学校に到着し、朝練に参加して、朝のSHRが終わると、いよいよ俺にとって三学期初めての授業が始まる。ちなみに、サーシャの話は本当だったらしく、朝練では佐田に、SHR前後の休み時間には飯山たちに、『故障で』休んでいたことを心配された。まさか、俺が犯罪組織に攫われて修羅場を経験していただなんて、絶対に思っていないだろうな……と心の中で呟きながらも、俺は話を合わせたのだった。
さて、俺にとっての新年最初の授業は体育だった。初っ端から座学ではなく体を動かす授業だ。個人的には座学よりも体を動かす方が好きなので、少しテンションが上がる。
俺は更衣室で体操着に着替えると、同じ班のメンバーと一緒に校庭に向かう。
「今学期からいよいよ持久走か。もうこんな季節になったんだな」
「持久走ってなんデスか?」
檜山のぼやきにサーシャが反応する。それを、越智がすぐに補足した。
「持久走とは、一定の距離や時間を走りきる競技のことです」
「なるほどデス……ジョギングみたいなものデスか?」
「ジョギングとは少し違う気がしますが、おおむねその認識で大丈夫かと思います。それよりかは少しハードな感じですね」
サーシャはへぇ〜ボタンがあったら押しそうな顔をしている。持久走は、もしかしたら海外ではあまり馴染みのない運動なのかもしれない。
「持久走か〜……」
「なんだか乗り気じゃないね、飯山」
俺の隣を歩く飯山は、ため息をついて憂鬱そうにしている。
「わたし、持久走は苦手なんだよね〜……」
「そうなの?」
「うん。長い距離を走れるほど体力ないし……それに、持久走の場合、終わりが見えづらいのがつらいなぁ」
てっきり飯山は運動が得意だと思っていたので、少々意外だった。しかし、思い返してみれば、彼女が得意としているのは、短距離走に腕力、それに体操だ。案外、持久力を求められるものは苦手なのかもしれない。
それに、飯山の言っていることもかなり同意できる。体育の持久走は、かなり長い時間同じ場所をぐるぐるずーっと走り続けなければならないので、途中で気が滅入りそうになる。俺も、去年のこの時期はそんな気持ちになった覚えがあった。
さらに、俺には懸念していることがあった。
それは、持久走をしたら、俺の体がオーバーヒートして動けなくなってしまうのではないか、ということだった。
この体になってから間もない頃、俺は体力テストで千五百メートルを走り、オーバーヒートしてしまった。その頃に比べれば、幾度となくアップデートを重ね、また俺自身がこの体をうまく操れるようになったため、多少マシにはなっているとは思う。それでも、この体は、瞬間的に力を発揮するような運動が得意で、持続的に力を発揮するような運動が不得意であることに変わりはない。はたして、この体が持久走に耐えることはできるのか、俺は少々不安だった。
俺たちは校庭に集合すると、先生から説明を受ける。
この学校では、二月下旬にマラソン大会が行われる。それに向けて、マラソン大会までは、三学期の体育の授業は荒天時以外すべて持久走になるのだ。
準備運動が終わった後、俺たちはジャージを脱ぐように指示される。持久走をしている間は、半袖短パンにならなければならないのだ。
確かに、走っている間に暑くなるため、こうするのは理にかなっていると頭では理解できるのだが、やはり最初は寒い。特に今は一月上旬の朝、気温は約六度。肌を突き刺すような寒さで、皆震えながらジャージを脱いでいる。そこに風が吹いてきたらもう大変だ。寒さに絶叫する人もいた。
しかし、俺の感想は真逆だった。確かに寒いのは嫌だが、寒くてよかったと思う。もしこれで寒くなかったら、体が冷やされずにすぐにオーバーヒートするだろうからだ。
ただ、この寒さは俺の体をどこまで冷やしてくれるのか……。この持久走の時間が終わるまで走りきれるほど冷やしてくれるのが一番だが……。
スタート位置に着くように言われ、俺はそこへ向かいつつ時刻を確認する。今日は授業の終わりまで走ることになっているので、残り時間はおよそ四十分だ。
ピーッ! と笛の音が鳴り、一斉にスタートする。コースは校庭とテニスコートの外周、一周約四百メートルの小道だ。男子と女子に分かれて、それぞれ反対側からスタートする。
