし数学が最終日だったら、半日分の勉強時間が三日間確保できたのだが、残念ながらそうならなかった。まるで俺を嘲り笑っているかのようだ。
でも、やるしかないのだ。今更何を言っても時間割が変わるわけではないのだから、とにかく残された時間を勉強に捧げるしかないのだ。
俺はバッグから一冊のノートを取り出す。
表紙には『お兄ちゃん用 数学要点まとめ』と、サインペンで書かれている。みやびが俺のために、わざわざ作ってくれたのだ。
俺はそれを開いて、重要な公式や計算上の注意点を頭に叩き込んでいく。
徐々に近づいてくる試験開始時刻に焦りを感じるが、なんとか自分の気持ちを落ち着かせる。
「おうほまれ、勉強してるか?」
気づくと、隣に佐田が立っていた。周りを見渡すと、ほとんどのクラスメイトがすでに着席していて、ワイワイ話をしたり勉強したり、思い思いの時間を過ごしていた。
「ああ、勉強してるよ」
「どうだ、数学Ⅱは。自信のほどは?」
「ん~、まあまあかな」
俺は答えを濁す。みっちり勉強してきたけど、正直微妙だ。昨日だって、結構な数の問題を間違えて、散々罰ゲームを食らった。もちろん、何もしなかった場合よりは、正答率は格段によくなっているはずだが。
「そうか、まぁ赤点だけは取るなよ」
「もちろん」
佐田がそう言った瞬間、教室前方のドアが開いて先生が入ってきた。佐田が自分の席に戻っていく。
「それじゃ、試験を始めるぞ~。教科書ノート参考書の類はしまえ~」
先生の号令で、生徒が一斉に机の上と中を片付けていく。俺も覚悟を決めると、ノートをバタンと閉じて、バッグの中にしまった。前から問題用紙と解答用紙が回ってくる。
いよいよテスト本番だ。これまで頑張ってきた自分を信じて、やり抜くしかない。
俺は深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。そして、テストが始まるその時を待つ。
「それでは、試験始め!」
皆が一斉に問題用紙を開く。紙の擦れる音が重なる。
さぁ、勝負だ! 数学Ⅱよ!
俺はページを一枚めくると、勢いよく問題に取りかかった。
※
四日間にわたったテストとの戦いは、無事に終了した。
正直に言って、全教科うまくいったとはとても言えない。もちろん、簡単な問題ばかりの教科もあったが、酷いものだと半分くらいの問題が解けなかった教科もあった。
今回のテストの目標は、とにかく赤点を一教科も取らないこと。だが、その目標が達成できているかどうか、微妙なところだ。一番心配なのは、もちろん数学Ⅱ。
今日はテストが終わって週末を挟んだ、最初の授業日だ。しかし、授業日と言っても授業はない。
この高校には『答案返却日』という、すべての教科のテストの結果が一日で返ってくる日がある。テストは金曜日に終わったから、土日のうちに採点され、答案返却日である今日月曜日に返ってくる。
現在は昼休み。四時間目が終わった時点で、五教科十科目のうち、六科目が返ってきていた。
俺はいつもと変わらず、みなとと一緒に、空いているスペースで昼の時間を過ごす。
「ほまれ、テストはどうだった?」
開口一番、弁当を開きながら彼女が聞いてきた。
「……まあ、ぼちぼちかな」
「もちろん、赤点は取ってないわよね……?」
「…………」
黙っていると、みなとが焦ったような声を出す。
「ちょっと、ほまれ?」
「……取ってないよ、今のところはね」
「よかった……もう、焦らせないでよね」
みなとは大きく息を吐くと、白米を頬張る。
これまでのところ、赤点はまだ一つも取っていない。ただ、赤点を取っていないというだけで、全教科が平均に乗っているわけでもない。大体半分くらい平均を上回っていて、半分くらい平均を下回っている感じだ。六教科の平均を取ったら、俺の点数と同じくらいになるんじゃなかろうか。
「みなとはどうだった?」
「まあ、だいたい予想どおりね」
「そっか」
みなとの言う『予想どおり』は、俺の言う『めっちゃいい』に相当する。みなとは学年でも指折りの学力を持っているのだ。俺とはそもそも基準が違う。たぶん、平均して八割くらいは取っているだろう。
俺もみなとくらい頭がよかったらなぁ……。脳を取り換えっこしたい。
「ところで、一番心配な数学Ⅱはこれからよね?」
「そうなんだよ」
