翌日の昼、小雨が降る中、俺は荷物を持って家を出発した。
もちろん、みやびとサーシャには昨日のうちに事情を話して了解をもらっている。この話をしたとき、サーシャはちょっと不満げな様子で、みやびはニヨニヨしていた。
小雨が降っているからか、気温はとても低い。天気予報によると、今日の最高気温は十度もいかないらしい。
きっと人間の体だったら、寒さに震えていただろう。だが、この体は不思議なもので、寒くはないのだが、寒いという感覚はわかった。
俺は電車に乗って、みなとの家の最寄り駅で降りる。前回彼女のマンションにお邪魔したのは……確か、みなとが風邪をひいて熱を出した時だったはず。おんぶしてこの駅から家まで送ったのを覚えている。その時は七月に入りたての頃なので、実におよそ半年ぶりということになる。
それだけ時間が経っていても道順というのは案外覚えているもので、俺は特に迷うことなくみなとの家に辿り着いた。マンションのエントランスで、オートロックに部屋番号を入力してチャイムを鳴らす。
しばらく待っているとドアが開いた。俺は荷物を持って中に入ると、エレベーターで彼女の家がある九階に向かう。
「いらっしゃい」
エレベーターを降りると、みなとが見えた。俺が来るのがわかっていたようで、ドアを開けて待っていてくれた。俺は小走りでみなとのところへ向かう。
「お邪魔します」
家にはそれぞれ違った匂いがある、と俺は思う。当然、ここも例外ではなく、中に入った瞬間から彼女の家の匂いがした。
後ろでみなとがドアを閉める。断熱材の性能がいいのか、外よりもずいぶん暖かかった。
それにしても、みなとが言ったことは本当だったようだ。みなと以外から、この家に人の気配はいっさいない。なぎさちゃんもいない。本当にこの空間には、俺とみなとの二人しかいないのだ。
そのことを意識すると、俺は途端に緊張してきた。つまり、俺たちが何をしてもそれを止める人が誰もいないということだ。恋人で二人きりとか、漫画やアニメだったら絶対に何かが起こるシチュエーションだよ!
「どこに荷物を置けばいい?」
「そうね、とりあえず私の部屋で待ってて」
「わかった」
俺は言われるがままにみなとの部屋に入る。すると、ドアを開けた途端にもわっと熱気が押し寄せてきた。
俺はみなとの部屋のエアコンを見る。予想どおり、エアコンがゴーゴーと全力で動いていた。俺はすぐにコートを脱いで腕まくりをするが、それでも今着ている長袖ではすぐに暑くなってしまうだろう。キョロキョロと辺りを見回すが、エアコンのリモコンらしきものは部屋の中に見当たらない。もしこれでも暑くなったらみなとに言って温度を下げてもらうか……。
荷物を置き、洗面所で手洗いとうがいをして、部屋で待機していると、みなとが飲み物を持って戻ってきた。俺は水、みなとは緑茶だった。
「それじゃ、早速やっちゃいましょうか」
「……そうだね」
お泊まり中に何をやるのかは、あらかじめだいたい決めてあった。そして、俺たちは早速その一つ目に取りかかる。
すなわち、冬休みの課題の勉強だ。
「みなとはどこまで終わった?」
「数学はなんとか半分やったわ。英語は三分の一くらいね」
「もうそこまでやったの? まだ冬休み初日なのに……」
「あら、どちらも冬休みの三日前に配られたじゃない。冬休みが始まってからしかやってはダメ、という規則はないのだから、配られた時点から始めてもいいはずよ」
「確かに」
ぐうの音も出ない……。この冬休みは、スキーにバイトにお泊まりに、それぞれのイベントは少ないものの、期間が短いので夏休み以上に忙しく濃い期間になる。正直、冬休みの課題なんてやっている暇がないのだが、やらなくてはならない。
だから、せっかくお泊まりをしにきているのに、こうして勉強しているのだ。
ただ、悪いことばかりではない。目の前に学年七位様がいる状況で勉強ができるのだ。わからないところがあればいつでも質問できる。マンツーマンの家庭教師をしてもらっているのとほとんど変わらない状況だ。
しばらく勉強に集中する。部屋の真ん中に置かれたテーブルからは、シャーペンが紙を擦る音が響く。
問題をひととおり解き終えたところで、ふと目の前から今までとは違う音が聞こえてきたのに気づいて、俺は顔を上げた。
「……んしょ」
みなとが服を脱いでいた。長袖を脱いだことで、シャツだけになる。
