沢を挟んで向かい側にいたのは、紛うことなくクマだった。
ツキノワグマだ。越冬を前にしてまるまると太っているので、まるで茶色い球体のように見える。しかし、可愛いなどとは言っていられない。体長は一メートル半、体重は少なく見積もっても百キロ以上はあるだろう。そんなヤツがこちらに突進してきたら、俺たちは十六ポンドのボールを前にしたボウリングのピンのごとく、あえなく吹き飛ばされてしまうだろう。
ここは動物園ではない。だから、俺たちとクマの間に遮蔽物などあるはずもない。あるのは白く流れる沢のみ。それを挟んで俺たちとクマはおよそ十メートルの位置で対峙する。
クマはこちらをじーっと見ている。
俺はどこかで聞いたクマへの対処法を思い出しながら、みなとに小声で指示を出した。
「みなと、落ち着いて……怖いだろうけど、クマから目を逸らさず、ゆっくりと岩の後ろに下がって」
「……わかったわ」
みなとが自分のリュックを持って、ゆっくりと下がる。それを横目で確認して、俺は両手を大きくゆっくり振り、そしてジリジリと後ろに下がりながら、クマの真正面に向かって、穏やかに声を出した。
急な動きはクマを刺激する。また、クマは意外と臆病だ。だから、こうして刺激をなるべくしないように自分を大きく見せることで、クマは自分から立ち去ってくれる……はずだ。
しかし、クマは全然こちらに怯える様子はない。振り向いてあっちに去ろうともしない。むしろこちらにゆっくりと近づいてくる。
……これはマズイかもしれない。
そもそも、こんな人の往来が比較的多い登山道の近くに、クマが出没することが異常事態なのだ。しかも、俺がクマに効くと言われる対処を実践してもほとんど効果がない。
ここで、最悪の可能性が俺の頭の中を過ぎる。
このクマは、俺たちを捕食しようとしているのではないか……!
俺が声のボリュームを大きくした次の瞬間、いきなりクマがこちらに突進してきた。
威嚇突進か、それとも本物の突進か……!
クマ避けスプレーがあれば、どちらにせよ突進を止められたかもしれない。しかし、残念ながら俺も、みなとも、さらに言えば残りの三人も、持っていなかった。
しかし、ここで逃げるわけにはいかない。後ろにはみなとがいる。ここで俺がなんとかしなければ、クマの照準は間違いなくみなとの方に向くだろう。そうなったら、絶望的なバッドエンドは避けられない。
かといって、このままクマの突進をモロに受けるのは危険だ。間違いなく後ろの巨岩に叩きつけられてしまうだろう。
俺はクマからの突進を避けるために、体を動かす。
「あっ……!」
しかしここで邪魔をしたのが俺の左脚。思いどおりに動かず、足がもつれる。
もう避けられない。そう判断した俺は、腕で体の前面にガードを作った。
次の瞬間、ものすごい衝撃とともに、俺は後ろに吹っ飛ばされた。
クマの体当たりだ。きっと、『車に跳ね飛ばされるような衝撃』とはまさにこのことを言うのだろう。
俺はアンドロイドだから、同じ体格の人間よりもはるかに重い。だから、運動量保存則から考えると相当の衝撃を受けない限り、俺は吹っ飛ばされることはないはずだった。
しかし、今回のツキノワグマは俺よりもはるかに重い。しかも自動車並みのスピードで突っ込んできた。そうなればさすがの俺でもその運動量を捌ききれない。
体にものすごい振動がきて、バラバラになるのではないかと錯覚する。しかし、もっと強い衝撃が来たのはその直後だった。
「がっ……rg`1@"3!?」
勢いよく後ろに吹っ飛ばされた俺は、そのままの速さで後ろの巨岩に叩きつけられる。
頭をぶつけたことで視界にノイズが走り、意識が明滅する。体の中からガキンと何かが曲がったり折れたりするような音がした。
もしこれがボクシングなら、レフェリーが相手選手の攻撃をやめさせて、俺が立ち上がるのを待つことになるだろう。しかし、自然界の戦いにそんなルールはない。レフェリーもいない。強いものはその強さを存分に振るうことができるのだ。
クマは俺が立ち直るのを待つことなく、そのまま立ち上がると、爪を振り翳してきた。
「ああーっ!」