これまで赤点は一つも取っていないとはいえ、まだ気を緩めてはいけない。むしろ、これから一番赤点に近い教科・数学Ⅱが帰ってくるのだから、気を引き締めなければならない。
「赤点、取ってないといいけどな……」
「取るはずないわよ。あれほど勉強したじゃない。逆にあれで赤点を取れるなら、それはある意味才能ね」
「うぐっ……」
なんとはなしに言ったのだろうみなとの言葉が俺の心に突き刺さる。これで俺が赤点を取ってしまったら、それはある意味才能なのか……。いや、案外みなとの言っていることは正鵠を得ているのかもしれない。
これでも俺は理系だ。理系なのに、数学で赤点を取ることなんて、普通はありえないことなのだ。いっそのこと、赤点を取るくらいならば、文転した方がマシなのかもしれない……。
「ああ、そんなに落ち込まないで、ほまれ! ごめんなさい、今の発言は撤回するわ!」
「いいよ別に……赤点を取ったらそれまでのことだし……」
……赤点赤点と考えているうちに、なんだかどうでもよくなってきた。もう赤点でもなんでもいいや。今更願ったってテスト結果は変わらないんだし、赤点でもすぐに単位が取れずに留年が決まるわけじゃなくて、補習になるだけだし。
「それに、なんだか赤点赤点って気にするのが馬鹿らしくなってきた」
「き、急にどうしたのよ」
「もう赤点を気にするのはやめた。俺は自分の結果をありのまま受け入れる! 補習でもなんでもどんと来いや!」
「ほ、ほまれ……」
「みなと、俺は吹っきれた。もう、どんな点数でもいい!」
「そ、ソウデスカ……」
みなとが引き気味になっているのを見て、俺は自分がかなり興奮しているのに気づいた。俺は自分を落ち着かせて席に座る。
「ま、まあ、ポジティブになったのはいいことよ……」
「そうだよね! うん!」
「……ほまれなら大丈夫よ。返ってきたら、教えてね」
「わかった!」
昼休みが終わり、教室に戻ると午後の授業が始まる。
そして、六時間目。本日最後の時間に数学Ⅱが返ってくる。
先生が教壇に立つ。皆の解答用紙を茶封筒から取り出した。
はー、緊張する……。名字が『天野』なので、最初に返却されるのだ。
「それでは、出席番号順に」
立ち上がって、先生のところへ向かう。そして、畳まれた解答用紙を厳かに受け取った。
まだ開かない。点数を見るのが怖い。
俺は席に戻ると、解答用紙をそのまま机の上に置く。
赤点なのか、そうでないのかは、この紙の内側に書いてある。なかなか点数を見る決心がつかない。手を伸ばしたいが、伸ばしたくない。アンビバレントな感情で、俺の腕が震える。
そうこうしているうちに、クラス全員に解答用紙が返却されたようだった。
「……の平均点は六十一点です」
六十一点……赤点は平均の半分、小数点以下は切り捨てというルールなので、三十点以下が赤点となる。
覚悟を決めた。ぺらっと紙をめくる。
十の位は三。そして、一の位は。
「あ、ああ……」
ゼロ。
嘘だと思って何度見ても数字は変わらない。変わるはずがない。赤ペンでゼロと書いてあった。
くそぅ……あれだけ勉強したのに。あれだけみやびにもみなとにも手伝ってもらったのに、赤点になってしまうなんて……。ダメダメすぎるだろ、俺。二人に申し訳ない。
がっくり頭を垂れて俯いていると、先生の声が聞こえてくる。
「学年の平均点は、五十五点くらいなので、赤点は二十七点以下です」
「へ?」
何だって?
平均点が五十五点? 赤点が二十七点……?
数秒経って、俺はようやく理解した。
先生は、最初平均点が六十一点と言った。そして、次に学年の平均点は五十五点だと、そして赤点が二十七点以下だとも言った。
赤点は、学年全体の平均点で決まる。俺はてっきり、最初に言った点数が学年の平均点なのかと思っていたが、どうやら違うらしい。後で学年全体の平均と赤点について言及しているし、最初の平均点が学年のものだとすると赤点の点数と食い違うからだ。
となれば、最初に言ったのは、『このクラスの』平均点だったのか……?
だとしたら、三十点だった俺は、すんでのところで赤点を免れたことになる。
よ、よかったぁ……!
ちなみに、この後返された三科目のテストは、全部だいたい平均点くらいの点数だった。
こうして、なんとか赤点なしで、俺は今回の定期試験を乗りきることができたのだった。