週が明けて月曜日。バレンタインのムードもすっかり落ち着き、学校は通常の状態に戻る。
今日も六時間の授業を受け、SHRが終わると、俺は荷物を持って立ち上がる。今日はみやびに早めに帰るように言われているのだ。
「あ、ちょっと天野」
「ん?」
「話があるから待って」
すると、檜山に呼び止められた。俺は焦る気持ちを抑えて自分の席に戻る。
「実はこの後用事があるんだけど、話長くなりそう?」
「いや、すぐ終わる。いおりもサーシャもひなも、ちょっと付き合って」
「わかった」
「わかりました」
「わかったデス」
三人も席に着いたところで、檜山は俺たちに話し始めた。
「来週末さ、受験休みがあるよな?」
「うん。あるね〜」
二月の下旬、マラソン大会の直前に、この学校は他の公立高校と一斉に入学試験を実施する。もちろん、この学校も入学試験の会場になるため、受験日の前日午後と当日は学校への登校が禁止になる。また、受験の翌日は土曜日なので、結局三日半の連休になるのだ。
「その日、あたしん家に泊まりに来ない? 皆で」
「え、いいの〜⁉︎」
「うん。この前スキーに行けなかったからさ、その埋め合わせというか……」
檜山はちょっと照れくさそうに顔を背けた。
「行きたい! ぜひお願いしたいなぁ〜」
「わたしも、なおさんがいいならよろしくお願いします」
「ワタシも行きたいデス!」
「天野はどう?」
「俺は……」
俺もぜひ行きたかったが、ふとみやびのことが頭をよぎった。
俺たちが受験休みということは、一方で中学三年生が受験をするということでもある。みやびはまさに受験をする側の人間なのだ。
「ねえ、日程はいつを予定してる?」
「受験日当日とその次の日」
「あー……えっと、家族に相談してからでいい?」
「了解。わかったらなるはやでメッセージちょうだい」
「わかった」
「あ、あとみなっちゃんも誘っていい?」
「賛成〜」
「いいですよ」
「もちろんデス!」
「うん」
話はそれだけだった。俺はみやびにそれについて聞くことを頭に入れて、さっさと帰宅する。
「ただいま〜」
「おかえり〜」
玄関のドアを開けると、リビングの方からみやびの声がした。
リビングに入ると、みやびはテーブルの上に過去問の問題集を広げて勉強をしていた。受験日まであと十日。さすがのみやびでもラストスパートをかける必要があるようだ。
「何時に行く?」
「あと五分したら行く」
そう言いながら、みやびはノートにペンをスラスラと走らせる。これくらいスラスラと過去問が解けているなら、きっと余裕で合格するだろう。俺なんか、受験直前になっても全然解けなくて、みなとに泣きついていたっけ……。
二年前を懐かしんでいると、みやびがノートをパタンと閉じた。
「よし、終わった。それじゃあお兄ちゃん、行こっか!」
「うん」
俺たちは出かける支度をするとすぐに家を出た。
そして、最寄り駅のロータリーに向かうと、タクシーに乗り込む。行き先は研究所だ。
「そうそう、みやび」
「どうしたの?」
「実は……」
俺はさっき檜山に提案されたことをみやびに話す。
「……それで、出発がみやびの受験当日になって、次の日までいないんだけど大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
思ったよりもあっさりとみやびは頷いた。
あまりにもあっさりしているので、本当に理解しているのか心配になって確認する。
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ! 私のメンタルの強さは知ってるでしょ?」
「……そうだな」
本人もそう言っていることだし、きっと大丈夫だろう。
ということで、俺はめでたくお泊まり会に参加できることになった。その旨をメッセージアプリで檜山に伝える。
そうこうしているうちに、タクシーが研究所の前に着いた。料金を払って降りると、俺たちは建物の中に入る。
