スタートの号砲の後、俺は走り出して、スタートラインを通過する。
周りを見ると、人、人、人。持久走でも他の人と一緒に走ったが、これほど多くの人に囲まれながら走ると、やはりいつもとは違った気分になる。周りに同類がいる安心感だろうか。
それに、俺の体も軽い。その原因はやはり替えてもらった腕だ。全然熱くなる気配がない。どうやらみやびの狙いどおり、うまくいっているようだ。
ただし、油断は禁物だ。マラソン大会では持久走よりもはるかに長い距離を走る。そのため、調子に乗ってペースを上げると、体が熱くなってしまったり、電力を予想以上に消費して動けなくなってしまうだろう。あくまで謙虚に、力をセーブしていつもどおりの走りを心がける。
マラソン大会で走る距離は、男子女子問わず、さらに一年二年問わず全員一律十キロだ。一周五キロの環状のコースを二周してゴールとなる。どんなに遅くても一時間半くらいあればゴールできるだろう。
俺の隣では付かず離れずの距離を保って飯山が走っている。俺たちの間に会話はない。十キロという長丁場を前にして、マラソンを走りきれるかどうかすらわからない俺たちが、どうでもいい会話をして体力を消費するのは明らかに悪手だからだ。
走ること三十分。俺たちは見覚えのある場所に戻ってきていた。走った距離を計測すると、ちょうど五キロを超えたところだった。この苦行もあと一周すれば終了だ!
最初はあれだけ集団で固まって走っていたはずなのに、今では俺の周りからはすっかり人の姿が消えていた。さすがに五キロも走っていると、個人の小さなペースの差が積み重なって大きな距離の差となってしまったようだ。ちなみに、飯山はいまだに隣で走っている。
そして、俺の体はかなり熱くなっていた。もう湯船から上がる寸前くらいの温度になっている。これより上がってしまうと、徐々に動作に支障が出て、最終的には意識が朦朧としてオーバーヒートしてしまう。
ここら辺が潮時だと判断した俺は、ここで初めて飯山に話しかける。
「飯山……」
「ん……なに……?」
「ちょっと……大きな音が出る……かもしれないけど……驚かないでくれ……」
「……うん」
そして、俺は脳内でシステム設定を変更する。新たなシステムをオンにすると、それを実行した。
次の瞬間、俺の後ろからプシュー! と勢いよくガスが噴出するような音がする。同時に、俺のお尻から背中にかけて熱さを感じる。それに比例するように体内の温度が一気に下がっていく。
その音は三秒続くと、徐々に小さくなって、やがて聞こえなくなった。
よし、成功だ! 俺はセルフチェックを行うが、異常はない。どうやら、みやびに実装してもらった新システムは、正常に機能しているようだった。
「今のは……?」
「排気システムだよ……マラソン大会用に……つけてもらったんだ」
マラソン大会の対策としてつけてもらった二つ目の機能、それが新たな排気システムだった。
今までは、この体の最終的な排気口は口と鼻の二箇所しかなかった。しかも、その二つは吸気口も兼ねている。そのため、気密性の高いこの体で長い時間動き回ると、熱の排出が追いつかず、すぐにオーバーヒートしてしまっていた。
そこで、排気口をもう一つつけることにしたのだ。そして、その排気口として選ばれたのは、お尻の穴だった。
俺は食べ物で動くわけではないので、当然排泄もしない。そのため、お尻の穴はあるだけで何の役にも立っていなかった。そこで、排気口をお尻の穴に繋げて排気専用にして、口と鼻を吸気専用にしよう! というのがみやびの案だった。そして、マラソン大会前日にそのとおりに実装してもらったのだ。みやび曰く、これでマラソン大会は走りきれるはず、とのことだった。
これで排熱問題は解決したわけだが、当然デメリットもある。
「……一応言っとくけど、臭いはしないからね! おならじゃないから……!」
「わかってるよ〜……」
一番大きいのは、俺がおならをしているようにしか見えない、ということだった。そのため、周りに人がおらず、事情をちゃんと知っていて俺の話を聞いてくれる飯山しかいないこの状態まで、発動するのを我慢していたのだ。
しかし、この新しい排気システムの効果は絶大で、走ってもほとんど体温が上がらない。呼吸のタイミングに合わせて、お尻から熱い空気がスースーと排出されていく。まるでエンドレスすかしっ屁をしている気分だった。
その後も順調に走り続け、とうとうゴール地点が見えてきた。本来ならラストスパートをかけるべきだろうが、そうする余力はなく、そのまま走って飯山・俺の順番でゴールした。タイムは一時間五分だった。
ゴールラインのすぐ後ろで待っていた先生から渡された順位の札は三百番。このマラソン大会に参加した女子は単純計算で最大三百二十人いるはずで、そこから休んでいる人を引くとそれより少なくなる。たぶん、最下位に近い順位だろう。
しかし、俺は達成感でいっぱいだった。この体で十キロを走りきったからだ。思えば、最初の体力テストでは千五百メートルを走るのに十分もかかり、しかも直後にオーバーヒートして動けなくなってしまっていた。その時から比べるとスゴい進化だ。
俺は受付に行くと、順位を記録してもらう。これで正式にマラソン大会を走りきったと認定され、体育の成績がつく。
「お、終わったー……!」
俺は少し離れた誰もいない芝生で寝転がる。そして、システムを元に戻した。途端に呼吸が荒くなるが、そんなことはどうでもいい。このまま強制シャットダウンしても気にしないくらい、俺の心は達成感で溢れていた。
すると、誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。次の瞬間、誰かが俺の顔を覗き込んでくる。
「お疲れさま、ほまれ」
「みなと……」
直後、笛の音が鳴り響く。そして、メガホンで集合を呼びかける声が聞こえてきた。どうやら全員が走りきったようだ。
「行くわよ」
「うん」
俺はみなとの手を掴んで立ち上がる。そして、一緒にゆっくりと集合場所へ向かった。
整列して座ると先生の話が始まった。しばらくすると、順位の発表の話になる。
『それでは、順位発表です。まずは一年生の男子から。三位は……』
名前を呼ばれた生徒が立ち上がる。周りの生徒からは賞賛の拍手が送られる。
はたして佐田や越智はどうだったのだろうか……?
次々と順位発表が行われ、ついに二年生男子の一位の発表になった。まだ佐田の名前は呼ばれていない。
『一位……C組、佐田あおい君』
「っしゃー! やったぞー!」
後ろの方で佐田が立ち上がる。おおお! という声とともに、周りから盛大な拍手が送られた。陸上部を差し置いての一位はスゴすぎる!
『それでは、二年生の女子の順位です。三位は、A組、古川みなとさん』
「みなと……!」
A組の列からみなとが立ち上がる。みなとは長距離が得意だったのか。知らなかった。
『二位……C組、アレクサンドラ・イリーニチナ・イヴァノヴァさん』
「やったデス!」
二位はサーシャ。確かにスパイだし体力はいっぱいありそうだよなぁ……。納得の順位だった。
『一位……C組、越智いおりさん』
そして一位は越智。陸上部に恥じない結果を出せて、本人は満足そうな顔をしている。
『以上で、マラソン大会を終わります』
しばらく先生の話が続いた後、そう締め括られて解散となった。
こうして、マラソン大会は終わったのだった。