次の瞬間、右側頭部に衝撃が走る。そして、頭のすぐ近くでバキンというパーツが折れるような音がしたかと思うと、ガガガガ、ザーが混じった音が響き始める。
俺はすぐに、クマの爪により俺の右耳がダメージを受けたのだとわかった。バラバラと肩に部品が落ちていく感覚がする。
今すぐにでも俺は逃げ出したかった。しかし、絶対に負けられない戦いが、ここにはあった。
だが、俺の圧倒的劣勢は変わらない。クマは俺に唾を飛ばしながら、俺を巨岩に押しつける。
「やめろやめろー!」
俺は腕を振り回すが、体勢のせいでうまく攻撃が入らない。一方、クマはもう一度腕を振り上げると、その鋭い爪で再度俺の体を抉ってきた。
「ああぁあ゛あ゛≤˜å†µ≥∂«“#!∂∑!」
俺の皮膚は、みやびによれば防水防火防塵耐衝撃素材でできているらしい。しかしながら、裂く力には弱かったようだ。
左胸の下あたりから、右の脇腹まで、ブチブチブチ! と耳障りな音が響く。そして、音がした場所からは形容し難い感覚が生まれた。痛みではない。そこにあったはずの感覚が、衝撃と共に消失していく、なんとも言えない気持ちの悪い感覚だ。
何を思ったのか、いったんクマが離れた。解放された俺は、巨岩にもたれながらもなんとか立った姿勢を維持する。
エラーが収まらない。俺は先ほどクマに攻撃された左胸から右脇腹の部分に手を当てながら、そこを見る。
「あ……」
そこには服も肌もなかった。ビリビリに破れた服の下の、ビリビリに破れた下着の下の、ビリビリに破れた肌の下、そこから見えていたのはぐちゃぐちゃに壊れた俺の体の中身だった。
冷却液か、何かのオイルのチューブが破れてビュービューと勢いよく吹き出して、俺の肌や中の機械を濡らしていく。チカチカとLEDライトが光り、ガガガガと明らかにヤバい音がする。さらに、ちぎれた配線からはバチバチとスパークが散っていた。
次の瞬間、俺の頭の中にアラートが鳴り響く。もちろん、実際に鳴っているわけではない。システムが俺の意識に知らせているのだ。
俺はその内容を理解し、緊急事態だと察知すると、すぐに体の中のその部位に触れる。
「あつっ!」
抉られた俺の腹の最奥、ほぼ背中側と言っても差し支えない場所に、ぶっとい配線に繋がったそれはあった。二つ一組で俺の背中側に入っている、俺の生命線、大容量バッテリーだ。
その右のバッテリーが、先ほどの攻撃でひしゃげ、短絡を起こしていた。そのせいで熱暴走が始まっていたのだ。
このままでは発火してしまう。運が悪ければ爆発、そうなれば俺は体の中からバラバラに……!
しかも、それだけではない。目の前では再びクマがこちらに突進してこようとしている。片方のバッテリーがおかしくなっていて、出力が低下してきているため、もはや力勝負では勝てないだろう。俺はだんだん低下していく意識レベルの中、そんなふうに思った。
ここまで、か……。
「……れ!」
いや、ダメだ……。
「……ほまれ!」
俺は、ここでくたばるわけにはいかないんだ……!
再び、突進してくるクマ。俺は意を決して自分のお腹の中に右手を突っ込むと、配線を掻き分けてものすごく発熱しているバッテリーを掴む。そして、力任せにそれをぶっちぎった。ブチブチと配線がちぎれ、頭の中にたくさんのエラーが出てくるが、そんなものはすべて無視だ!
手が溶けるかと思うくらいの熱を感じながら、俺はクマに目線を合わせる。暗闇に吸い込まれそうな意識を集中させて、しっかりと狙いを定めた。
そして、投擲。
俺が投げた発火寸前の爆弾と化した大容量バッテリーは、クマの鼻にクリーンヒット。そして、俺の狙いどおり、ぶつかった瞬間に発火し、大きな炎をあげた。
野生動物は、火に臆病だ。目の前のクマからしたら目と鼻の先でいきなり炎が上がったのだ。確実に火傷を負うだろうし、そうならなかったとしても十分ビビらせる効果はある。
そして想定どおりに、クマは発火したバッテリーにビビった様子で立ち上がると、そのまま踵を返して猛然と元の森の中へ姿を消した。
「は、はぁ……」
俺はズルズルとその場にへたり込んだ。
こうして、多大な犠牲を払いながらも、俺はなんとかクマに勝利したのだった。