真っ先に飛び出していったのは陸上部の連中だった。やっぱり普段から運動している人は速く、他の人と比べてペースが全然違う。それに加えて、他の運動部も何人かがそれについていき、先頭グループを形成していた。その中には、越智やサーシャの姿が見える。
次に、他の運動部や文化部の人たちが塊となって走っていく。そして、最後尾に運動が苦手なグループが固まっていた。
俺は集団の最後尾に陣取っていた。本当ならもう少し速く走っても問題ないとは思うのだが、いかんせん走り続ける時間が時間だ。四十分も走り続けるなんて今までやったことがない。おそらく普通に走っていたら十分くらいで体がおかしくなってしまうだろう。とりあえず、今は力をセーブして、自分がどれだけ走れるか試すべきだ。
ちなみに、走るのをサボって歩くというのもできなくはないが、先生に見つかったら減点されてしまう。とにかく低速でもいいから走らなければならないのだ。それに、本番のマラソン大会で歩いたりしたら、いつまで経ってもゴールできないからな……。
時間が経つと徐々に集団がバラけていく。体力あるいはやる気のない人が先生の目がないところで歩き始めたりしたことで、俺は最下位ではなくなったが、依然として下位だった。
走り始めてから五分が経過する。すでに先頭集団とはかなりの差ができ、もはやその姿は確認できない。このくらいの時間が経過すると、自然とペースが近い人どうしが小グループを形成し始める。ちなみに、俺は飯山とグループになった。
まだ体はそこまで熱くなっていない。いい感じのペースだ、と考え、俺はチラリと飯山の方を見る。
「ほまれちゃん……頑張ろうね……」
「うん……」
まだ俺たちには喋る余裕があった。
ここで、後ろから足音が聞こえてくる。明らかにこちらに近づいてきていたので、俺は邪魔にならないよう道の端に避けた。すると、男子の先頭集団が俺をビュンビュンと追い越してくる。
「ほまれ、頑張れよ」
「ありがと……」
追い越しざまに佐田が俺に声をかける。あんなペースで走っているのに、俺に声をかけるくらい余裕があるのかよ……。俺も元の体だったらあの集団にいたのかな、なんてことを考える。
それにしても、やっぱりこの体は走りにくい。特に胸! 走るたびにぼいんぼいん揺れるの、本当に勘弁してほしいんだが……。邪魔だし、できることならもぎ取りたい。みやびに言えばやってくれるのかな?
……そんな馬鹿なことを考えている暇があった頃はまだよかった。この時、俺はこの体で持久走を行うことがどれだけ厳しいのか、わかっていなかった。
約三十分後、俺はほぼ機能停止しかけていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸は荒く、足元がフラフラしている。思考もままならない。視界がチカチカして、ところどころノイズが走る。
隣で走っていた飯山が今もいるのかわからない。そもそも、今の俺にそれを気にする余裕はなかった。
きっと、はたから見たら酔っ払いみたいな走り方をしているだろう。しかし、俺は決して酔っ払っているわけではない。完全にオーバーヒート寸前だった。
体中が熱い。溶けてしまいそうだ。なんか関節部分からガリガリガリと変な音がするのは気のせいだろうか? 頭の中にアラートが響く。四割弱ほどあった電池残量もすでに一割を切っている。明らかにマズい状態だ。
くそ、こうなるんだったら水を大量に飲んでくるべきだった……。体に冷却水を入れておけば、多少マシだったかもしれない。ああ、早く水分補給をしたい。授業よ、終わってくれ……。
実時間二十秒ほどの、体感時間では永遠とも取れるような長い時間が経過した後、ようやくピーッ! と笛が鳴った。
や、やっと解放される……。俺は、もう、走らなくて、いいんだ……。
そう思った瞬間、全身の力が抜けて、俺はその場に倒れ込んだ。
「ほまれ? 大丈夫デス?」
「ほまれさん、しっかりしてください!」
「天野、大丈夫⁉︎」
そんな声とともに、横倒しになった視界に、六本の足がこちらへ向かってくるのが見えた。
そして、俺はサーシャと越智、そして檜山に運ばれ、大量の水を口に流し込んでもらうのだった。