どうにもできぬまま、十四分と三十五秒が経過した。
みなとはまだ泣いているが、だいぶ落ち着いたようだ。さっきよりもしゃくり声が小さく、長くなっている。
「…………い」
「……え?」
「……ごめんなさい、酷いことを言って」
みなとは涙ながらに俺に謝ってくる。俺はまだ、心の中がぐちゃぐちゃで、何と言えばいいのかわからなかった。
俺はその場に座り込んだ。みなとの正面の、平らな岩の上だ。座るときに左脚からは変な音がしたが、きっとまだ大丈夫だ。根拠はないが、まだ立ち上がれる。
座ったことで負担の少ない姿勢になったおかげか、頭の中のうるさいエラーが減った。そのおかげか、思考もクリアになり、俺の気持ちも落ち着いてきた気がする。
みなとはただ俯いているだけだ。こちらから彼女の表情を窺うことはできない。
しばらくの間、水が轟々と激しく流れる沢の音だけが聞こえる。
気持ちは落ち着いてきたが、むしろみなとに何と声をかけるべきなのか、ますますわからなくなってくる。俺はいったいどうするのが正解なのか……。
「怖かったの」
「え?」
みなとがポツリと呟いた。やっと掴んだ会話の糸口。いったいどういう意味なのか、俺は聞き返す。
みなとはゆっくり、ポツポツと話し始めた。
「今まで、私はあなたがアンドロイドになったのを、受け入れたと思っていたの。受け入れていたはずだったの。だけど、さっきわかったのよ。本当は、ただ受け入れていたつもりだった、って」
「…………」
この体になってから七ヶ月。家族以外では、一番長い時間を過ごしてきたのがみなとだった。
「……信じたくなかったのよ、ほまれが人間でないってこと。ほまれが人間であることを、信じていたかったのよ」
「…………」
「今までは、ほまれが人間でないところが見えていなかったから、まだ耐えられた。だけど……」
「……だけど?」
「見てしまったのよ。今のあなたを。その左腕と左脚」
俺は改めて自分の腕と脚を見る。左腕はちぎれているし、左脚は枝が貫通している。これでもなお、俺は人間であると言い張ることはできないだろう。
「だから、認めざるをえなかったわ。あなたが本当に人間ではないって。本当に、私の大切な人は、人間じゃなくなってしまったんだって」
「……だから、だったのか?」
「……ええ。それを見たとき、ほまれがほまれじゃないと思ってしまったの。変よね、もう半年以上もそばにいて、わかっていたはずなのに……。あなたが、あなたの形をした別の『何か』だと思ってしまった」
俺がアンドロイドになってしまったことを、みなとはさっき、初めて実感した。そして、そのことにショックを受けてしまった……ということだろうか。
ショックを受けていたのは、俺だけではなかったのだ。
「だから……だから、あんなことを言ってしまったの。本当にごめんなさい」
みなとは土下座をした。俺はそれに慌てる。
「みなと……! やめてくれ! 顔を上げて!」
そんな、土下座をされるようなことをされた覚えはない。
「俺は別に怒ってないし、謝ってほしいわけじゃない!」
まあ、確かにショックは受けたけど……みなとの気持ちはとてもよくわかった。彼女の自分の感情に対する言語化能力が高かったから、俺でも十分理解できた。その気持ちは十分納得できるもので、俺がもしみなとの立場でも同じようなことを考えてしまうかもしれない。
……というか、そもそも、今、俺はこんなことをしている場合ではない。
俺とみなとは登山道から沢の岩場に転落した。そして、俺は体の一部が破損してしまった。ではみなとは? 目立った怪我は見えないが、実はどこかに怪我を負っているかもしれない。
俺はみなとの座っている岩に移動する。
「もうその話はいいから……怪我は? 立ち上がれる?」
「た、立てない……」
「どこが痛いの?」
「右足首」
俺はみなとに体勢を変えてもらい、彼女の右足首を見せてもらう。確かに右足首が赤くなっている。捻挫しているのだろう。とにかく、これから腫れてしまうだろうから、とにかく冷やさないと。
しかし、このままではみなとはまともに立てないだろう。俺は彼女に背中を向けるとしゃがみ込んだ。
「……ほら」
「ほまれ……」
「……乗って」
「でも……」
「いいから、大丈夫だから」
二十一秒後、俺の背に体重がかかる。
俺は立ち上がって沢の方へ向かおうとする。
「……う!」
俺の左脚からミシミシと嫌な音がした。バキとかブチとかまた何かが壊れるような音がして、脚が再び濡れていくような感覚がする。
みなとの視点からは見えないはずだが、俺の異常を察知したらしく、俺の肩を叩いてくる。
「やっぱり下りるわ、下ろしてちょうだい」
「だい、じょうぶ……!」
ここで俺がやらなきゃ誰がやるんだよ……!
