翌日。学校が終わると、俺は電車を乗り継いで速やかに帰宅する。
叶うならば、みなとと一緒に帰りたかった。しかし、俺のクラスのSHRが終わった時には、A組のSHRはすでに終わっていて、彼女は帰ってしまっていたのだ。
そもそも、今朝みやびは『今日は寄り道せずに早く帰って来てね』と言ってきたし、昼休みにはみなとも『今日は学校に残らずに帰るわ』と言っていた。ワンチャン俺の方が先にSHRが終わって一緒に帰れるか、と思ったが、やはりことはそううまくいかなかった。
みなととて、試験勉強をしなくていいわけではない。俺に教えてばかりなどいられないはずだ。もちろん、みなとの試験勉強の時間を奪うつもりは俺にはない。だから、今日彼女が先に帰ってしまったのは仕方のないことではある。
俺も、さっさと勉強しないと……。
「ただいまー」
ガチャリとドアを開けて、家の中に入り玄関で靴を脱ぐ。そこで下を見たとき、俺はとある違和感を抱いた。
その原因を探ること数秒、ようやくそれを言語化できた。
「……靴が一足多い?」
玄関にいつも出ているのは、俺の運動靴とローファー。同じくみやびの運動靴とローファー。そして、自宅の郵便受けまで行くための外用スリッパ。基本的にはこの五足しかない。
だが、今日はそのどれにも該当しない靴がある。見慣れないローファーだ。みやびのも俺のもすでに並んでいる……。
となれば、誰か客が来ている、ということか⁉ しかも、ローファーということは、十中八九女子学生。もちろん、俺には今日そんな人を家に呼んだ覚えはない。つまり、みやびの友達に間違いない!
つ、ついに、みやびも友達を家に呼ぶようになったか……お兄ちゃん、嬉しいぞ……!
俺は少し高揚しながら、その友達を一目見ようとリビングに顔を出す。
「ただいまー」
「あ、おかえり、お兄ちゃん」
「ちょっと遅かったわね、ほまれ」
「あーちょっとね……ってみなと⁉」
あまりにも自然に会話に加わっていたから、違和感が宇宙の果てまでいってしまった。リアクションを返すのに時間がかかってしまったじゃないか。
ということは、玄関に置いてあったあのローファーは、みなとのものだったのか。
それにしても、なんでここにみなとが⁉
「家に来るんだったら、言ってくれればよかったのに」
そうしてくれていたら、わざわざA組まで探しに行かなくても、真っ先に家に帰ったのに。
「私がお願いしたんだよ、お兄ちゃん」
みやびがそう言う。ははぁ、どうやら俺の知らない間に、二人で何かを企んでいたみたいだな。
「どういうこと?」
「今日、みなとさんに家に来るようにお願いしたのは私なの」
なるほど、首謀者はみやびだったのか。でも、みやびがみなとをわざわざ家に呼ぶなんて、いったい何の用なのだろう。それに、そもそもの話……。
「俺もそうだけど、みなとも試験勉強で忙しいんだぞ。そんな忙しいときにわざわざ家に呼ぶなんて」
「ほまれ、みやびちゃんを責めないで。私は了承しているわ」
「……それならいいけど」
みなとがみやびを擁護する。そういうことなら、俺からは何も言えない。
「だったら、何のために?」
「あなたと一緒に勉強するためよ、ほまれ」
そう言うみなとの前には、問題集とノートが広げられていた。俺が帰ってくるまで、試験勉強をしていたようだ。
「昨日、お兄ちゃん、数学の勉強をしたでしょ?」
「ああ、そうだね」
「その時、私は見通しが甘かったと思ったよ。お兄ちゃんの学力が、こんなに危機的な状況だとは思ってなかったもん」
その言葉の後を、みなとが継ぐ。
「だから、ほまれの危機的な学力を上げるために、ここで勉強会を開くことにしたのよ。みやびちゃんの発案で」
「そういうことだったのか」
今まで見えなかった繋がりが、ようやく線となって浮き上がってくる。そういう背景があって今に至るわけか。
「それに、みやびちゃんに理系科目のわからないところを教えてもらえるから、これを利用しない手はない、っていうのもあるわね」
これでようやく合点がいった。つまり、みなとが我が家に来たのは、みやびと一緒に俺に勉強を教えるため、そしてみやびにわからないところを質問するため、だと。
「だから、ようやく今日の主役登場、っていうわけ」
「お兄ちゃん、帰ってくるのちょっと遅かったね」
「今日のことを知らなかったから、ちょっと学校でみなとを探していたんだ。一緒に帰ろうと思って」
「あ、そうだったんだ」
「事前に言ってくれれば、すぐに帰ったのに」
「ごめんごめん、お兄ちゃんをちょっと驚かせたくて」
それにしても、みやびとみなとって、そんなに仲が良かったんだな……。お互いがお互いを認知しているくらいかと思っていたけど、想像以上に交流は深かったようだ。
ともかく、今はグダグダしている場合ではない。さっさと勉強を始めた方が、はるかに賢い時間の使い道ができる。とにかく今は時間がないのだ。
俺はみやびにいろいろと言いたい気持ちを、ため息一つに集めて吐き出した。
「ほまれ、ここに来て」
みなとが自分の勉強道具を退けて、みやびとの間にスペースを作る。俺は荷物をそこに置くと、早速勉強道具をテーブルの上に広げる。
この配置だと、勉強中にわからないことがあったら、左に聞いても右に聞いても答えが返ってくるだろう。あぁ、なんて素晴らしい環境なんだ。みなとだけでも十分心強いのに。みやびまでいるなんて、まさに鬼に金棒、虎に翼、弁慶に薙刀、龍に翼を得たるごとし。
