今日もあっという間に時間が過ぎて、すべての授業が終わった。
一時間目から球が顔面にヒットするなんて、本当にツイていない。でも、あれはよそ見をしていた俺にも悪かったところがある。
ただ、不幸中の幸いというか、球が顔面に思いっきりぶつかって、その勢いでぶっ倒れて思いきり頭を地面にぶつけたけど、結局どこも壊れていなかったようで、それからの授業には何も支障はなかった。これはきっと、この前の事故を受けて、みやびが俺の頭を強化してくれたからかな? 確かにみやびの言うとおり、結果オーライだった。
そして、帰りのSHRが始まる。諸連絡が手短に行われた後、帰りの挨拶をする直前に、斎藤先生が言い忘れたかのように付け加えた。
「中間テストまであと一週間だから、そろそろ勉強に本腰入れろよ~」
そして、挨拶を済ませると、放課後になった。
今日で試験まであと一週間。今日から『テスト期間』になり、部活動は一斉に活動を停止する。もちろん、その空いた時間を、勉強の時間に充ててもらうためだ。
もうテストまであと百六十一時間しかないのか……。これまで体のことや新しくなった学校生活、デートなどでバタバタしていたから、あっという間に来てしまった感じがする。光陰矢のごとしとはまさにこのことか。
テスト対策はまだあまりできていない。しかも、そんな状況にもかかわらず、俺には赤点スレスレの苦手教科があるのだ!
この学校は、一応進学校を謳っているので、赤点を取ってしまった人への対応はかなり厳しい。補習もあるし、今学期の評定が大きく下がってしまう!
周りを見渡すと、かなりのクラスメイトが残って勉強を始めていた。このクラスは運動部員の割合が高いので、放課後になるといつもすぐに人がいなくなってしまうのだが、こんなに残って自習しているとは……それだけ皆本気なのだ。
のんびりしている場合ではない。俺も、今すぐにでも勉強を始めなければ!
そう思って、俺がバッグから教科書を取り出そうとした時だった。
「ほまれ」
教室の外から、俺の名前を呼ぶ声。ドアのところを見ると、ちょうどみなとが教室の中に入ってきたところだった。バッグを肩にかけているので、帰る気なのだろう。
「みなと、もう帰るの?」
「……逆に聞くけど帰らないの?」
みなとは逆に疑問を呈してくる。それもそのはず、部活がない日であれば、俺はいつもすぐに帰宅しているからだ。
「テスト前だから、勉強していこうかな、って思って」
「へぇ……なら私も勉強しようかしら」
みなとは俺に便乗してくるようだ。それなら、と俺はみなとにお願いする。
「それだったら、俺に勉強教えてよ」
「いいわよ」
実は、みなとはいくつかの科目で学年トップテンに名を連ねるほど頭がいい。対する俺は、赤点スレスレの科目があるので、全体としては中の下くらいの成績だ。
時間があまり残されていない今、家に帰って一人で勉強するよりも、みなとに教えてもらった方が手っ取り早い。それに、親しい人から教えてもらった方がよりわかる気がするし、その人のためにもなる……と聞いたことがある。
でも、ここで勉強するのはなんだか気が引ける。俺とみなとは話しながら勉強することになるだろうし、そうなったときに、静かに勉強しているクラスメイトの迷惑になってしまうからだ。
「ここじゃない方がいいよな……」
「それなら図書室に行きましょう。あそこは意外と人がいない穴場なのよ」
「そうなんだ。じゃあそうしよう」
俺たちは図書室に足を向ける。
この学校の図書室は、校舎の隅っこの方にある。そして、結構広い。確か四万冊以上の蔵書があったはずだ。それに、冷暖房もあるし、広々とした自習スペースがある。しかもその一部では会話OK。勉強するにはうってつけの場所なのだ。
図書館に着くと、俺たちは早速中に入る。放課後になったにもかかわらず、図書室は閑散としていた。生徒たちが本を読みに来る場所である図書室としては芳しくない状況だが、話しながら勉強する俺たちからすれば、ありがたい状況だった。
俺たちは、自習スペースの奥の方に並んで座る。
「それで、どこを教えてほしいのよ?」
「うーんとね……とりあえず化学かな」
俺は、今日ちょうど授業があったばかりの化学の教科書を取り出す。俺が休む前までは理論化学をやっていたはずだが、俺が休んでいる間に有機化学に入ってしまっていた。最初の方の授業を丸々欠席してしまったので、今やっているところが全然わからないのだ。
みなとは教科書をパラパラめくると、問題を出してくる。
「じゃあ確認問題ね。アセチレンに塩素を二回付加するとできる物質は?」
「…………ジブロモメタン?」
「…………」
「みなと?」
「もう一度聞いてもいいかしら?」
「だから、ジブロモメタン?」
「どうやったらそんな答えが出てくるのよ……」
みなとが信じられない様子でため息をつく。え、俺、そんなにヤバいこと言った?