そして、みやびの案内で俺はいつものメンテナンスルームに到着した。
「よし、じゃあお兄ちゃん、そこのベッドに寝て」
「うん」
俺は言われるがままにベッドの上に横になる。みやびがパチパチとパソコンをいじる音が聞こえる。しばらくすると、みやびが俺の服をまくって、へそにケーブルを接続した。
「それじゃ、定期メンテナンスを始めるね。おやすみ〜」
その声を最後に、俺の意識はスイッチが切り替わるように落ちたのだった。
※
スイッチが切り替わるように意識が戻る。次の瞬間、横からみやびの声が聞こえた。
「お兄ちゃん、おはよう〜」
「おはよう」
「体の調子はどう?」
「……うん、大丈夫みたいだ」
特に異常は出ていない。体を起こすと、みやびがへそからケーブルを外しているところだった。俺は真っ先に一番気になっていたことを尋ねる。
「みやび、俺の腕はどうなった?」
「うん、成功したよ」
俺は自分の両腕を見つめる。一見すると、メンテナンスが始まる前と何の変化がないように思える。しかし、実際に動かしてみると明らかに違うのがわかった。
軽い。腕があまりにも軽すぎるのだ。グイングインと腕を振り回してみるが、嘘のように抵抗がない。このまま吹っ飛んでしまいそうだとさえ錯覚してしまう。
「どう?」
「うん、とても軽いよ」
「とりあえず部屋の中を走ってみてよ」
「わかった」
俺はベッドから降りると、大きな円を描いて部屋の中をぐるぐると小走りで回り始める。腕が若干大きく振れるが、体のバランスや走り方に特に異常はない。
「問題はなさそうだね」
みやびは安心したようにホッと胸を撫で下ろした。
今回の定期メンテナンスでは、通常のメンテナンスに加えて、試したいことがあった。それが、軽量版の腕のテストだった。
以前、俺は体育の授業の持久走で、オーバーヒート寸前になり、電力を著しく消耗した。その時はまだ強制シャットダウンには至らなかったが、本番のマラソン大会では体育の持久走の二倍以上の距離を走る。この状態でマラソン大会に臨めば、途中で倒れてしまうのは必至だった。
そのことをみやびに相談したところ、俺の体をマラソンを走りきれるように改造してくれることになったのだ。
みやび曰く、改善に向けたアプローチは主に二つ。
一つ目は排熱だ。現状、俺の体に内蔵されている冷却システムでは、最終的な熱の放出口が鼻と口しかない。しかも、人工皮膚には高い断熱性を持たせているため、熱が溜まりやすくなっているのだという。そこで、排気口を増やして、排熱の効率を改善することになった。
二つ目は省エネだ。俺はAIのように走り方を効率化できていない。そのため、無駄な動作による熱が溜まってしまうのだという。だから、その無駄な熱の発生源をなくして、エネルギー消費を抑え、熱の発生も抑制することになった。
そして、今日つけてもらった軽量版の腕は、二つ目のアプローチで作られたものだ。腕に内蔵されている人工筋肉や機械、そしてフレームを極限までスリム化し、電力消費を抑えようとしているのだ。
その完成品が、今俺がつけている腕。今のところは問題なさそうだが、一つだけ心配な点がある。
「みやび。もし転んだ時、腕を使って立ち上がると思うんだけど、そのとき俺の体重って支えられるの?」
「うん。お兄ちゃんの体重くらいなら支えられる力は残してあるよ。それ以上の出力はマラソン大会では無駄だから、そこを削っただけだよ」
「なるほど。ちなみに、俺の排気システムの方はいつやってくれるんだ?」
「それは受験の後かな。まだ部品ができていないんだ。マラソン大会までは間に合わせるから」
「わかった」
もう一つのアプローチによる改善、つまり新しい排熱システムをつけるには、もう少しだけ時間がかかりそうだ。
「受験直前の忙しい時期なのに、なんだか申し訳ないな……」
「いいよ。息抜きになっているから。それじゃ、元に戻すからベッドに戻って」
この後、腕を元に戻してもらって、今回の定期メンテナンスは終わったのだった。