四月下旬のある日、俺とみやびは、いつものスーパーへ向かっていた。
事故に遭って体が元に戻ってから、約一ヶ月が経った。最初こそほとんど動けなかったが、懸命にリハビリを続けた結果、杖をつけばなんとかゆっくり歩けるくらいには回復した。
ちなみに、これは普通よりもものすごく回復が早いらしい。その理由をみやびに尋ねたところ、俺が薬で眠らされている間に、筋力の低下を防ぐために定期的に機械で刺激を与えたからだ、と言っていた。それでも、この速度での回復は予想外だとみやびは付け足していた。
「お兄ちゃん、焦らないでいいからね」
「わかってるよ」
俺はみやびの肩も借りながらゆっくりと進む。そして、スーパーの入り口でカートを取ると、俺はそれで体を支えた。
今回、スーパーに来た目的は、買い出しというよりかは俺のリハビリのためだった。最近退院して、リハビリの場を家の中に移したのだが、ずっと中にいてはつまらない。そのため、俺の希望で、みやびの付き添いの上スーパーに出かけることになったのだ。買い物はそのついでだ。
もちろん、俺は歩くのがせいいっぱいなので、カートを押すことしかできない。その他のことはみやびがすべてやってくれた。なんだか申し訳ないと思うと同時に、早く普通に動けるようになって、一人で買い物ができるようになりたいと思う。
無事に会計を終えた後、買ったものを袋詰めしてスーパーの外に出る。荷物はもちろんみやびが持っている。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ……ちょっと疲れた」
少し動けるようになったとはいえ、失った体力はそう簡単には戻らない。スーパーに行って出てきただけなのに、俺は息切れしてしまっていた。
すると、俺の背後から聞き慣れた声が聞こえる。
「あれ、みやびじゃん!」
「……なぎさ!」
こちらになぎさちゃんが走ってきた。その後ろからは、慌てて走ってくるみなとの姿も見える。
「偶然だねー! 買い物?」
「そうそう、あとは……リハビリかな」
「リハビリ? ……あ、ども、こんにちは」
「こんにちは」
なぎさちゃんはどこか他人行儀に挨拶をしてきた。ここで、みなとがなぎさちゃんに追いつく。
「もう、勝手に走らないでって、何度言ったらわかるの……」
「ごめんっておねーちゃん……」
「あ、みやびちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
「それに、ほまれも」
「おう」
その一言に、なぎさちゃんは目を丸くした。
「え、え、え⁉︎ ほまれさん⁉︎ おねーちゃん、この人が?」
「そうよ……ああ、なぎさはまだ直接会ったことがなかったわね。紹介するわ、私の彼氏のほまれよ」
「どうも、この体で会うのは初めましてかな」
えーっ、となぎさちゃんは驚きを隠せない様子だった。
「ほまれさんといえば、身長のちっちゃい可愛らしいイメージだったから……全然違うじゃん!」
「そうよ。こっちが本来のほまれよ」
「そうなんだー……改めまして、古川なぎさです」
「知ってるよ」
「それにしても、背高いしカッコいー」
「あ、ありがとう」
なぎさちゃんは俺を見上げる。というか、今ここにいる四人の中では俺が一番身長がデカいので、皆を見下ろす格好になる。今までは一番身長が小さかったので、真逆の立場だ。皆のつむじが丸見えだぜ!
「ほまれはリハビリ中かしら?」
「そうだよ。たまには外に出ようと思ってね」
「そうなのね……学校にはいつ頃行けそう?」
「もう少しかかるかな。早ければ、ゴールデンウィーク明けくらいになると思う」
「そう。楽しみに待ってるわ」
古川姉妹と別れると、俺たちは帰宅する。俺は家に入る前に、何の気なしにポストを覗いた。すると、一通の封筒が届いていることに気づく。
俺はそれを回収すると、リビングに持っていった。にゃーん、と俺の足にじゃれつくあずさをよしよししながら、俺はみやびに声をかける。
「みやび、なんか封筒が来ていたんだけど」
「どれ?」
「これ。国際郵便で外国から来たらしいんだが……読める?」
表にはキリル文字で何かが書いてあった。しかし、肝心の文字が読めない。かろうじて国際郵便で届けられたことはわかったのだが、それ以外の内容がまったくわからなかった。
すると、封筒を覗き込んでいたみやびがあっ、と声をあげる。
「これ、サーシャからだよ!」
「えっ、マジで⁉︎」
サーシャは、三月末、俺が入院している間に予定どおりにロシアに帰った。みやびは空港まで見送ったのだが、俺はその場に立ち会えなかったのだ。
そのサーシャから俺たち宛に封筒が届いた。いったい中には何が入っているのだろうか?
