「みやび、数学教えて!」
俺は帰宅するとすぐに、リビングでテレビを見ながらソファーでくつろいでいるみやびに、そう頼んだ。それに対して、彼女は面倒くさそうな目で俺を見る。
「お兄ちゃん、それくらい自分で勉強してよ~」
「自分でわからないから、こうしてお願いしているんだよ」
「私、中学生だから高校数学なんてわかんな~い」
嘘である。
確かにみやびは中学三年生だが、実際はロボット工学の天才として学校をサボって研究所に通うほどの理系エリート。俺よりもはるかに頭がいい。高校数学なんてわかんない、と言っているが、少なくとも数Ⅲの内容までは完璧に理解できているはずだ。
「そんなわけないだろ! みやびなら三角関数なんて余裕だろ」
「サンカクカンスウ? ナニソレオイシイノ?」
「だーっ!」
あくまでしらばっくれるみやびに、俺は頭を抱えた。教えてもらわないと、本当に数Ⅱで赤点を取ってしまう!
仕方がない。ここは強硬手段をとろう……。
「教えてくれないと、みやびにご飯作ってあげないぞ! あと、家事も全部やらないからな!」
「それは困るよお兄ちゃん!」
予想どおりみやびは反応した。ガバッと勢いよく上体を起こす。
ご飯を作らないだけだったら、みやびはコンビニ弁当とかエナジードリンクで凌ぐだろう。しかし、その他の家事をやらないとなると、さすがのみやびでも堪えるはずだ。なにせ、天野家の家事を担っているのは俺だし、みやびにそのようなスキルはまったくないのだ。数日で家の中がゴミ屋敷のように物が散乱してしまうのがオチだ。
「じゃあ数学教えてよ。どうせ学校サボって暇なんでしょ?」
「むぅ……」
それを言われてみやびは黙り込む。前にみやびと一緒に外出したとき、学校に来てね、って同級生から言われていたのに……。結局一度も行っていないのかよ。
みやびはため息をついた。
「……仕方ないな、わかったよ。それよりも先に、まず夕ご飯にしよ!」
「……後で数学ちゃんと教えてくれよ」
「わかってるよ! でもまずは腹ごしらえから。腹が減っては戦はできぬのだよ、お兄ちゃん」
「へいへい」
なんとかみやびに数学を教えてもらう約束を取り付けた。てか、みやびってこんなに面倒くさがりだったかなぁ……。
俺は手早く夕食を作ると、みやびの前に出す。そして、さっき図書室でみなとと勉強していたときのことを思い出して、疑問をぶつけた。
「ねぇみやび」
「どしたの?」
「あのさ、俺の記憶力ってどうなっているの? この体に移ったから、てっきり完全記憶能力でもゲットできたのかと思ったんだけど、なんかそうじゃなさそうなんだよね」
「あぁ、なるほどね。暗記テストで悪い点数でも取ったの?」
「いや、世界史が全然覚えられなくてさ」
俺がそう言うと、みやびが当然と言わんばかりに返す。
「結論から言うと、お兄ちゃんの記憶力は人間だった頃とまったく変わってないよ」
「あぁ……そうなんだ」
俺の一縷の望みは打ち砕かれた。メモリーの異常などではなく、ただ以前から変化していないだけだった。
「もし記憶力が向上したと思ったら、それはプラシーボ効果みたいなものだと思うよ」
「プ、プラ……?」
「あのね、お兄ちゃんのメモリ自体は、超高性能なんだよ。容量めっちゃデカいよ」
「へぇ~、何ギガくらい?」
「ギガとかいうスケールじゃないよ。えっとね……何十ペタバイトもあるんだよ」
「ペタ?」
「ギガの百万倍だよ。人間の脳の容量が一ペタバイトといわれているから、それよりもはるかに大きいんだよ」
そ、そんなにあるのかよ……。全然ポンコツでもなんでもないじゃないか! むしろ生身の人間よりもはるかにいい!
