「……私、ほまれに謝らなければいけないことがまだ残ってるの」
「え……?」
不意にみなとがそんなことを言い出した。
「私の不注意で、あなたまでもここに落ちてしまったことよ」
「それは……しょうがないじゃないか」
「だけど……私が足を滑らせさえしなければ……楽しい登山になっていたはずなのに……」
みなとはまた俯いて泣き出した。確かに、そのことに責任を感じてしまうのは仕方ないのかもしれない。
でも、と俺はみなとの背中をさすりながら、声をかける。
「あの状況で足が滑ってしまうのは仕方ないことだったと思うよ。大小の差こそあれ、皆滑っていたじゃないか。みなとは、運が悪いことに、滑ってバランスを崩してしまっただけなんだよ」
「でも、何も悪くないあなたまで巻き込んでしまったじゃない……」
「それは、みなとのせいじゃないよ。みなとのリュックサックを掴もうと手を出したのは俺の意思だし、結果的にはうまく助けられなかったけど……俺の助けたいと思った気持ちまでもがみなとの責任ではないよ。少なくとも、俺にも責任の一端はある」
それよりも、と俺は言葉を続ける。
「まずは、ここから生きて帰ることが一番大事だよ。後悔と反省はその後にしよう」
「…………うん」
正直、俺があの時、滑ったみなとに手を貸さず、彼女が落ちていくのをただ見る、という選択もできたと思う。しかし、そんな世界線が嫌だったから、俺は迷わずに彼女のリュックを掴む選択をした。その瞬間、その行動をとった俺にも責任は生じているはずだ。結果的に今このような状況になっているわけだが、この判断は間違っていなかった、と俺は確信している。俺が取れた選択肢の中で最善の判断だった、と胸を張って言える。
すると、ぐぅ〜とお腹が鳴る音が聞こえた。俺はそもそもお腹が減らないし、明らかに自然界の音にではない。
俺はみなとの方へゆっくりと顔を向けた。彼女は相変わらず俯いたままだが、耳が真っ赤になっている。恥ずかしいのだろう。
「……お腹、空いてるの?」
「…………うん」
「なんか食べ物なかったっけ……」
俺は自分のリュックサックを探そうとするが、手元にないことに気づいた。そういえば意識が戻ってから自分のリュックを一度も見ていない。滑落した時にどこかに行ってしまったのだろうか。
一方、みなとのリュックサックはこの場にある。俺が発見した時、みなとは運のいいことに自分のリュックを背負ったまま倒れていたのだ。そのままおんぶしてこちらに連れてきたので、今みなとの隣においてある。
幸いにも、みなとのリュックはほぼ無傷の状態だ。どこかに引っかかってビリビリになったりバラバラになっていてもおかしくなかったことを考えると、本当に不幸中の幸いである。
「その中に食べ物ないの?」
「……あるわよ。お菓子しかないけど」
みなとはジーとチャックを開ける。すると、その中には山ほど詰め込まれたお菓子が見えた。
「スゴ……よくこんな持ってきたね」
「この前、遊園地で私が貰った分と、あなたがくれた分よ」
「あー、それか」
それだったら確かにこんな量でもおかしくはない。
みなとは衝撃で凹んだお菓子の箱を取り出すと、それを開けてパクパクと食べ始めた。
こんなに量があるなら、しばらくは食うに困らないだろう。それに、近くには沢の水がある。水分にも困らないはずだ。
ちなみに、俺のリュックの中には水しか入っていない。みなとのお腹を満たすようなものは残念ながら持っていなかったので、この場にあってもあまり意味はなかった。
「ところで、俺のリュックはどこに行ったんだ……?」
どこかの木にでも引っかかってしまっているのだろうか? あるいはバラバラになって流されてしまっているのだろうか? 後者でないことを祈りつつ、俺は自分が倒れていた場所の周辺を、この場から目視でくまなく捜索する。
「……あった」
すると、岩場の上に俺のリュックが落ちているのを発見。俺が倒れていた場所から、みなとが倒れていた場所とはちょうど反対の方向に少し離れた場所に落ちていた。岩陰で目立ちにくい場所だから、気づかなかったのだろう。
「ひっ!」
すると、俺と同じ方を見ていたみなとが俺に抱きついてくる。怯えた声をして、ちょっと震えている。
「ど、どうしたんだみなと……?」
「あ、あれ……人の……」
