目が覚めると、見えたのは真っ白な天井だった。
それが自宅の天井ではないことにはすぐに気づいた。俺は記憶を探り、ここが研究所であること、そして自分が登山中に滑落し、クマに襲われ、中破して、助け出され、修理されようとしていたことを思い出した。
俺は起き上がると、自分の状態を確認する。
「なっ……!」
裸だった。服はおろか、毛布すらかけられていない。ただへそに太いケーブルが繋げられているだけだった。
あれだけぐちゃぐちゃになっていた体は、綺麗さっぱり直っていた。破断していた左腕からは、元どおりに左手が生えているし、木の枝が貫通していた左脚も元どおり。一番デカい傷だった左胸直下から右脇腹までの傷も、何事もなかったかのように、ツルツルになっている。ここまで綺麗に直されると、怪我どころか、あの遭難自体さえなかったかのような気がしてくる。
「おにーちゃん! おっはよーう!」
「うわ、びびビックリした……みやびか……」
すると、ドアが静かにスーッと開いて、みやびが元気よく部屋の中に入ってきた。俺は慌てて腕で胸を隠す。
「気分はどう?」
「まあ、大丈夫だけど……それより、その、着るものが欲しいんだけど……」
「え?」
「だって裸なの嫌だし……」
「私はお兄ちゃんの裸を見ても気にしないけど」
「俺は気にするの!」
「はいはい……じゃあ、服を取ってくるから待ってて」
みやびは部屋を出ていくと、三分後、服を手にして戻ってきた。
俺はみやびが持ってきたそれに着替えると、やっと一息ついた。
今は日曜日の午後七時。俺たちが救助されたのが土曜日の午後六時だから、ほぼ丸一日が経過したことになる。どうやら俺の体の修理は終わったらしい。みやびは本当に月曜日の学校に間に合うように直してくれたのだ。さすがすぎる。
「で、お兄ちゃん、どこか異常はない?」
「ん、まあ、大丈夫だと思うけど……」
見た感じ、俺が受けた損傷はすべて直っているようだ。しかし、俺は微かな違和感を覚えていた。
少しの間考えると、俺はやっとそれを言語化できた。
「なんか……みやびの声が大きく聞こえる」
「そう?」
「うん、大声で喋っているわけじゃないでしょ?」
「普通に喋っているけど……やっぱり強引だったかな」
「もしかして、耳の修理がちょっとうまくいかなかった……とか」
「んー、まあ、当たらずとも遠からず、ってとこかな」
すると、みやびは手鏡を取り出すとこちらに向ける。
そして、俺はそこに映り込んだ自分の姿を見て、驚きのあまり一瞬固まった。
「なにこれ……」
俺の頭に、猫耳が生えていた。
昨日のクマの攻撃で、俺は右耳が故障していた。もちろん、右耳を直接見ることは叶わないので、先ほどはその様子を確認できなかったが、他の壊れた箇所が直っていたので、右耳も元どおりに直っていると思い込んでいた。しかし、それはどうやら誤りだったようだ。
鏡に映った俺の両耳は、髪と同じ色のヘッドホンのような機械で全体が覆われていた。そしてそのヘッドホンのちょうど真ん中、頭頂部付近からは二つの三角形の突起が突き出している。その形はどう見ても猫耳をかたどっているようにしか見えなかった。
俺はヘッドホンを外そうと、両端の耳の部分を掴む。しかし、頭と一体化しているのか、外そうとしてもびくともしなかった。
「耳だけ修理が間に合わなかったんだ……だから、代替としてヘッドホン型の聴覚センサーを取り付けることにしたの。ごめんね」
「そっか……」
「もちろん、なるべく早めに元どおりにできるように努力するけど、ちょっと時間がかかると思う」
「……わかった」
今、俺はこの猫耳の部分で音を聞いているのだろう。人間の耳とは違って、この耳は完全に正面方向を向いている。だから、先ほど正面にいたみやびの声が大きく聞こえたのだろう。
「もしかしたら後ろの方の音が聞こえづらいかもしれないけど……」
「じゃあちょっと俺の後ろに回って、声を出してみてよ」
「うん、わかった……聞こえる?」
「……うん、問題ないかな」
みやびに後ろに回って声をかけてもらったが、少し小さくなるだけで、聞こえないわけではなかった。きっと、日常生活に支障は出ないだろう。
「あ、ちなみにお兄ちゃんの学校には、もう説明してあるから安心してね」
「手際いいな!」
中学生とは思えないみやびの根回しには脱帽だ。まあ、この格好で何の説明もなしに学校に行ったら、間違いなく先生から『それを外せ』と言われそうだしな……。とにかく一安心だ。
「じゃ、大丈夫そうなら家に帰ろっか」
「……そうだね」
これ以上ここにいる意味はない。俺たちは研究所から家に向かうことにした。
研究所の入り口でタクシーを捕まえて後部座席に乗り込む。
「そういえば、みなとは大丈夫? 何か聞いていない?」
「ああ、うん。命に別状はないって。お兄ちゃんと同じく、明日から学校に通うみたい」
「そっか……本当によかった……」
みなとの方も無事でなによりだ。俺はほっと胸を撫で下ろす。
「それにしても、お兄ちゃん、本当にスゴいね……クマを撃退するなんて」
「ああ、うん」
「どうやって撃退したの?」
「クマの攻撃で爆発しそうだったバッテリーをもぎ取って、投げつけたらどっか行ったよ」
「恐ろしくアクロバティックな方法だね……」
「本当に博打だったし、うまくいって本当によかった」
あの撃退法を思いつかなかったら、俺は爆散していたか、クマにやられて破壊されていたか……どうなっていたかわからない。さらに、みなとの命さえ危うかっただろう。