ドキドキしながら俺たちは中身をあける。
「……手紙か」
中に入っていたのは一枚の手紙だった。幸いにも、それは日本語で書かれていた。みやびがそれを手に取り、俺は横からそれを覗き込む。
『天野みやび様、ほまれ様へ。
拝啓
春が過ぎ、だんだん暑くなってきましたがいかがお過ごしですか?
こちらは無事に帰国して上司に任務完了の報告をして、ついでにみやびの家から持ってきたUSBを提出しました。しかし数日後、USBには偽情報が入っていてさらにウイルスに感染したと怒られました! なんでこれみよがしに重要そうなUSBをテーブルの上に放置したのですか、みやびの仕掛けた罠にまんまとはまりました。
ただ、これまでの功績によりシベリア行きは免れました。今は別の任務に従事している最中です。
今度会ったら一発殴らせてください。
敬具
アレクサンドラ・イリーニチナ・イヴァノヴァ』
「なあ、みやび、USBって……」
「ああ、これね。サーシャが家を出る前、私の研究に関する偽情報と、感染すると迷惑メールが大量に送りつけられるようなウイルスを仕込んだUSBをテーブルの上に置いておいたんだ。サーシャが出発した後になくなっていたけど、まさかこうも見事に引っかかるとは……ぷっ、ははっ、あはははは!」
みやびは腹を抱えて爆笑している。俺はその性格の悪さにちょっと引いた。
「とりあえず、お兄ちゃんはリハビリお疲れさま。夕食にしよう」
「そ、そうだな」
というわけで、俺たちはスーパーで買ってきた弁当で、夕食にするのだった。
※
ゴールデンウィークが明けた次の日の朝。俺は久しぶりに制服に身を通していた。
「お兄ちゃん、準備できた?」
「ああ」
痩せてしまったために少しブカブカに感じるワイシャツに袖を通すと、俺はバッグを持つ。そして、みやびの待つ玄関へ急いだ。
「それじゃ、行こうか」
「うん」
俺は念のため杖を持つと、みやびと一緒に家を出発した。
駅に向かっている最中、みやびが感慨深そうに言う。
「いやー、それにしてもまさかお兄ちゃんと同じ学校に登校することになるとは」
「そういえば久しぶりだな。小学生以来じゃないか?」
学年が二つ違うので、前回一緒になったのは中学生の時だ。しかし、俺が中三の時、中一のみやびはすでに不登校だったため、一緒に学校に行く機会はついぞなかった。
俺たちは電車に乗り込むと、いつもの通学経路で学校に向かう。
そして、学校に到着すると、みやびとは二階に上がったところで別れる。
「じゃあ、私の教室は四階だから。くれぐれも無理はしないでね」
「わかった」
みやびが階段を上っていくのを見送ると、俺は教室へ向かう。目指す教室は三年C組だ。
全然視点の高さが違うのを感じながら、俺は廊下を歩いていく。そして、ついに教室の前に辿り着いた。
「……よし!」
俺は意を決してドアを開ける。そして、教室の中に入った。
確か、俺の席は窓際の後ろから二番目だったよな……。俺はゆっくりとそちらへ向かう。
辺りを見回すと、クラスメイトたちは友達と談笑したり、本を読んでいたり、思い思いに朝のSHR前の時間を過ごしている。しかし、そのうちの何人かは俺の方を誰だろう? と言いたげに見つめていた。
やはり俺だと気づいていないのだろうか。そう思った次の瞬間、背中を勢いよく叩かれた。俺は思わずつんのめって転びそうになる。
「よっ、久しぶりだな、ほまれ」
「佐田……! 久しぶり、俺が誰だかすぐにわかった?」
「当たり前だろ! 元気そうでなによりだ」
佐田は一発で俺だとわかってくれた。やはりマイベストフレンドだ!