みなとが指を差す方向に俺は視線を向けた。俺のリュックがチラリと見える岩の下、沢辺に肌色のものが見える。みなとよりも分解能の高い俺は、きっとみなとよりもそれをはっきり捉えることができたことだろう。
手だ。
地面に突き刺さった肌色の細長い物体。いや、実際は地面に突き刺さっているというよりは、岩の間に挟まっている、というのがきっと正しいのだろう。
しかし、あれが本物の人の手ではないことは、俺にはすぐにわかった。きっとみなとの目では本物に見えてしまったのだろう。無理もないことだ、相当目がよくないと、人間の手ではないとはわからないだろう。
なぜならば、切断された手の肘関節側から、何か細長いものが飛び出しているのが見えるからだ。あれは筋繊維でも神経でも骨でもない。実物はすべて生涯で一度も見たことはないが、明らかにそれではないことは素人の俺でもすぐに理解できた。それは、俺にとってはもっと見覚えのあるもの、つまり、おそらく関節部分に当たるメタリックなパーツと、その周辺にある、ちぎれてブラブラしている色とりどりの配線やチューブだった。したがって、あの手は何かというと……。
「俺の手だ」
破断した俺の左手、あんなところにあったのか……。
ここからあそこまではあまり距離も離れていない。なんとか取りに行けそうだ。
「……みなと、取りに行っていい?」
「……なるべく早く、戻ってきてよね」
「わかった」
俺は立ち上がると、ジャブジャブと沢の中に入っていく。
途中でよろけて転びそうになったが、なんとか耐えて沢を横断する。
「よっ……と!」
背伸びをして、岩の上の自分のリュックを取る。残念ながらみなとのリュックのように、綺麗に形を保っているというわけにはいかなかった。どこかに引っ掛けて破れてしまったのか、片方の肩紐がちぎれてしまっていた。左側がちぎれていたので、きっと腕が壊れたと同時に壊れたのだろう。
幸い、それ以外にリュックに壊れた部分はないようだった。俺は右腕にリュックを引っ掛けると、今度は左手の回収に移る。
遠目で見たとおり、岩の間にはまっていたのは俺のちぎれた手だった。俺は右手でそれを引っこ抜くと、すぐにまた沢を渡ってみなとのところに戻る。
リュックを置くと、俺は回収した左手を改めて観察する。
こうしてみると、本当によく作られているなぁ……。まるで本物の人間みたいだ。でも、本物みたいに産毛が生えていたり、どこかにほくろやシミがあったりするわけではない。そう考えると、やはり人工物っぽく見える。
手は、パーの形で固定されている。きっと切断された時、無意識にこの形にしていたのだろう。俺は指を動かす。滑らかに動く。
これが、俺の手なのか……。一時間前までは俺の体と連続していたはずなのに、切り離された今の状態では、まるでまったく別の、自分ではないものに見える。俺の体の一部のはずなのに。それならば、俺の体っていうのはいったいどこまでがそれなんだろう? 切り離されただけでこんなに別物感が出てくるものなのか?
……待て待て、こんな哲学的な話は後だ。思考の蟻地獄にはまりそうな気がしたので、俺は強制的に考えるのをストップする。
「くっつくかなぁ……」
俺は左手を、自分の切断面に押し当てる。ガチガチ、と金属音が鳴るが、くっつかない。当たり前だ。綺麗に外されたわけでもなく、外から無理な力が加わって破断したのだから。
「はぁ……」
しょうがない。後でみやびにくっつけてもらうか……。俺の力でくっつけるのは無理そうだ。不本意ながらも俺はそれを自分のリュックにそれをしまった。
すると、みなとが俺に体を寄せてくる。
お、なんだなんだ⁉︎ ちょっとドキドキしてしまう。
しかし、そんな浮かれた気分は、次の彼女の一言で一瞬で消え失せた。
「……何か変な臭いがする」
「え?」
「……獣の臭いね」
言われてみれば、獣の臭いがする。動物園で感じられるような、あの臭いだ。
だが、今感じるのはそれよりもはるかに、ずっと濃い。まるで、至近距離に獣が迫ってきているかのような──。
「ほ、ほまれ……」
みなとが驚きと恐怖が入り混じったような表情になる。目を見開き、一点を見つめている。ものすごくいやーな感じをビンビン感じながら、俺は彼女の視線の先を見るために振り返る。
沢を斜めに挟んで上流側。そこからこちらを見つめている生物がいた。
俺は思わずその生物の名前を呟いた。
「……く、クマだ」