「はぁ……はぁ……」
なんとかクマを撃退できた。しかし、俺はものすごいダメージを受けてしまった。
まずは右耳。鏡がないので確認できないが、クマの攻撃によって耳介ごと機械が剥ぎ取られたようで、ずっとノイズが聞こえている。左耳が無事だからいいものの、右からの音はあまり聞こえないだろう。
そして、一番ダメージが大きいのが腹だ。服ごと肌を裂かれ、中の機械ごとかなりの部分を破壊されてしまった。幸いにもというべきか、なぜかというべきか、俺はまだ意識を保てている。もしちょっとでも壊れたところがズレていれば、即停止になってもおかしくはない、と思う。
腹からは俺を構成している──いや構成していたと言うべきかもしれない──機械が見えている。先ほどまでは冷却液やオイルなどの液体が破断したチューブから吹き出していたのだが、今は自動でどこかの防止弁がはたらいたようで、液漏れは収まっている。しかし、それまでに漏れ出した液体によってたくさんの部品が濡れ、不調を起こしていた。
「……ほまれ!」
「……みなと、大丈夫だっt」
俺はみなとに抱きしめられた。俺は嬉しく感じつつも、慌てて彼女を自分から離そうとする。力があまり出ないので、彼女を弱々しく押すことしかできなかったが、みなとはそれを感じてくれたのか、俺から離れる。
「みなと、気持ちはありがたいんだけどさ、俺から離れてほしいんだ……」
「どうして?」
「いや、感電したら悪いからさ……」
今は収まっているが、俺の体は俺から漏れ出した液体で濡れている。万が一みなとが感電してしまったらと思うと……。
「……ほまれ、このまま意識がなくなったりはしないわよね?」
「……うん、大丈夫。今、バッテリーが片方ダメになったから、ちょっと頭がぼんやりしているけど」
「それは大変よ! ……もしかして、ほまれのバッテリーってあれ?」
みなとが指差したのは、ここから数メートル離れた沢辺に落ちている、黒いバッテリー。俺がクマに投げつけたものだ。クマに当たった時は発火していたはずだが、今は鎮火したようで微かに白い煙をあげている。
「そうだけど、取りに行かないでね……熱いから。それに、今更俺の体に戻せるわけではないしね……」
「でも、電力が足りなかったらほまれは動かなくなっちゃうんでしょ? 私のモバイルバッテリーで充電できないかしら?」
「無理だよ……専用のケーブルがないから」
それに、たとえ俺のへそに充電ケーブルを繋げたとしても、どこかでケーブルが断線しているかもしれないし、下手したら発火してしまうかもしれない……。
…………。
…………。
「ほまれ! しっかりして!」
「はっ、ごめん……ぼーっとしてた」
「お願いだから、絶対気を失わないで……」
一瞬意識が飛んでいた。電力不足のせいで、思考がままならないのだ。このままでは、意識を保つのが難しくなるのは時間の問題だろう。
俺には、電力消費の無駄を省く必要があった。
俺は脳内で体に関するセルフチェックを行う。そして、左脚へ電力が送られていないことを把握した。確か、クマと戦っていた時はまだ動いていたから、その時点では下半身を動かす電力ケーブルに、損傷はあったかもしれないが電力が送られていたはずだ。とすれば、きっと冷却水で短絡を起こしたか、動いたことでケーブルが切れてしまったかのどちらかだろう。
電力を送っても動かないのであれば、わざわざ電力を送る必要はない。それに、この損耗具合ならばここから動くのは悪手だろう。俺は下半身へ電力へ送るのをやめた。
移動が困難になった代わりに、俺の思考は若干クリアになった。このトレードオフが成功だったのか失敗だったのかは、しばらくすれば自ずと判明するだろう。
みなとは再び泣き出した。
「お願いだから……ほまれ、ここにいて……」
「……大丈夫、俺はずっとここにいるから」
「本当? 絶対に、私より先にいなくならないでね……」
「……大丈夫」
俺はみなとの頭を撫でる。みなとが俺に抱きつくのは危ないが、俺から彼女を撫でるくらいなら大丈夫だろう。
みなとは不安なのだ。俺の意識が落ちてしまったら、きっと彼女はひどく取り乱し、狼狽するだろう。クマが襲ってくるような危ない状況で、ここにいるのは二人きり。俺の意識が飛んでしまったらみなとはひとりぼっちになってしまう。こんな状況、誰だって狼狽するだろう。例えるなら、ミステリー小説において、恐怖の館に閉じ込められた上に、他の人が皆殺されて最後の一人になってしまった、みたいな。
さて、このままの電力消費ペースと、電池残量から考えると……あと一日くらいは持つだろうか。それを考えれば余裕……だろうか? むしろ、一日しか持たない、と悲観的になるべきだろうか?