「正解は、1,1,2,2―テトラクロロエタンね」
みなとは淀みなく化学物質の名前を言っていく。全然答えが違った。なんだよ『テトラクロロエタン』って。そんな長い名前の物質なんて、知らない!
「……もう少し簡単なものにしましょうか。⌬で表される化合物の名前は?」
「…………」
なにこの構造式! 普通はCとかHとかOとかの文字が入っているはずだが、これにはまったく何も入っていないぞ⁉ 確か、授業中にどこかのタイミングで見た……ような気がするが、全然覚えていない!
「わかりません……」
「ベンゼンよ。ベンゾールとも言うわね。⏣と書くこともあるわ」
全然わからなくて頭がパンクしそう。こんなもの、本当に習ったっけ……?
みなとは再度ため息をつくと、教科書を閉じた。
「ほまれ、もしかして休んだところのプリントを貰っていないの?」
「……うん」
そういえば、後で貰っておけばいいや、と思ってそのまま忘れていたんだっけ。先生から何も言われなかったから、今日まで貰っていないままだった。
「なるべく早くプリントを貰ってやりなさい。そうじゃないと、有機化学を理解するのは相当難しいと思うわ」
「そっか……」
どうやら俺には有機化学の基礎的な知識が欠落しているようだ。基礎が抜けていたら、いくら発展を学んでも身に着かない。発展は基礎の上に積み重なるものだからだ。
プリントを貰っていない今、化学の勉強をしてもあまり意味がないだろう。俺は化学の教科書をバッグにしまった。
「他に今勉強できる教科はない?」
「世界史ならあるよ」
「じゃあそれをやりましょう」
みなとは世界史の教科書を開く。世界史は化学と違って、みなとのクラスと俺のクラスでは担当の先生が違う。だが、教科書を開いたページから察するに、彼女のクラスも今は古代ローマをやっているようだ。俺と同じところだ。
「じゃあ問題ね。ローマ帝国の五賢帝を、古い順に答えなさい」
あー、授業でやったやつだ! でも、先生がサラッと言っていただけだから、ぼんやりとしか思い出せない!
俺は頑張って記憶の引き出しをこじ開ける。確か、最初の人の名前は……。
「え、えーっと、ね……ね、ねりまき?」
「ネルウァね。次は?」
「ト……トラ……トヤライス?」
「トラヤヌスね。ローマ帝国の最大版図をつくった皇帝よ。次は?」
「はったりたおす」
「ハドリアヌスね。ハドリアヌスの城壁で有名ね。次は?」
「アントニウス……ピアス?」
「アントニヌス・ピウスね。ピアスじゃないわよ。最後は?」
「マルクス・アウレリウス・アントニヌス。またの名を哲人皇帝」
「なんで最後だけスラスラと言えるのよ! 合ってるけど!」
みなとが思わずツッコんできた。なぜか知らないが、これだけは鮮明に記憶に残っている。名前が長いからかな……?
「というか、ほまれはアンドロイドなんだから、なんでもすぐに完璧に記憶できるんじゃないのかしら?」
「そうであってほしいけれど……どうやらそうじゃなさそうなんだよ」
俺も最初はみなとの言ったとおりだと思っていた。きっと十万三千冊の本をまるっと記憶できるくらいの記憶能力が俺にも備わったのか! って興奮したよ。
でも現実はそうじゃない。この体で過ごすうちに、どうやら俺の記憶能力は人間だった頃と比べてほとんど、いやまったく変わっていないらしい、ということがわかった。つまり、重要なことは覚えられるが、些細なことはそのうち忘れてしまうのだ、と。
これじゃあポンコツアンドロイドじゃねぇか! 見たもの聞いたものすべてを記憶できないのはまあいい。けれどもテストに出てきそうな重要なところまで忘れるのはダメだ! 実はメモリーがイカれているんじゃないのか……?
「それなら、地道に覚えていくしかなさそうね」
「そうだな……」
この日は、最終下校時刻になるまで、みなとにみっちり勉強を教えてもらった。