「でも、これはあくまでお兄ちゃんのハード面の話ね。当たり前だけど、お兄ちゃんはその有り余っている容量を全然使えてないよ」
「どゆこと?」
「あのね、私は人間だった頃のお兄ちゃんの脳のデータを、ロボットの頭脳部分に丸ごとコピーしただけなの。つまり、その体の中で、お兄ちゃんをシミュレーションしている状態なんだ。だから、性格も癖もそのまま。ハードが変わっただけで、お兄ちゃんの能力自体はなんにも変わっていないってわけ」
「つまり、記憶力も……」
「そう。だから、覚えるのはこれまでどおり、自分で頑張ってね」
つまり……ポンコツなのはこの体じゃなくて俺、だと。
今の説明を聞いて改めて感じるが、体の動かし方もそうだけど、俺ってこんなにハイスペックな体を持っていながら、それをまったく活かせていないんだな。情けない限りだ。
みやびは食べ終わると、食器を台所へ片付ける。
「食器を洗うのは私がやるから、お兄ちゃんは勉強道具を取ってきてリビングで待ってて」
「わかった」
俺は自分の部屋から数学の問題集とノートと筆箱を取ってくると、リビングで正座待機する。しばらくすると、食器を洗い終わったみやびがリビングにやってきた。
「じゃあ始めよっか」
「よろしくお願いします」
「範囲はどこなの?」
「この三角関数の合成、ってところ」
みやびは問題集を手に取ると、三角関数のところをパラパラとめくって目を通していく。そして、目は問題集に向けながら、言葉をこちらに向けてくる。
「お兄ちゃんさ、私に教えてもらうなんて、嫌なんじゃないの?」
「どういうこと?」
「だってさ、私、妹だよ? 年下に教えられるのって、なんか嫌じゃない?」
……みやびの言いたいことはわかる。確かに、俺がそんな気持ちなんかまったく感じない、と言ったら嘘になる。
だけど、今はそんなことを悠長に言っている場合ではないのだ。赤点回避のため、できることなら何だってやらなきゃいけない。猫の手だって借りたい気分なのだ。それに、そもそもみやびに張り合うのはとっくのとうに諦めている。
「そうかもしれないけど、そんなことを気にしている場合じゃないんだ。頼むから教えてくれよ」
「わかった……で、どの問題がわからないの?」
「なんかね、問題を解くと絶対に間違えるんだよ。基本は理解しているはずなんだけど……」
「うーん、とりあえずこのページの問題を解いてみてよ」
「はーい」
俺はみやびに指定されたページの問題を見る。三角関数の合成の基本的な問題ばかりだ。これくらいならできるはずだ、と俺は早速取りかかる。
こうして問題を解き始めた直後に、みやびはサラッと付け足した。
「言い忘れていたけど、一問間違えるごとにお兄ちゃんのおっぱい一回揉むから」
「うん……うぇえ⁉」
その言葉を理解するのに数秒かかった。思わずみやびの顔を見る。
「さっきのお返しだよ。これくらいじゃないと釣り合わないでしょ?」
俺は身の危険を感じて、みやびから距離を取る。対するみやびは、その分俺に近づく……なんてことはせず、ただニッコリ笑いながらこちらを見ているだけだった。
「大丈夫だよ。間違えなければいい話だもん。それとも、私に数学を教えてもらいたくないの?」
「うぅ……悪魔だ……」
「ひどいなー。小悪魔と言ってほしいなー」
小悪魔なんかじゃない。大悪魔、いや魔王だ。俺は渋々元の位置に戻って、解くのを再開する。
悪戦苦闘すること三十一分。俺は課されたノルマをようやく達成した。
頭を使いすぎて疲れた……。もうsinθとかcosθとか見たくも書きたくも考えたくもない。
「や、やっとできた……採点よろしく、みやび」
「はいよー」
俺はノートをみやびに手渡した。みやびは問題集の解答と、俺のノートの答えを照らし合わせて丸付けしていく。
数分後、バタンとノートを閉じる音がした。見ると、みやびが両手で俺のノートを閉じたところだった。彼女は微妙な顔で固まっている。
「……うん」
「どうだった?」
みやびは、それだけ言うと、ノートをスッとテーブルの上に置いた。
「お兄ちゃん、これ、真面目に解いたんだよね?」
「そうだけど」
「計算を省略したり、勘で答えを適当に書いたりしてないよね?」
「うん……」
なんだか嫌な予感がする。まさか、俺の答えが半分くらい、間違っていた……とか。考えたくない未来を考えてしまう。
「もしかして、俺の答え、かなり間違っていたとか?」
「……どのくらい間違っていたと思う?」
「……半分くらい?」
おそるおそる口に出した。これでも全力でやったつもりだから、半分も間違っているとは思いたくない。
みやびは、はぁ~とクソデカため息をついてから言った。
「ほぼ間違ってるよ」
「なっ……⁉」
ほぼ⁉ 嘘だろ、あんなに頑張ったのに……。
「お兄ちゃんがここまでできないなんて、予想外だよ……」
「ごめん……」
みやびは頭を抱えると、無言で数秒間動きを止める。そして、自分の髪の毛をワシワシとかき混ぜながら上を向くと、また動きを止める。
「みやび……?」
「これは早急に対策した方がよさそうだね……このままだと、お兄ちゃん、本当に赤点を取っちゃうかも」
みやびがこちらを向く。その表情は、今までとは違った、ガチになったときのものだった。
「お兄ちゃん、今日から一週間、ガチ勉するよ! 覚悟はいい⁉」
「お、おう……!」
どうやらみやびは本気になったようだ。それは裏を返せば、みやびがガチモードに入るくらい、俺の状況はヤバいということだ。本気になった時のみやびの執念は凄まじい。それを知っている身として、俺も奮って勉強しなければならない。
俺は自分に言い聞かせるために、あえて声を出す。
「よし、勉強するぞ……!」
「あ、その前に」
みやびが待ったをかけた。
「どうしたの?」
「えーっと、今ので十八問間違えたから……」
あ、ヤバい。俺はみやびのその言葉の意味を理解して、立ち上がって逃げようとする。
しかし、それよりも早くみやびが俺をホールドした。浮きかけた腰が強制的に戻る。そして、耳元でみやびが呟いた。
「十八回、だからね」
「いやっ、ちょっ、まぁああっ、あっ、あーっ‼」