……とにかく、それまでに助けは来るだろう。この山はたくさんの人が登るくらいには人通りが多いし、人里に近い。しかも、みやびたちは俺に搭載されたGPSを通じて常に俺たちの位置を把握できる。助けに来れないはずがないのだ。
「…………」
「……みなと?」
みなとを撫でていた右手から反応がなくなったことに気づいて、俺はそちらに顔を向ける。右耳が壊れているせいで気づけなかったが、彼女はいつの間にか寝息を立てて眠ってしまっていた。疲れてしまったのだろう。いろんなことが立て続けに起こったのだから、そうなっても無理はない。
そして、曇天の空からは水の滴が降り始めていた。サーと静かな雨の音が谷間に響き渡る。幸いにも、この場所は巨岩のちょうど陰になっているので、俺たちが濡れることはなかった。もし濡れたらまた短絡して余計におかしくなるかもしれなかったので、一安心だ。
俺はみなとの頭を撫でながら、助けが来るのを待つ。
その間にもどんどん日が傾いているようで、だんだん空は薄暗くなっている。雨は小降りのまま、ずっと続いている。
俺の心に、ちょっとずつ焦りが募ってくる。本当に助けは来るのだろうか? 日が沈んだら、人工物の灯りが見えないこの場所は、本当に真っ暗になってしまう。
何も見えない暗闇は、人間の本能的な恐怖を呼び覚ます。なぜなら、人間が自らの身を守る情報のほとんどは視覚から入力されるものであり、それが塞がれることはすなわち、自らの身を守ることに『不安』を感じるからだ。しかも、それが中途半端に聴覚などが機能しているならばなおさらだ。聞こえるけど見えない、その状態が呼び起こす恐怖には計り知れないものがある。
とはいえ人間とは違い、俺には、可視光だけではなく赤外線や紫外線を視る機能が備わっている。それでも、暗闇に包まれるといわれると、かなり怖い。
時刻が十七時を回る。辺りはすっかり暗くなり、すぐ近くにあるみなとの顔を判別するのも難しくなってきた。カラーコードでいうなら#002b40くらいだろうか。
そんなことを考えていた時だった。不意に遠くから人の声が聞こえた。
それはどんどん近づいてきて、やがてはっきりと何を言っているのか聞こえるようになった。
「天野ほまれさーん! 古川みなとさーん!」
「聞こえていたら返事をしてー!」
岩陰から身を乗り出して、声のした下流の方を見ると、チラチラと小さなライトの灯りが見えた。
「みなと、みなと……!」
「ん……はっ、私、いつの間にか眠って……?」
「助けが来たよ! 声を出そう!」
「え、本当に?」
「そうだよ! ここでーす!」
「私たちは、ここにいまーす!」
俺たちは大きな声を出す。暗闇に響き渡る俺たちの声。もう視界がきかないが、他の人の声がどんどんこちらに近づいてくるのを聞いて、俺たちは安心感を覚えていた。
「大丈夫ですか!」
そして、その瞬間がついに訪れる。
俺たちの視界が、救助隊の人のヘッドライトの#FFFFFFで塗りつぶされる。
逆光でその人の表情は見えなかったが、きっとその人からは俺たちの安堵の表情が見えたことだろう。