翌日、月曜日。俺は普段どおりに登校する。
いや、普段どおりというのは少し違うかもしれない。取り外し不可の猫耳ヘッドホンもどきをつけて登校しているのだから、普通ではないだろう。
普通ではない格好で登校しているからか、俺はどうしても周囲の人からの目が気になってしまう。俺の視界の中で話をしている人が、全員俺のこの猫耳についてコソコソ話しているかのように思える。俺が聞こえる範囲では、そのような会話はいっさい聞こえてこないが。
家を出る前に、みやびにその不安を話したところ、『大丈夫だよ、ちょっと奇抜なヘッドホンくらいにしか皆思わないよ』と笑いながら言っていた。その時は、確かに言われてみればそう見えるか……と思わず納得してしまったが、本当にそんなものだろうか?
ちなみに、サーシャはバレー部の朝練のため、四本ほど前の電車で学校に向かった。そのため、俺は一人で登校していた。もしかしたら、登校中に誰も話す相手がいないため、余計にそんな不安に苛まされてしまっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、学校の最寄り駅で俺は電車を降りる。今日も今日とて駅構内は生徒で大混雑だ。冬服のブレザーの紺にまみれながら、俺は流れに乗って学校を目指していく。
するとその時、俺の前の方に見知った後ろ姿が見えた。その普段どおりではない出立ちに、俺は少々驚きながらも、足を早めて彼女のもとへ急ぐ。
「みなと!」
「……ほまれ、おはよう」
俺が声をかけると、みなとは立ち止まって俺の方に目を向けた。
いつもどおりに挨拶をしてくる彼女。その右足から見える包帯と腕に抱えた松葉杖に俺の意識は向いていた。
「もしかして、骨折とかしてた……?」
「いいえ、捻挫だけよ。ただ、お医者さんによると、足首を固定しなくちゃいけないみたいなの。だから、松葉杖をついているだけよ」
「そうなんだ」
骨折はしていないと聞いて一安心だ。だが、それでも彼女がこのような日常生活に支障が出るような怪我を負ってしまったことに、俺は少し申し訳なく思っていた。
「……ごめん、みなと」
「どうしてほまれが謝るのよ」
「だって、最初に俺が助けられていれば、みなとはこんな怪我をしなかったはずなのに……」
「ほまれのせいじゃないわよ。勝手にコケた私のせいなんだから、あなたが気負う必要はないのよ」
「……うん」
「それよりも、ほまれこそ大丈夫? かなり怪我が酷かったように思うのだけれど、もう完全に直ったのかしら?」
「うん、大部分はね。腕とかお腹とかは、みやびが直してくれたんだ。ただ……」
「……ただ?」
「耳が……ね」
ここで、みなとは初めて俺が猫耳ヘッドホンをしていることに気づいたようだ。彼女の視線が俺の頭頂部に注がれているのを感じる。
「……新手のファッションじゃないのかしら?」
「いや、これでもれっきとした耳の代替機器だよ。実は右耳だけ修理が間に合わなかったらしくて、今はこれで音を聞いている状態なんだ。ふざけていると思われそうだけどね」
「そうだったのね」
みなとは興味津々といった様子で、俺の猫耳を見つめる。
「猫耳かわいいわね。似合ってるわよ」
「そ、そう?」
「ええ」
みなとにそう言ってもらえるなら、満更でもないかな……。
「ちなみに、尻尾は生やしてないの?」
「さすがにそれはついてないよ!」
「残念ね、いっそのこと猫に振り切ったほまれも見たかったわ」
「これはコスプレじゃないよ!」
「ふふ、ごめんなさい、冗談よ」
いや、でもみなとが見たいというのであれば、検討する価値はあるだろう。
「ところで、この耳は自力では動かせないの?」
「どうなんだろう……やってみるか。ふん! ふん!」
俺は耳に意識を集中すると、気合いを入れて、動け! と念じる。しばらく格闘するが、ここで、俺は自分で自分の耳が動いているかどうか確認できないことに気づいた。
「どう? 動いた?」
「……動いてないわね」
「あー……残念」
「猫ちゃんはたいてい動かせるのよね」
そう言って、みなとは何の気なしにスッと俺の猫耳に手を伸ばしてきた。
あ、と思った瞬間にはもう遅い。みなとの手は、紙のようにサラッとした軽いタッチで俺の猫耳を撫でる。
「ふぎゃあぁあぁあ!」
「きゃっ!」
かのゾワっとした感覚が再来して、俺は人目も憚らず大きな奇声を出してしまう。その声に、みなとはビクッとなってこちらから一歩身を引いた。
「び、ビックリしたわ……」
「ご、ごめん。なぜかこの耳には触覚があるみたいで、触られるとスゴくゾワゾワするんだ……」
「そうだったのね、ごめんなさい」
「いや、いいよ。これから不用意に触らないでくれれば」
変な声を出したことで周りから注目されちゃったよ……。でも、あの奇妙な感覚を前にしたら声を出さずにはいられない。なんでこんな変な仕様にしちゃったんだよみやび! 一刻も早く直してくれ!
