営業終了時刻になり、俺は最後のお客さんを見送った。
今日は今までで一番忙しかったような気がする。もう精神的にへとへとだ。
店内の清掃を終えると、俺は他の店員とともにスタッフルームへ向かう。部屋に入ると、店長さんが待っていた。
「よし、皆揃ったな。それではミーティングを始める」
店長さんはミーティングを粛々を進めていく。一方、俺たちはソワソワする。いつその話になるのか、皆気になっているのだ。
いつもより妙に長い店長さんの話がやっと終わる。そして、ついに店長さんは俺たちが待ち望んでいた話題に踏み込んだ。
「それでは最後に、お待ちかねのチョコの受け渡しをする!」
「「「「「おおおおお!!!」」」」」
スタッフルームは大盛り上がりだ。すると、店長さんはちょっと待ってろ、と隣の部屋にいったん引っ込んだ。十秒後に戻ってくると、その手にはビニール袋が握られていた。
「よし、それでは配っていくぞー」
店長さんはホワイトボードを見ながら名前を呼んでいく。呼ばれた人は、注文数に応じたチョコを店長さんから受け取っていく。ちなみに、店長さんから配られたのは個包装の小さいチョコだった。
「次、ほまれ」
「はい!」
名前が呼ばれ、俺は店長さんの前に出る。
「ほまれは……三十五個だな。頑張ったな」
「ありがとうございます」
すると、店長さんは個包装ではなく、大袋ごと渡してきた。それに加えて個包装のチョコを五個。まさか大袋ごと貰えるとは。これならみやびやサーシャだけでなく、みなとにもあげられそうだ。
「次、ひなた!」
「は〜い」
「ひなたは……六十一個だな」
「「「「「六十一⁉︎」」」」」
「やった〜!」
飯山は大袋二つと、個包装一個を手渡された。そして、すぐに個包装の一個をその場で食べる。マジかよ、六十一個とか、やはりナンバーワンメイドは伊達じゃないな……。
「ちなみに、個数はひなたがぶっちぎりの一位だった。二番がほまれだな」
まさかの二位に入ってしまった。チョコが食べられない体なのに。
「ラストは私だな」
そう言うと、店長さんはビニール袋からチョコレートを取り出して自分の分を分けていく。
「店長さんにもバレンタインチョコが来てたんですか?」
「ああ。私はずっとキッチンにいたのに、誰だか知らんが頼んだ人がいたようだ」
そして、店長さんは二十五個を分けると、それを別のビニール袋に詰めていく。
「私は二十五個だ。ちなみに三番だった」
ホールに出ていないのにこの個数……。もし接客していたら、もっと多かっただろうな。
「余ったチョコは、冷蔵庫に入れておくから、おやつにしてくれ」
そう言って、最初に持っていたビニール袋ごと冷蔵庫に押し込む。
「それでは今日は解散! お疲れさま!」
こうして、バレンタインフェアは終了したのだった。
※
「ただいま」
「おかえり〜」
帰宅し、リビングに入るとみやびがいた。どうやら夕食はもう済ませたようだ。
「あれ、サーシャは?」
「お風呂」
耳を澄ますと、確かに風呂場の方からシャワーの音がしていた。
本当はサーシャも一緒にいる方がよかったが、こんな暖房の効いているところでは溶けてしまうかもしれない。ここは速さを優先して、今渡すことにした。
「実は、お土産がありま〜す」
「え、なになに?」
俺は荷物を下ろすと、早速貰ってきたチョコの大袋を取り出す。
「チョコだ! わざわざ買ってきたの?」
「ううん、バイト先で貰ってきたんだ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「どういたしまして。サーシャと半分こしてね」
もちろん、貰ったチョコはこれで全部ではない。残った個包装の五個は、後でみなとにあげることにした。
「そうそうお兄ちゃん、実は私からバレンタインのプレゼントがあります」
すると、みやびが突然そんなことを言い出した。俺は嬉しかったが同時に戸惑う。
「それは嬉しいんだけど……俺、何も食べられないよ?」
「大丈夫大丈夫! お兄ちゃんでも摂取可能なものだから安心して!」
「えぇ、なんだろう……?」
俺でも摂取可能なもの? ということは食べ物のような固形物ではなく、飲み物のような液体ということか? 現状、口から摂取できるものは冷却液しかないので、その類しか考えられない。
みやびはドンドンと階段を上っていく。そして十五秒後、今度はドンドンと階段を下ってきた。
戻ってきたみやびの手には、この前のメンテナンスの時に見た給水ボトルが握られている。しかし、その中身は今までに見たことのない色をしていた。
「じゃじゃーん!」
みやびが掲げた給水ボトル。その中には茶色い不透明な液体が入っていた。コーヒーというには色が薄すぎる。ココアくらいの濃さだろうか?
「みやび、これは……?」
「冷却液だよ」
「……泥水とかじゃなくて?」
「違うよ! なんで私がお兄ちゃんに飲めないものを出して嫌がらせしなきゃいけないの」
「確かに」
「第一、お兄ちゃんがそんなもの飲んだら壊れちゃうよ!」
「そっか」
俺はみやびからボトルを受け取るとまじまじと見つめる。とりあえず匂いを嗅いでみるが、何も感じない。
「というか、冷却液ってマズいから飲みたくないんだけど……」
「大丈夫! この冷却液はマズくないよ! とりあえず飲んでみて!」
「……わかった」
あまり気乗りしないが、俺は覚悟を決めると、口をつけてそれを飲む。
次の瞬間、俺はみやびが言っていた意味を悟った。
「おお、チョコの味がする……!」
口に入ってきた冷却液は、いつものマズい味ではなく、チョコの味がした。まろやかに口の中に広がって、とてもおいしい。今までずっと食べ物を前に生殺し状態にされていた俺にとって、およそ十ヶ月ぶりのまともな食べ物の味だった。
じっくり味わおうとするが、飲む動作が止まらない。気がついた時には、ボトルは空になってしまった。
「ああ、全部飲んじゃった……」
「どうだった?」
「うん、とてもおいしかった」
「よかった。開発した甲斐があったよ」
「ねえ、みやび。これ他の味はないの?」
「まだ開発途中だよ」
「このチョコ味はまだ残ってる?」
「いや、もうないよ」
「そんなぁ〜」
今度からまたマズい冷却液に戻ってしまうのか……ちくしょう! こんなおいしい味を知ってしまったから、今までの冷却液なんて余計に飲みたくなくなるじゃないか!
「ごめん……おいしい冷却液、なるべく早めに開発するから」
「頼んだぞ、みやび!」
「う、うん」
俺が両肩をがっしりと掴んで訴えると、みやびは若干引き気味に頷いた。
ここで突然、俺は尿意を催す。もともと大量の冷却液が体に入っていた上、さっきチョコ味のそれを大量に飲んだからだ。早くトイレに行かないと漏れてしまう……。
俺は慌ててトイレに駆け込む。そして、用を済ませた。
「ふぅ……」
後処理を終えて俺は立ち上がる。そして、下着やズボンを履き直して水を流すために振り返ると、便器の中の様子が目に入って俺は思わず声をあげてしまった。
「うわっ……」
便器の水が茶色になっていた。一瞬ビビるがすぐに思い出す。さっき、茶色いチョコ味の冷却液を飲んだことを。それが薄まって早速出てきたのだ。
もし他の人がこれを見たら、大変な騒ぎになるだろうな……。
そんなことを思いながら、俺は水をジャーと流すのだった。