ついにこの日がやってきた。
これまでにも俺の周りは、いろいろな点が変化してきた。制服はスラックスからスカートになったし、学生証の写真も差し替えられた。トイレも男子トイレじゃなくて女子トイレに行かなくてはならなくなった。
そして、今日。その中でも最大のイベントがやってくる。最大、というのは、俺が思う中でも一番精神的に衝撃がデカい、という意味だ。他の人からしたらなんでもないかもしれないが……いや、なんでもないことはないだろう、きっと。
「よし、これで朝のSHRは終わりなー」
朝のSHRが終わると、俺は真っ先に席を立つ。このときの俺の顔は、さぞかし緊張でめちゃくちゃ固くなっていただろう。もしかしたら無表情になっていたかもしれない。
「先生」
「おお、どうしたー天野」
俺はここで自分を落ち着くために一拍置く。そして、覚悟を決めると斎藤先生の目を真っすぐ見て、問いかける。
「俺は一時間目の体育……どっちに参加すればいいですか⁉」
先生は即答した。
「女子の方な」
「やっぱりー‼」
「だってお前、その体で男子の方に参加するのか? 授業中に男子に欲情させる気か?」
「ですよねー……」
予想はしていたけど、やっぱりそうなるよな……。
俺の学校では、授業内容によって体育が男女別々、別種目が行われることがある。今の時期はまさに別々の種目をしている最中で、男子はテニス、女子はソフトボールをしている。
これまで俺はテニスをしていたけれど、今日からソフトボールか……。まあ、両方とも苦手というわけではないので、そこは問題ではない。
俺は自席に戻ると、自分のスクールバッグから体操着を取り出した。少しブカブカだが、問題なく着れることはあらかじめ家で確認済みだ。
周りを見ると、すでに教室には男子はほとんどいなくなっていた。テニスコートは更衣室から遠いので、早く行かなければ間に合わないのだ。周りの男子と同じく、手に体操着を入れた袋を持った佐田が、教室からの去り際に俺に声をかけてくる。
「どうだった?」
「女子の方に参加しろ、だって」
「まあそうだよな。その見た目で参加されたら……俺らだって戸惑うわ」
そりゃそうだ。想像に難くない。
ソフトボールを行う校庭は、更衣室の近くなので、まだ女子は大半が教室に居残っている。だが、俺は席を立つと体操着を手に、佐田と一緒に教室を出て更衣室へ向かった。
「授業もそうだけど……一番問題なのは、授業前と授業後なんだよ」
「……どういうことだ?」
「だって、女子更衣室では周りでわんさか女子が着替えているんだぞ? いったい俺はどうやって着替えればいいんだよ」
「……トイレ?」
「確かに」
確かにそうだけど、できればトイレでは着替えたくないなぁ……。そこは本来は用を足すところであって、着替えるところではないからな。
俺は、見た目は女子でも中身は男のつもりだ。他の女子の着替え中を見るのは、俺の精神衛生上、あまりよろしいことではない。しかし、自らその場所に飛び込んでいかなくてはならなくなるなんて……とんだ皮肉だ。
そんなことを話しているうちに、俺たちは更衣室前の階段に辿り着いた。すぐそばの階段を下れば男子更衣室、そのまま真っすぐ行けば女子更衣室だ。
「それじゃあ、頑張れよ、ほまれ」
「おう」
佐田と別れた後、俺は足早に女子更衣室へ向かう。
早く着替えて、さっさと出る。着替えている途中で女子が来たら、女子の方を見ずに、わざとちんたら着替えて、誰もいなくなった後、最後に出る。俺の心を荒立てずに穏便にことを済ますには、そうするしかない。
幸いにも、女子更衣室の照明はまだついていなかった。つまり、俺が一番乗りだということだ。
中に入って照明を点けると、俺は隅っこのロッカーに荷物を放り込んでそそくさと着替え始める。どれだけ時間をかけずに着替えを完了できるかが重要だ。
正直に言うと、俺の着替えるスピードは速くない。まだ早着替えができる領域には達していないのだ。
ボタンを外すのが酷くもどかしい。途中でわけがわからなくなりそうだ。
そうやって着替えているのに手間取っていると、外からザワザワとたくさんの人の声。ちくしょう! 予想よりも早く来てしまったか……!