俺は足場の悪い岩場を、慎重に、慎重に沢の方へ下りていく。そして、水辺の開けたスペースまでなんとか下りた。
みなとは自分の右足を沢の冷たい水につける。これで、少しはマシになればいいのだが……。
「……他は大丈夫? 右足以外にどこか怪我してない?」
「……ええ、大丈夫そうだわ」
「ならよかった」
「……ほまれは、どうなのよ」
「え?」
「左脚と、左腕以外は」
みなとは自分の右足を見ながら、俺に尋ねる。
俺はもう一度自分の体をチェックする。左腕と左脚以外、大きく壊れた箇所はないようだ。バッテリー残量もまだたくさん残っている。
「ひとまずは大丈夫そう」
「そう、ならいいけど」
俺は上を見る。相変わらずガスが漂っていて、上にあるはずの登山道は見えない。どのくらい落ちてきたのか、自分が今どこにいるのか、よくわからない。
「なぎさたちは、もう行ってしまったかしら……」
「……みやびー! なぎさちゃーん、サーシャ!」
とりあえず、登山道がある方へ向かって叫んでみる。しかし帰ってくるのは虚しい自分の声の反響だけ。何の反応もない。助けに下山しに行ったのだろう、そう信じたい。
「みなと、電話は?」
「……圏外ね」
みなとは首を振る。スマホも圏外みたいだ。
念のため、俺もみやびに電話をかける。腕相撲イベントのときにもやった、脳内電話だ。しかし、みなと同様、電話は繋がらなかった。
あの登山道は、細い上に急だから、あまり人が通らないはずだ。このまま助けを求めて叫び続けてもいいが、登山客たちに声が届く可能性は低いだろう。そもそも何メートル落ちてきたのかすらわからないので、この声が届いていないかもしれない。それに声が届いたとしても、こんな急斜面を下ってまで助けにくるのは不可能だろう。
というか、俺たちが滑落したのを、他の三人は確実に知っているのだから、今頃助けを呼びに行ってくれているはずだ。
それに、俺にはGPSが搭載されている。腕相撲イベントでトイレにこもっている時に、それが存在しているとみやびが何気なく言っていたことを覚えている。これが作動しているのなら、みやびはこちらの位置を常に把握できるはずだ。
「俺たち、どの辺に落ちたんだろう……」
「……たぶん、この辺じゃないかしら」
みなとが荷物の中から地図を取り出す。逐一地図を確認しながら下山したわけではなかったので、正確な位置はわからない。しかし、通過したポイントや登山道の形状から、俺たちが滑落した場所、そして俺たちが今いる場所は大まかに把握できた。
「……移動する?」
みなとが俺に問いかける。
地図上では、沢沿いに下っていけば登山道に合流できるはずだ。
しかし、この状態で移動するのは困難だ。沢沿いには登山道なんか整備されていないので、まともに歩けるとは思えない。
それに、ここから動いてしまえば、滑落地点という貴重な目印を自ら捨てることになり、救助に来てくれた人が俺たちを探しづらくなってしまうだろう。
「いや、このままここに留まろう。その方がいいと思う」
「……わかったわ」
この判断が吉とでるか、凶とでるか。今の俺たちに、そんなことはわかるはずもなかった。