「前、登山に行った時、私たちクマに襲われたわよね」
「そうだね。あの時は大変だった」
「まさに命の危機だったわ……だけど、最終的にほまれが体を張ってクマを追い払ってくれた」
「本当にダメかと思ったよ」
「そうね。ほまれがこのまま動かなくなっちゃうんじゃないか、ってとても不安になったわ……結果的に助かったわけだけど、一つ間違いなく言えることは、ほまれがそうしてくれなかったら、私はクマに襲われて命を落としていただろうってことよ。つまり、ほまれは私の命の恩人なのよ」
その話は以前聞いたとおりだ。事件があってから初めて登校した朝、みなとが同じようなことを言っていた。
「もし人に助けられたら、それに報いたくなるのは自然なことだと思わない?」
「そうだね」
「だから、私もほまれに何かしてあげようと思ったの。だけど……」
「だけど?」
「何をやってもそれには及ばないのよ」
みなとはギュッと拳を握った。
「私の命を助けてくれたほどの恩に、私は何をすることで報いることができるのか、わからないのよ。ほまれが私にしてくれたことはあまりにも大きすぎて、私が思いつくことではどうやっても釣り合わない」
「そんな、俺はそうしてもらおうとは思ってないって」
「だけど、一方的にしてもらって感謝するだけでは、あまりにも不義理じゃない! ……少なくとも私は、気分が悪いわ。対等な関係でいられない気がするの」
みなとの気持ちも、俺にはわかる。もしみなとと俺の立場が逆だったとしたら、俺もみなとに対してずっとそのことで恩義を感じ続けることになるだろうから。
「だけど、命懸けで命を救ってもらったことには、やっぱりそれこそ命を張るようなことでしか釣り合わない。でもそんな状況がそう都合よく起こるはずがないわ。だから、その代わりに、私しか持っていないもので、私がいることでしかしてあげられないことで返すしかないのよ」
ここで、俺はやっとみなとが何を言わんとしているのか理解できた。そして、今まで何が彼女を不審な行動に駆り立てていたのか、納得することができた。
「だから、みなとはあんなことをしていたのか」
「……もう、私の体を好きにしてもらうことくらいしか、手段は残っていないのよ」
みなとは顔を伏せる。全部ぶちまけたことで、きっと彼女の心の中にはいろんな感情が渦巻いているだろう。
俺の心にもいろいろ複雑な気持ちが渦巻いていた。それを整理して行った時、真っ先に言語化できた感情は、自分でも意外なことに、安堵だった。
「……いろいろ言いたいことはあるけど、まずは安心したよ」
「え?」
「改めて、他の人に脅されているわけじゃないってわかったから」
もし他の人に脅されてやっているんだったら、その正体を聞き出してボコボコにしてやるところだったが……。今の話で確信した。これは間違いなくみなとが自分で考えたことなのだと。
「それに、ありがとう。俺のために何かをしてくれようとするのは、嬉しいよ」
「ほまれ……」
「だけど!」
俺はみなとの頭に軽くチョップする。
「こんなやり方はダメだと思うよ。もっと自分を大切にしてほしいし、そんな気持ちでされても、俺は嬉しくない」
「……ごめんなさい」
「ちゃんと反省してください」
しかし、まだ最大の問題は解決していない。それはみなともわかっているようで尋ねてくる。
「……じゃあ、私はどうすればいいの? このままずっとモヤモヤし続けるのは嫌よ」
「そうだね、俺も嫌だ」
だから、と俺は言葉を続ける。
「『俺のお願いをなんでも一つ聞く』っていうのはどう? 文字どおり、『なんでも』だし、『絶対服従』だよ。これでチャラにしよう」
「わかったわ。それでいい」
「……本当にいいの?」
「ええ。いいわよ。あなたに救ってもらったのだから、それくらいのことをする価値はあるわ」
みなとから返ってきたのは、揺るぎない答えだった。『なんでも』だから、みなとがしようとしてきたえっちなこととかも、やろうと思えばお願いできるし、今のみなとならそういうこともやってくれるだろう。だけど、そうきっぱり言いきられてしまうと、逆にそんなことはやりづらい。かといって、何をお願いしようか決まっているわけでもない。
「……今お願いしなきゃダメ?」
「今できないようなことならいいけど、なるべく今やってほしいわ。……せっかく二人きりなんだし」
そう言ってみなとは顔を赤くする。みなとさん、俺がえっちなことをお願いすると思ってません⁉︎ 今のはそういう反応だよね⁉︎
なんかそういう態度をされると、俺の中の天邪鬼が発動して余計に全然関係ないことを頼みたくなってくるなぁ……。かといって、みなとにやってもらいたいことは特にあるわけじゃないし……。このままだと、自分から提案したくせに何もしないという謎ムーブをかますことになってしまう。それでみなとが納得するとは思えない。
しばらく考えていると、唐突に過去の記憶が蘇る。そして、俺は閃いた。
そうだ、みなとにやってもらいたいこと、あったじゃないか……!
「よし、みなとにお願いしたいこと、決まったよ」
「何かしら?」
みなとは固唾を飲んでこちらを見ている。そんな彼女に、俺は宣言した。
「みなとには、膝枕をしてもらいたいな」
「……ひざ、まくら?」
「そう、膝枕。覚えてない? 前にみなとの誕生日に膝枕したでしょ? その時に今度俺も膝枕してもらおうって言ったんだけど」
「言われてみればそんなことを言っていたような……」
「でしょ? だからやってもらおうかなって。嫌だった?」
「別にいいのだけど……そんなお願いでいいの? もっと他にいろんなお願いがあると思うんだけど」
「いいの! 俺がいいっていうんだからいいの! さっさとやろう!」
「……わかったわ」
みなとはちょっと不服そうな顔をしながらも、正座をした。そして、ポンポンと自分の太ももを叩く。
「準備できたわよ。いつでも来なさい」
「よし、じゃあ遠慮なく」
俺は横になると、テーブルの下に半身を潜り込ませて、みなとの太ももに頭を乗せる。仰向けになると、こちらを見下ろすみなとの顔が見えた。
「……どうかしら」
「最高だよ」
俺は即答する。みなとに膝枕してもらうなんて最高に決まっているじゃないか。
今度は九十度横になってみなとのお腹の方を向く。たくしあげたスカートから伸びるみなとの太ももは、テニス部だからかちょっと筋肉質で、ちょっとむちむちしている。俺はそれを手で軽く押したり撫でたりする。
「……くすぐったいわ」
「みなとの太もも、いい感じの太さだね」
「やめてよ……気にしているんだから」
「そうなの? 俺は別にいいと思うけどな」
さっきから感じていたが、やっぱり膝枕をしてもらうくらい密着すると、みなとの匂いに包まれているような感覚に陥る。これが彼女本来の匂いなのか、それとも服についた柔軟剤か何かの匂いなのかはわからないが。俺はみなとのお腹に顔を寄せると、服の匂いを嗅ぐ。
「ちょっ、どこを嗅いでるのよ……!」
「みなとの服だけど」
「……私から見ると、その、股間を嗅がれているように見えるんだけど」
「俺はそんな変態じゃないよ!」
「ひゃぁっ! そこで大きな声を出さないで、お腹に響くから!」
「ご、ごめん」
みなとが色っぽい声を出したので、俺は慌てて寝返りを打って反対方向を向いた。
それにしても、今の声ヤバかったな……。みなとのあんな声を聞いたのは、耳掃除をした時以来だ。俺たちの間にちょっと気まずい空気が流れる。
しかし結局、俺はみなとの膝枕を堪能しつくしたのだった。