この調子だと、俺が着替え始める前に彼女たちが更衣室に入ってきて着替え始めてしまう。こうなっては、『彼女たちが着替え始める前に更衣室を去る』作戦は失敗してしまう。
となれば、作戦変更だ。すなわち、『彼女たちが着替え終わった後に更衣室を去る』作戦開始だ。
俺は着替えるスピードを緩め、できるだけちんたら着替え始める。
次の瞬間、更衣室のドアが開いて、女子が一気に更衣室の中に入ってきた。瞬く間に更衣室の中が騒がしくなる。
「あれ、天野じゃん! もう来てたんだ~」
「お、おう……檜山か」
彼女は声をかけると、特に何かを気にする様子はなく、俺の隣のロッカーに荷物を置いた。そして、特に何かを気にする様子もなく、服を脱ぎ始めた。
「な⁉」
俺は慌てて目を逸らした。
なんで目の前に俺がいるのに平気で脱げるんだよ! 俺、思春期真っただ中の男だぞ! ちょっとは気にかけてくれよ! 俺はただひたすら目を逸らすことしかできない。ツインテールをポニーテールにすることだけに集中する。
も、もしや、俺は檜山にはもう男として見てもらっていないのか……?
考えることに没頭して、しばし俺の注意が周りから逸れる。上半身は下着のまま。
俺が無防備な姿をさらしたちょうどその時を狙われた。
「えいや」
「ひゃっ!」
思わず短く甲高い悲鳴が出る。いつの間にか檜山が後ろに回り、俺の脇の下から手を通して胸をがっちりと鷲掴みしていた。
「天野……さてはあんた、着痩せするタイプだね」
「ふぇ、ふぇえぇぇ……」
ちょっ、手を……手を動かすな! 固まって動けなくなる俺の背後で、檜山が真剣な口調で分析を始めた。
「この前Eって言ったけど、Fはあるね……ワンチャン、Gあるかも……」
「おおぉ……」
おおぉじゃねえよ飯山ぁ! 傍観してないで助けてくれよ!
檜山の手が離れた時には、もうここが女子更衣室だとか、周りが着替え中の女子だらけとか、そんなことはどうでもよくなっていた。
ちくしょう、またセクハラされた……。そんな無力感を味わいながら、俺はノロノロと着替えを続ける。
「ほまれちゃん、ボーっとしてると遅れるよ」
「う、うん……」
着替え終わった途端、飯山に手を引っ張られて移動する。てか、いつの間にか飯山の俺への呼び方が『ほまれちゃん』になっているぞ。完全に女子扱いされている。
グラウンドに移動すると、授業が始まった。男子はテニスコートでテニスをやっているので、女子だけで広々と使える。
ソフトボールの授業も最後の方とだけあって、今日のこの時間の後半は試合になるらしい。
試合に入る前に、やることはたくさんある。まずは準備運動、そしてグラウンドを一周。男子はいつも二周しているので、一周しかしなくていいのは楽だ。
そして、ペアでキャッチボール。出席番号順なので、俺は飯山と組むことになった。
「ほまれちゃん、球投げるの上手だね」
「そうかな?」
キャッチボールをしていると、飯山が俺のことをそう褒めた。
確かに、研究所で体力テストをやったときよりかは、だいぶコントロールがマシになった。いや、体が変わる前にやっと戻っただけだ。あの時がただ酷かったのだ。
これも、みやびの調節のおかげだな……。
練習が終わると、試合が始まった。クラスで二つのチームに分かれる。
最初に俺のチームは攻撃だった。しかも、出席番号順で打つことになっているから、最初の打者は、俺。
バッターボックスに入るとバットを構える。なんか、人間だったときと比べてバットの重さをあまり感じない。金属製であるとはいえ、まあまあ重さがあるはずだが、まるでプラスチックのバットを持っているかのような軽さだ。
で、でも構えるときに、若干胸が邪魔になる……。もっと小さくてよかったのに……。
「ふっふっふ……あたしの球を打ち返せるかな? お手並み拝見!」
対峙するピッチャーは檜山だ。周りの女子の話によれば、檜山は速い球を投げるので、ほとんど誰も打てないらしい。しかもコントロールが抜群だとか。
さぁ……どうするか。
檜山はボールを投げてきた。
確かにボールは速い。一直線にキャッチャーミットへ向かってくる。俺が外したら確実にストライクになるだろう。
だが、俺の視界に映るボールは、そんなに速くなかった。いや、速い。速いことはわかるのだが、そう感じないのだ。感覚、それだけじゃなくて思考までもが現実から妙に分離している、不思議な感覚。もしかして、俺がアンドロイドになったからこんなことが起きているのか……?