俺たちは校門から敷地内に入ると、昇降口まで続く通路を真っ直ぐ進み始める。
ここで、俺はみなとに昨日から気にかけていたことを尋ねる。
「ところで、なぎさちゃんは大丈夫? せっかく息抜きとして紅葉狩りに誘ったのにこんな事態になっちゃったから、かえって心が休まらなかったんじゃないかって……」
「なぎさなら大丈夫よ。確かに今回は少しアクシデントはあったけど、あまり影響はないと思うわ。今朝も普通に勉強に取り組んでいたわよ」
「そっか……大きな影響がなければいいんだけど」
今回の事故で一番とばっちりを受けたのは間違いなくなぎさちゃんだろう。息抜きとして登山をしたはずなのに、自分の姉とその彼氏が滑落してしまい、気が気でない時間を過ごすことになってしまったのだ。滑落した人たちはその日のうちに救助されたものの、姉は捻挫、そして彼氏は無惨にぶっ壊れてしまった。人によってはこれがトラウマになって山に登れなくなってしまっても不思議ではない。
「なぎさの心のケアは私も取り組んでいくつもりよ。だから、ほまれは心配しなくても大丈夫よ。気遣ってくれてありがとう」
「そっか……なぎさちゃんに俺の様子を聞かれたら、ピンピンしてるって伝えといてね」
「ええ、猫耳を生やした、とも言っておくわ」
「そんなこと言ったら混乱するでしょ」
俺たちは、昇降口で靴から上履きに履き替える。やはり片足が使えないのは不便なようで、みなとは靴を履き替えるのにかなり苦労していた。もちろん、何もせずぼーっと見ているわけにはいかないので、俺は彼女を手伝う。
カタン、カタンと松葉杖がリノリウムの床を突く独特な音が廊下に響く。階段をゆっくりと、一段一段登りながら、不意にみなとは口を開いた。
「そういえば、まだきちんと言ってなかったわね」
「何を?」
「……ありがとう。私をクマから守ってくれて」
「……どういたしまして」
「本当に感謝してもしきれないわ。あんなにボロボロになってまで、私を守ろうと奮闘してくれたんだもの。それで実際にクマも追い払ってしまうし」
「やめてよ、照れるなぁ」
「いいえ、やめないわ。あの一件で、ほまれは私にとって、もはや『命の恩人』といっても過言ではない存在になったのよ。この恩は私にはどうやっても返しきれないわ」
「…………」
唐突に階段のど真ん中で始まったのろけ話に、俺は羞恥と嬉しさで何も言えなくなってしまう。
みなとは少し興奮しているのか、立板に水のごとく、普段なら言わないような、のろけた言葉をスラスラと口にしていく。
「それに、あの時のほまれは本当にカッコよかった。惚れたわ。というか、自分を命懸けで守ってくれる男に惚れない女はいないわよ。まあ私は昔からあなたに惚れているけど、もっとあなたに惚れたし、もっとあなたのことが好きになったわ」
だから、と。みなとはここで言葉を区切る。そして、自分が白熱していることにようやく気づいたのか、顔を赤らめながら、少し恥ずかしそうに言った。
「これからも……その……よろしくね」
「……もちろん。こちらこそ、よろしく」
次の瞬間、朝のSHRの開始を告げるチャイムが鳴り響く。俺たちは急いでそれぞれの教室へ向かうのだった。