そして、今のやりとりで周りがざわつく。その口火を切ったのは、佐田の後ろにいた檜山だった。
「誰かと思ったら、天野か⁉︎」
「久しぶり」
「あんたこんな感じだったっけ……?」
檜山は納得がいかないといった表情で俺を見上げる。俺のイメージは完全にあの美少女で固定されてしまっているようだ。
「ほまれちゃ、いや、もう女の子じゃないから、ほまれくんかぁ。久しぶり、大きくなったね〜」
「元から俺はこの身長だよ、飯山」
「無事に元の体に戻れたようでよかったです」
「ありがとう、越智」
次々に仲良くしていたメンバーから声をかけられる。
「それにしても、やはり違和感がスゴいですね。いや、本来違和感を持つべきではないのでしょうが……」
「そうだよね〜、同姓同名の別の人って感じがするね」
「あはは……まあ、そこは慣れてもらうしかないよ」
「何にせよ、退院おめでとうな、ほまれ」
「ありがとう」
最初は俺も皆も、違和感があるだろう。だが、俺たちにはまだ一緒に過ごす時間がある。これからゆっくりと馴染んでいけばいい。
それよりも、俺はもう一ヶ月も休んでしまっているため、授業には相当遅れてしまっているだろう。これからはみやびとみなとの力も借りて、早く挽回しなければならない!
朝のSHRの開始を告げるチャイムが鳴る。俺は気持ちを新たに、頑張ろうと決意するのだった。
※
ある週末の日。リハビリが進み、すっかり杖なしで一人で歩けるようになった俺は、電車に乗って都心のターミナル駅に向かっていた。
終点で降りると、俺はある場所へまっすぐに向かう。
駅から徒歩五分。歓楽街にある細長いビルの一階には『Café Lumière』というおしゃれな文体の看板が掲げられていた。
いつも裏口を使っていたから、ここから入るのは初めてだ。ドアを開けると、カランコロンと鳴るドアベルの音。それにすら懐かしさを感じる。
「お帰りなさいませ、ご主人様〜ってほまれちゃん! じゃなくてほまれくん!」
応対してくれたのは、飯山だった。さすがはナンバーワンメイド、今日も可愛らしい。
「来たよ」
「ありがと〜! では、ご案内いたしますね〜」
飯山は俺を席に案内する。客として来るのは初めてなので、なんだか新鮮だ。それに同級生に接客されるのも初めてだ。以前来店した先生の気持ちがわかった気がする。
「それでは、メニューです」
「ありがとう、じゃあこのオムライスで」
「かしこまりました〜」
「そうだ、もし手が空いていたら、店長さんを呼んでくれる? ちょっと挨拶したい」
「かしこまりました〜、ちょっと待っててね」
飯山はお冷を出すと、すぐにカウンターの方へ飛んでいった。そして、中に何かを話す。
すると、キッチンから店長さんが飛び出したかと思うと、俺の方へまっすぐ早足で歩いてきた。俺は立ち上がって挨拶をする。
「こんにちは、店長さん。ほまれです」
「お、おう。久しぶりだな……」
店長さんは俺の顔をじっと見つめる。
「お、俺の顔に何かついていましたか……?」
「い、いや。本当に男だったんだな……って。思ったより背が高いんだな。それに、カッコいいな」
「ど、どうも」
ストレートに褒められると照れるな……。しばし俺たちの間に無言の時間が流れる。
「その……元気か?」
「おかげさまで、リハビリも順調です。まだ激しい運動にはついていけませんが、日常生活は送れるようになりました」
「それはよかった」
「店長さんとの約束を果たすためですから」
「お、覚えてくれていたのか……」
ここで、普段滅多に笑わない店長さんの口角が少し上がったのを、俺は見逃さなかった。
「よし、今日は私の奢りだ。復帰祝いだ、遠慮せずに食えよ」
「いいんですか⁉︎ ありがとうございます!」
こうして俺は、かつて働いていたメイド喫茶を、今度は客として十分すぎるほど堪能した。そして、最後には店長さんや飯山とのチェキをプレゼントしてもらったのだった。