俺は一瞬、その姿に思わず目が釘付けになってしまう。そして、コンマ五秒後にハッと我にかえると、みなとに気づかれる前に慌てて視線を下に落とした。
「み、みなと、エアコンの温度、下げたら?」
「……大丈夫よ、今のままでちょうどいいわ」
みなとは服を脱いで涼しくなったのか、エアコンの温度設定を変えるつもりはないようだった。
それにしても、嗚呼哀しい哉、男の性だ。脱ぐ時にみなとの胸が服に引っ張られてボヨンと揺れたのをばっちり目撃してしまった。俺ほどじゃないけど、かなり大きかった……。
ダメだダメだ、こんなことを考えている場合ではない! 勉強に集中しないと……。
そう自分に言い聞かせるが、先ほどの光景がフラッシュバックしてしまってなかなか集中できない。それに、問題自体の難しさもあってか、ペンを持つ手が一向に進まなかった。
仕方がない、ここはみなとに教えてもらうか……。
「ねえ、みなと、ここ教えてほしいんだけど」
「わかったわ、ちょっと待って……」
すると、みなとは俺の隣に移動してきた。そして、俺の隣からプリントを覗き込んできた。俺に体をピッタリと寄せて。
「ああ、この問題ね。これはまず両辺を4のn乗で割るのよ。そうすると……」
さらにみなとが体を寄せてきた。むにゅと俺の手にみなとの胸が当たる。俺の視線は見えない力で引っ張られるようにそちらに向く。
これはわざとなのか! わざとじゃないのか⁉︎ どっちなんだい!
俺の頭は今にも爆発四散しそうで、みなとの丁寧な解説は右から左へと通り抜けていくだけだった。
「……でこうすると漸化式が解けるから、逆算して答えが出せるっていうわけ、どう、わかったかしら?」
「は、はひ……」
みなとのおっぱいが柔らかいということがわかりました。問題は全然わかりませんでした。
すると、みなとはしばらく無言になった。俺が空返事をしていることに気づいて腹を立ててしまったのだろうか。
「…………」
「み、みなと……?」
俺はおそるおそる声をかける。すると、彼女はため息をついた。
「わかってるわよ、ほまれ」
「な、何が?」
「さっきから私の話なんか聞いていなくて、私の胸ばっか見ていたこと」
「…………」
やっぱり怒ってるよな……。そう思って謝ろうとした矢先、俺はバランスを崩して床に倒れ込んだ。
地震があったからではない。俺の体に何か異常が起きたからではない。みなとが俺を押し倒したからだ。
みなとは俺の肩に手を置いて、こちらを見つめる。照明で逆光になっているが、みなとの顔は明らかに赤くなっていた。
「いいのよ、ほまれが望むなら。ここで、今すぐにでも」
「……み、みなと」
しばらく静かな時間が流れる。俺の視線とみなとの視線が真正面で衝突する。
その間に、いろんな思いが俺の頭の中を駆け巡る。いろいろな感情が交錯する。そして、やっとのことで俺の口から出てきた言葉は──。
「みなと、もしかして誰かに脅されてるの?」
「……へ?」
俺の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったのか、みなとは間の抜けたような返事をする。
「この前から、なんか変だよ。今まで全然そんな素振りを見せなかったのに、その……自分の体をアピールするようなことばかりしてくるじゃん」
「……どうしてそれが脅されることになるのよ」
「いや、誰かに『天野ほまれに色仕掛けをしてこい!』って命令されているんじゃないかって」
「そんなわけないわ……これは私の意思よ」
「じゃあどうして? なんか人が変わったみたいで、正直、俺、怖いよ」
「…………」
みなとのこういう行動に対して、中身は思春期の男子高校生である俺は刺激されっぱなしだ。しかし、一年半以上も付き合ってきたからわかる。みなとは突然こんなことをするような人ではない。本当にただこういうことをしたいから、こういう行為に及んでいるのかもしれないが、俺にはその裏に何か思惑があるような気がしてならなかった。
みなとは無言のまま、上体を起こした。肩から手が外れたので、俺の拘束も外れ、少ししてから俺も起き上がる。そして、彼女ははぁ、とため息を一度だけついた。
「ほまれには、敵わないわね……」
「……一年半、そばにいたらわかるよ」
「わかったわ。正直に話すわね」
ついに、みなとは心の内側を打ち明け始めた。