すると、みやびがポツリとこんなことを言った。
「やっぱり、お兄ちゃんには何らかの武器を持たせた方がいいかもしれないね」
「え?」
「もちろん、稀だとは思うけど、昨日みたいにクマに襲われるかもしれないし……あとは、街中で変態に襲われるかもしれないし、どこかのスパイに襲われるかもしれないでしょ?」
「でも、そういうときはAIを起動すれば……」
以前、サーシャに襲われた時、俺はAIを起動して撃退した。AIによる防衛システムはそれだけの戦闘力を持っているのだから、わざわざ追加で俺の体に武器を搭載する必要はないのではないか。
しかし、みやびは俺の言葉をバッサリを切り捨てる。
「昨日は起動しなかったじゃん」
「……」
「そういう危険な目に遭ったときに、AIを起動できるとは限らないよ。だから、焦っていても使えるような、もっと使いやすい武器を、お兄ちゃんの体に仕込んでおくことも考えた方がいいかもしれないね」
なんだか俺がどんどん人間離れしていくような気はするが……。しかし、みやびが言うことがもっともなのもまた事実。彼女の口ぶりからして俺にはまだそのような武器は搭載されていないみたいだが、今度のメンテナンスの時に搭載されるかもしれないな。
タクシーがようやく俺の家に到着して、俺たちは下車する。命の危険と隣り合わせで長い時間を過ごしたせいで、一日半しか空けていないのにこの家を見るのはなんだかとても久しぶりなような気がした。
「ただいまー」
「ほまれ! 無事に直ってるデス!」
玄関のドアを開けると、リビングからサーシャが顔を出した。そして、俺を見るなりスゴい勢いでこちらに抱きついてきた。
「ちょ、落ち着けって……」
「よかったデス……って、何デスかこのネコミミ!」
早速気づいたようだ。
「実はまだ耳が完全に直ってなくて……それで暫定的にこうなっtにゃああああああ⁉︎」
次の瞬間、背筋がゾワっとするような変な感覚が走ると同時に、俺はその場から後ろに飛び退いた。
サーシャは、ビックリした様子で目を見開き、両手を構えたような状態でこちらを見ている。
「どど、どうしたデスか、ほまれ?」
「いや……え……サーシャ、今、俺の耳、触った?」
「触ったデスが……ダメデス?」
「なんか、すっごいゾワっとした……」
今のは間違いなく、サーシャが俺の耳を触ったから引き起こされた感覚だ。まさか、この耳に触覚があるのか? 俺は後ろに立っているみやびに尋ねる。
「みやび、この耳って感覚通ってるの……?」
「え、うん。通した」
今までは耳を触られてもここまではならなかったぞ! どうしてこの耳はこんなに敏感なんだよっ!
「もしかして、なんか変な感じになってる?」
「うん……触られるとくすぐったいというか、ゾワっとするというか……とにかく嫌な感じ」
「あー……ちょっとそれは予想外かなー……」
みやびでもこうなることは予想できなかったらしい。
「ねえ、耳の感覚って切れない?」
「ちょっと難しいかな……元に戻るまで我慢して」
「うー……わかった」
仕方がない、なるべく人には触らせないようにしよう……。
「あ、今日の夕飯はお兄ちゃん作らなくていいからね、さすがに今日はゆっくりしてて」
「わかった。助かる」
俺はリビングのソファーに腰掛けると、グデーっと力を抜く。
まさかこの耳に触覚が備わっているとは思わなかった……。
ぼんやりそんなことを考えていると、リビングの入り口の廊下からこちらを見つめる金色の二つの目が視界に入った。
もしや、と思っていると、その二つの目の本体がリビングにのそのそと侵入してきた。俺はその正体を見て、テンションが上がる。
「あずさ……!」
こちらへゆっくり歩いてきているのは、我が家の愛猫、黒猫のあずさだ。俺が人間だった頃は散々可愛がってやったものだが、アンドロイドになった途端、見た目のせいか徹底的に避けられるようになってしまい、ここ数ヶ月は影すら見かけなかった。こうして俺の目の前に姿を現したのは、ほぼ半年ぶりとなる。
そんなあずさは俺にピタリと視線を合わせつつ、まっすぐこちらに近づいてくる。今まで姿すら見せないくらい嫌っていたのに、どういう風の吹き回しだ⁉︎
……も、もしかして、俺のこの、猫耳のおかげなのか⁉︎ これを猫耳と認識して、俺を同じ猫だと思って近づいてきてくれてる……ってコト⁉︎
今までこんな耳がついたことを微妙に思っていたが、どうやら俺はこれに感謝しなくてはならなくなるみたいだ。再びあずさと遊べるようになる日がやってくるかもしれないのだから。
しかし、油断は禁物。調子に乗ってこちらから近づくと、驚いてあずさが逃げてしまうかもしれない。せっかくお近づきになるチャンスなのに、そうなっては水の泡だ。だから、俺はこのまま何もしない。なんでもないフリをしながら、あずさが近づいてくるのを待つ。
その間にもあずさは順調に俺の方へ近づく。そしてヒョイと軽やかにソファーの上に乗って近づいてくると……。
「あずさちゃ〜nノヰミ゛!」
横っ面を思いっきり猫パンチされ、俺は衝撃でバランスを崩し、ソファーから転落した。ガタン! とデカい音がして、横転した視界の隅であずさが長い影になって一瞬で去っていった。
次の瞬間、音に反応したようで、みやびがすっ飛んでくる。
「だ、大丈夫お兄ちゃん⁉︎」
「大丈夫だけど……はぁ……」
どうやら俺は、猫は猫でも、敵の猫と認識されたようだ……とほほ。
あずさにお近づきになれるのは、まだまだ先のことになるみたいだ。