俺は数学の問題集を開くと、早速ノートに解き始める。昨日の復習だ。右のみなとは、化学の問題集を一心不乱に解いている。左のみやびは、みなとの数学のノートの丸付けをしている。
しばらく、ノートにペンを走らせる音だけが響く。いつも以上に勉強に集中できている。こんなに集中しているのは、高校受験のために勉強していた時以来かもしれない。
勉強を始めてから四十七分と三十秒。問題集のきりのいいところまで解いたようで、みなとがペンを置いた。ほぼ同時に、みやびが赤ペンのキャップをはめた。こちらも丸付けを終えたようだ。
少し遅れて、俺も昨日やったところを解き終えた。
「きりがいいようなので、休憩にしましょう」
「そうね」
「そうだね……」
みなとはうーんと思いきり伸びをする。ずっと机に向かっていたから、疲れが溜まっていたのかもしれない。一方、俺は機械の体だから肉体的な疲れなんて感じない。便利なものだ。しかし、精神的な疲れは感じている。ちょっと気分転換がしたいところだ。
少し休んでいると、みなとが俺に話を振ってくる。
「そういえばほまれ、結局アホ毛の正体はわかった?」
「いや、そもそも聞いていないな……」
俺は今もびょんびょん跳ねているアホ毛を手で押さえつける。手を離すと、また重力に逆らって元どおりになった。そういえば、この前の昼休みにみなとが聞いてきたな。そのときは、後でみやびに聞いておこうと思ったんだけど、結局忘れて聞けなかったんだった。
「どうしたの?」
「みやびちゃん、ほまれのアホ毛なんだけど、これには何か隠された機能があったりするのかしら?」
いや、ないだろ。
「あったりしますよ」
「マジか」
あるんかーい! このアホ毛に意味あるんだ! いつも重力に逆らって跳ねてて、時折ウザイなーとは思っていたけど、これにはいったい何の機能が備わっているんだ⁉
「えっと、みなとさん、スマホを出してください」
「わかったわ」
みなとは、自分のスマホを取り出す。
「それで、Wi-Fiの一覧を見てみてください」
みなとは指示どおりに操作する。数秒後、彼女の手が止まった。そのまま小さく呟く。
「これは……」
「つまり、そういうことです」
つまり、どういうことなんだ? みなとは察しているようだけど、俺はわからないから、ちゃんと説明してくれよ……。
仕方がないので、俺はみなとのスマホを横からのぞき見する。
そして、見てすぐに、みなとが納得した理由を俺も理解した。急いで自分のスマホも取り出して、Wi-Fi一覧を確認する。
「……みやび、『ホマレチャン』ってなんだ」
「そのままの意味だよ」
「つまり、俺にWi-Fiルーターが積んであると?」
「そゆこと」
なんだと……! 全然気づかなかったけど、俺の体にはルーター機能がついていたのか……。前にクラスメイトたちが、『Wi-Fi積んでないの?』みたいなことを聞いてきたけど、本当に積んでいたんだな。
「それじゃあ、このアホ毛は……」
「ただのアホ毛でも妖怪アンテナでもじゃなくて、電波を受信するためのアンテナだよ。電波が強いとピンってなるし、弱いとフニャフニャになるよ」
じゃあ、ピンと立っているのは、むしろ正常に電波が受信できている証拠だったのか。
というか、自分で自分のWi-Fiに繋げられたら、本当にインターネットし放題じゃん! わざわざキャリアの4Gだの5Gだのに契約せずに、SNSもやり放題、動画だって見放題だ。
「あ、でもテスト期間だから、お兄ちゃんの頭の回転をよくするためにも、それにカンニング防止のためにも、この機能は切っておいた方がいいかもね」
「え」
みやびは自分のスマホを取り出すと、素早く操作する。
そして、俺が何かを言う前に、あれほど元気に立っていたアホ毛は、もともと存在していなかったかのように、ペタンと倒れた。そのまま他の髪に交じって見えなくなる。
「それじゃ、テスト勉強を再開しましょう。お兄ちゃん、そのノート貸して」
あーあ、Wi-Fiのパスワードを教えてもらう機会を逸してしまった……。自分で自分の体に搭載されているWi-Fiに繋げられないのは皮肉なものだが、Wi-Fi機能までも制限されてしまった。
悲嘆に暮れている間に、みなとも休憩を終わらせてテーブルに向かう。
しかし、Wi-Fi機能が切られていても、正直あんまり変化はないな……。思考が特別速くなった感じはないし、別段意識がクリアになったわけでもない。思考能力や計算能力の上限が上がった、ということだろうか?
「お兄ちゃん、採点終わったよ」
「お、どうだった?」
「うーんとね、昨日よりはマシになったけど……ちゃんと復習した?」
「うっ……ごめんごめん」
やはり、まだまだ間違えた問題は多かったみたいだ。
「それじゃあ、今回は十問間違えたから……」
「え」
「十回ね」
まさか……昨日やった罰ゲームか⁉
「まだ続いているのかよ⁉」
「当たり前でしょ? いったいいつからその罰ゲームが終わったと錯覚してたの?」
そう言いながら迫ってくるみやび。危機管理して変身したいところだが、あいにく俺にはそんな便利な機能はついていない。急いで逃げようとするが。
「みなとさん! お兄ちゃんを!」
「任せなさい」
「んぎ!」
次の瞬間、後ろから両腕をガッシリと掴まれる。おいおい、みなとまでグルだったのか!
「みなと!」
「ごめんなさい、ほまれ。みやびちゃんがこれくらいのスパルタは必要だって……」
彼女は申し訳なさそうに視線を逸らした。くそー! みなともそっち側に堕ちてしまったのか!
「というわけで、十回ね♪」
「ちくしょおおおおおおおお!」