まあいい。とにかく、打てそうだから、打たせてもらうだけだ。
俺はバットを握る手に力をこめる。ギチッ、とバットから音が鳴った。
そして、俺はボールに当たるように、全力を出して思いっきりバットを振った。
「なっ⁉」
次の瞬間、カアアァァァァン! と空気を割くようないい音を出して、ボールが天空へとすっ飛んでいった。白いボールがみるみる遠くなって小さな点になっていく。誰もがあっけにとられて見守る中、ボールはグラウンドの境に聳え立つ防球フェンスを越え、隣のテニスコートの中へ落ちていった。
「う、嘘やろ……」
信じられない様子で、ガックリと檜山が膝をついた。
正直、俺もあそこまですっ飛んでいくとは思わなかった。
でもホームランはホームランだ。俺はダイヤモンドを一周した。
しかし、檜山はやっぱり強かった。それ以降の打者には、打たれはしたものの、得点はいっさい許さなかった。ちょうどバッターが一巡したところでチェンジ。俺たちは守備側になる。
俺が事前に割り当てられたレフトのあたりに行こうとすると、飯山が俺に話しかけてきた。
「ほまれちゃん、ピッチャー、交代してくれない?」
「え?」
「ちょっと肩の調子が悪いの。ほまれちゃんなら代わりにできるかなー、って」
「ああ……それなら」
というわけで、急遽、俺がマウンドに立つことになった。
すでに相手側の準備は終わっている。あとは俺が球を放つだけ。
俺は勢いをつけると、球を放つ。キャッチャーミットに真っすぐ吸い込まれるようにして、スバン! と球が気持ちのいい音を立てて収まった。
その調子で思いっきりストレートを投げていたら、奪三振した。チェンジ。
再び打席には俺が立つ。対峙するのは檜山。彼女はちょっと疲れているようだ。しかも、打者が俺だからか、少し焦っているようだ。
檜山は、余裕のない表情で、真剣にこちらを見つめている。そして、突然投球してきた。
打とうかと思ったが、直感に打たない方がいい、という結論に至る。俺はバットを止めて動きを見守る。
ボールは俺からかなり遠いところを通り過ぎて、突き出されたキャッチャーミットにギリギリ収まった。ボールだ。
球が檜山に戻る。間髪空けずに、檜山がまた投げる。だが、今度は上の方に大きく逸れた。またもやボールだ。
その次も、ボールになる……かに思われた。だが、見送ったその瞬間、球がギリギリストライクゾーンに入っていたことを察した。打つにはあまりにも遅すぎる。
「……やっと取れた」
彼女は、ギリギリを攻める戦略をとっているようだ。コントロールがいいから、近くまで球が来ないとボールかストライクか見分けがつかないし、球速もあるから対応しづらい!
檜山がまた投げる。今度は普通のストレートのようだ。
さっきのように飛ばしすぎては、テニスをやっている男子に迷惑だから、力を適度に抜いてバットを振る。
だが、俺がそうする直前に、球が急に高度を落とし始めた。俺はバットを振ったことを後悔する。しかし、もうその動きを止めることはできない。今更止めても空振り判定になってしまう。
フォークボールだ。アンダースローでは普通できないはずだが、奇跡が起こったのか、それとも檜山自身の技術なのか……いずれにせよ、何気なくスゴいことをやっていた。
俺は空振りをし、ボールは足元でワンバウンドしてからミットに収まった。
「これで、あとストライク一つだね」
自信が戻ってきたのか、檜山は余裕のある表情を見せる。
ちょっとムカッとした。次こそは絶対に打ってやる!
ツーボールツーストライクノーアウト。俺に後はない。
檜山が投球フォームを見せる。だが、その姿勢が若干崩れているのを見て、俺は次がボールになると判断した。絶対にストライクゾーンには来ない。
打たなくていいだろう、とボールから注意を逸らし、俺が気を緩めたその瞬間だった。
檜山の表情が豹変した。口の形が大きく変わる。
「危ない!」
「ふぇ⁉」
檜山の緊迫感のある声がした。注意をボールに向け直した時にはもう遅い。目の前に白い丸が超高速で接近していた。俺の顔面へと、ボールが逸れたのだ。
残念ながら、俺に避ける時間は残されていなかった。
次の瞬間、ボコーンという音とともに、俺の顔面にボールがクリティカルヒットし、そのまま天地がひっくり返った。